そして翌日、いよいよ検査の最終日となる。
体調も睡眠もバッチリの杏樹は挑むような気持で職場へ向かった。
開店前、2階の会議室では検査部から派遣された6名が最終ミーティングをしていた。
検査部のリーダー格の男性はこんな風に言う。
「この店は全てにおいて特に問題はないようだ。前回の検査ではいくつか指摘があったようだが全て改善されている。いやぁ、完璧としか言いようがないよ」
「そりゃあそうでしょう。だってこの店にはアノ黒崎優弥がいるんですよ? 不備なんてあるはずがない」
「黒崎さんが常に完璧なのは本部でも有名ですからねぇ。なんてったって超スーパーエリート銀行マンですから」
「僕、黒崎さんに憧れていたので今回直接お会い出来て光栄でしたー」
若い男性行員は嬉しそうだ。
「それに我々検査部への資料提出は素早いし、どれも見易く整理されている。お陰で我々の作業もはかどりもうほとんど終わっちゃいましたよ」
「ハハッ、そうだな。こんなに早く終わるとはな。これなら文句なしで高評価をつけられるだろう」
行員達は頷く。
その時ずっと黙っていた藤原京香が口を開いた。
「私は一つ気になる点があるんですけれど」
「気になる点って何ですか?」
「窓口の応対が少しおろそかなんじゃないかと」
そこで男性行員の一人が口を開く。
「私が見た時は特に問題はなかったように思いますよ? むしろ丁寧な対応かなぁと」
「私もそう思いました」
しかし京香は引き下がらない。
「支店の窓口係は銀行の顔でもあるんです。その窓口係の応対が適当だとお客様の信頼を失います。つまり銀行全体の信頼を失いかねないかと。それにこの店の窓口係……特に元方の隣にいる行員の対応がかなりずさんかなぁと見ていて思いました。型にはまったマニュアル通りの対応なんですよねー、あれは酷いです。だからそこをもう一度チェックして欲しいです」
京香の説明を聞き男性行員達はしきりに首をかしげている。他の行員達はそうは思っていないようだ。
そこでリーダーが言った。
「藤原さんがどうしてもと言うならまだ時間も余っている事だし午前中は窓口業務の接客をもう一度重点的に見てみましょうか? それなら藤原さんも納得出来るかな?」
「はい、お願いします」
「じゃあ午前中は皆で窓口の接客対応を再度チェックしましょう。よろしくお願いします」
「「「はいっ」」」
そこで検査部の6名は一斉に1階の営業フロアへ下りた。
その頃開店準備を終えた杏樹と美奈子、そして真帆とパートの西野は椅子から立ち上がり客を迎え入れる用意をしていた。
シャッターが上がると同時に朝一番の客が入ってきた。
「「「いらっしゃいませ、おはようございます」」」
フロアにいた行員達が一斉に挨拶をする。もちろん後方からは優弥の低い声も響いてきた。
窓口係は一斉に一番客の応対を始める。
その時ぞろぞろと検査部の行員達が業務フロアに入ってきた。
それに気付いた美奈子が小声で言う。
「なんで? また窓口をチェックしに来たの? 初日に見てたのに」
「ほんとだ…それも検査部全員で?」
「こんな事初めてよ。なんだろう、なんか嫌だなー」
すると杏樹の左側にいた新人窓口係の真帆が不安そうに言う。
「嫌ですぅー、見られると返ってミスしちゃいそうですもん」
「本当です。私なんてもっと不慣れだから皆さんにご迷惑をかけたら申し訳ないわ」
パートの西野も不安そうだ。そこで美奈子が皆を励ます。
「大丈夫よ、いつも通りやれば! みんなスマイルスマイル!」
美奈子の励ましに三人は頷いた。そして接客を続ける。
しばらくすると三村生花店の三村が大きなコスモスの花束を抱えて店に入って来た。
三村はいつものように杏樹の窓口へ向かったが杏樹が接客中だったので隣の美奈子の窓口へ行く。
「美奈子さんおはよう!」
「三村様、おはようございます。うわーっコスモス綺麗ですねぇ。でもどうしたんですかそんなに抱えて」
「これねぇ、うちの夫が間違えて発注しちゃったのぉー。だから日頃お世話になっている銀行さんへ持って行けって!」
「ええっ? でも売り物でしょう? だったらお店で売ったらいいんじゃ?」
「うん、店の分はちゃんと避けてあるわ。それでもまだこんなにあるのよ。それにコスモスってあまり日持ちしないしブーケにも不向きだからさぁ、貰ってくれると助かるんだー。確かこの銀行のシンボルフラワーはコスモスだったわよね? だからちょうどいいでしょう? お店に飾ってよー」
「本当にいいんですかぁ? あ、ちょっとお待ち下さいね」
そこで美奈子は北門課長に三村の厚意を伝えに行く。すると課長が窓口まで来て三村に聞いた。
「三村様、本当によろしいんですか?」
「はい。おたくにはいつもお世話になりっぱなしですから」
「いや、大変恐縮です。では有難く頂戴させていただきます」
北門課長は三村に深々とお辞儀をすると大きな秋桜の花束を受け取る。そして後方にいたパート行員に花束を渡した。
「今後ともどうかご贔屓の程よろしくお願い致します」
「こちらこそ」
「では三村様、しばらくお掛けになってお待ち下さい」
「はーい、よろしくぅ」
三村はソファーへ向かった。
もちろん今のやり取りは検査部の男性行員が間近で見ている。
(客とのコミュニケーションもばっちりだし何よりも信頼されている感がある……それなのに藤原さんは何であんな事を言うのかなぁ?)
