少し時間は遡り。サファイアと分かれた直後の詠心が、嬉しそうな表情で1人帰路についていた。
(本当に今日は楽しかったなぁ。友達がいたらあんな感じのやり取りが出来るのかな?)
(また乙辺さんと喋れたら…)
(あんな風にセレナさんの事や、神子の話が出来るなんて…)
彼はピタリと足を止める。詠心はサファイアが別れ際に見せた既視感のある笑顔を、胸が苦しくなるような感情と共に思い出していた。
(あの笑顔……。それに…)
サファイアが乙辺と聞いた時の反応を思い返す少年。詠心はおもむろにスマホを取り出した。彼は検索エンジンを開き、自分を助けてくれた空色の瞳と髪を持った少女の名前を入力する。
「……」
詠心が見付け出したもの……それは毎日何百何千と更新されていくネットニュースの1記事だった。その見出しには『伝説の神子!その娘は平凡以下の落ちこぼれ!』と書かれている。詠心は無意識にスマホを握り締めた。
(もしかして彼女も…、僕と同じ……)
◆
「はぁ…。僕は何を……」
次の日、詠心は生臭いその場所にいた。そこはステージ…ではなくただの裏路地。昨日、フードを目深に被った人物と彼が出会った場所だった。詠心は頭の後ろにある符尾のような髪を、落ち込んだ犬のように垂れ下げながら両手で頭を抱えている。
彼の脳内は昨日から1人の少女の事でいっぱいだった。そんな彼女の髪色のような空を見上げ、再び溜め息を吐く詠心。
(大体どうするんだ?)
(彼女と接点もない。それに何より…)
(僕がいた所で、何の取り柄もない人間に出来ることなんて…)
昨日の夜、彼は帰宅してから伝説の神子である乙辺セレナとその娘である乙辺サファイアについて、沢山のネットニュースを確認していた。だがそのどれもが、サファイアを落ちこぼれだと揶揄する記事ばかりだったのだ。
(それに…僕はどうしたいんだ?)
その言葉が昨日からずっと彼の頭を悩ましている。
(彼女も僕と同じ落ちこぼれだから、仲間意識でも感じてるのか? だとしたら人として最低過ぎるだろ…)
そんな風に思ってしまった瞬間から、彼は今この場にいる事すら何か悪い事でもしているかのような錯覚に陥っていた。
(あぁー駄目だ! こんな状態で会ったって仕方ない!)
「今日は帰ろう…」
そう言って少年が踵を返そうとしたその時…。
彼の耳に、再び暗い路地裏をステージへと変貌させる歌声が届いた。帰る筈だった少年は、気付けばそちらの方へ足を動かしている。彼の脳裏に昨日のフードを目深に被った人物のステージがよぎった。そして少年が同時に思い浮かべたのは…。
(この声…、やっぱり間違いない)
(昨日路地裏で聞いた歌声と、僕を助けてくれた彼女の声…)
詠心は先程までグダグダと悩んでいたのが嘘のように、真っ直ぐに声の主のもとへと向かっていく。彼女の声が聞こえた瞬間から、路地裏の雰囲気は一瞬で明るいものへと変わっている。
ゴミ箱を避けながら進む彼の視線の先に、ゴミ捨て場の歌姫の姿が映った。彼女は昨日と変わらず、上部にツマミが幾つも付いた長方形の鍵盤のような物を操作しながら歌っている。
詠心はあの時と同じく、彼女の歌声の中に何かを力強く追い求め、必死に手を伸ばそうとするような…そんな感覚を覚えた。
ただ1つ違ったのは、あの時以上に強い気持ちを彼女の歌声から彼が感じていた事と、フードの人物の額から幾つもの汗がこぼれ落ちていた事だ。それに気付くと同時、会うことすら躊躇っていた筈の詠心が彼女に近付いていく。
「あ、あの…」
詠心の声に気付き、一瞬で荷物を片付けるフードの人物。明らかに重さのあるそれを難なく持ち上げているだけでも、その人物が普通の人間ではない事が明らかだった…。
昨日と同じく彼の目の前から去ろうとするフードの人物を見て、咄嗟に声を出す詠心。
「乙辺!」
「…っ!?」
少年の口から出た言葉に、動きを止めるフードの人物。そんな彼女を繋ぎ止めようとするかのように詠心は続ける。
「あなたも…」
躊躇うように話す少年をじっと見るフードの人物。そんな視線に応えるかのように、詠心が絞り出した言葉は…。
「乙辺セレナが大好きなんですよね!!」
「は、はい…?」
フードの人物にも予想外の単語だった。
◆
「本当に…あなたは面白いわね」
フードの人物がおもむろに路地裏に乱雑に放置されたビールケースに腰をおろす。彼女の隣