男性行員は首をひねっていた。
その時接客を終えた杏樹は次の番号札の客を呼んだ。
杏樹の窓口には杖を付いた70代の男性がゆっくりと向かって来る。
男性は窓口まで来るとバッグから何かを取り出そうとした。しかし片手が使えないのでうまく取り出せない。
そこで杏樹は美奈子に言った。
「ちょっと一瞬外に出ますね」
「はーい」
杏樹は机の前にある扉の鍵を施錠すると、一旦窓口を離れてカウンターの外に出た。
そして杖をついた男性客に優しく伝える。
「お客様、よろしかったらお手伝いいたしましょうか?」
「すまないねぇ、片手だと何かと不便で……。バッグに入った通帳と紙袋を出してもらってもいいかな?」
「承知いたしました。では失礼いたします」
杏樹は言われたように客のバッグから通帳と紙袋を取り出した。
「助かったよありがとう。実はね、以前も君に感じの良い応対をしてもらったので今日は証券会社に預けていた分をこちらへ移そうと思ってね。ここにある現金を定期預金か何かで運用してもらえないだろうか?」
杏樹は驚く。紙袋の大きさを見ると軽く2000万円は入っていそうだ。
「わざわざ現金で引き出して持って来て下さったのですか?」
「うん、株は全然儲からないしねぇ……今証券会社に行ってそのまま来たんだ」
「ありがとうございます。でもお一人で大金を持ち歩かれるのはかなり危険ですので、もしまた同じような状況がございましたら一言お声がけいただければ当行の職員をお供させますので」
「おお、そういう事も頼めるのか、それは助かるな。わかった、次は是非とも頼むよ」
そこで優弥がすかさず後ろから出て来て男性客に名刺を渡した。
「いらっしゃいませ。私副支店長の黒崎と申します。お預かりした現金を数えるのに少々お時間がかかると思いますのでよろしければ応接室の方へどうぞ。そちらで金融商品についての詳しいご説明させていただきますので」
「そうですか。じゃあちょっとお邪魔しようかな」
そこで優弥は沙織にコーヒーを頼んでからカウンターの外へ出て男性客を応接室へ案内した。
優弥が去り際に杏樹が声をかける。
「副支店長ありがとうございます」
「うん、こっちは大丈夫だから」
優弥はとびっきりの営業スマイルを見せる。
(うわぁ、素敵!)
杏樹がドキドキしていると美奈子が小声で囁く。
「副支店長って本当に紳士だよねぇ……マジ座ってるだけの前の副支店長とは大違い!」
その言葉に杏樹はフフッと笑う。
その光景を見ながら京香は奥歯をキリキリと噛みしめていた。
(なんなのあの女っ! マジムカつくぅーーーっ)
京香は窓口応対の酷さを仲間に知らしめようとしたのに、杏樹や美奈子のせいで逆効果になっている事に気付いた。
無性にイライラしている京香の目の前を可憐なコスモスの花がフワフワと揺れながら横切っていく。
年配のパート行員が先ほどのコスモスを皆の机に置いていくのを京香は恨めしそうに見つめていた。
その時、今度は新人テラーの真帆が杏樹に囁いた。
「杏樹先輩、あのキャッシュコーナーのおばあちゃんってもしかしてオレオレ詐欺じゃないですよね?」
杏樹がキャッシュコーナーを見ると80代くらいの女性がスマホに耳を当てて操作をしている。
「あっ、あれはマズいかも! 真帆ちゃん確認した方がいいかも」
「わかりましたっ!」
真帆はカウンターの外に出るとすぐにキャッシュコーナーへ向かった。そして高齢の女性客に声をかける。
その後女性をソファーへ誘導すると真帆は隣に座って熱心に語りかけた。
途中課長補佐の木村も応援に駆け付ける。
女性は二人の助言に従い一度そのアヤシイ電話を切るともう一度誰かに電話をかけ始める。女性は息子に電話をしているようだ。
「もしもし、孝弘かい? あんた交通事故を起こしたって本当なの? えっ? 起こしてない? そうなの?」
放心状態の女性が木村に電話を渡したので、木村は女性の息子に今の状況を説明した。
真帆が思った通り女性が受けていた電話は本物のオレオレ詐欺だった。その被害を真帆は間一髪で止めたのだ。
後の処理は木村が引き継ぎ真帆が窓口へ戻って来た。戻って来る際ロビーにいた客達から拍手が送られる。
その場にいた来店客は全て把握しているようだ。
恥ずかしそうに戻って来た真帆は杏樹達に興奮気味に言った。
「びっくりしました。本物のオレオレ詐欺だったみたいです」
「うわー、真帆ちゃんお手柄!」
「やったね、真帆! 警察から感謝状が来るぞー!」
そこで真帆は瞳をうるうるさせながら言った。
「おばあちゃんが騙されなくて良かった。それに…私今初めて思いました。銀行のテラーをやっていて良かったって…」
真帆は今にも泣きそうな顔だ。しかしその瞳は自信に溢れている。真帆はもうすっかり一人前のテラーとなっていた。
そんな真帆の肩を杏樹はポンポンと優しく叩き、美奈子と西野はうんうんと頷いて優しい瞳で真帆を見つめていた。
その時検査部のリーダーが1階のフロアにいる仲間に目くばせをした。その合図で検査部の男性行員達は2階へ引き上げて行った。
京香だけはなぜか強い敗北感を覚えながら少し青ざめた表情のままよろよろと2階へ向かった。
コメント
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「なんなのあの女っ」て、読者はあんたのことを思うてるで。
素晴らしい👍スカッとしました。
はい,藤原とやらさっさと荷物を持って帰りなはれ!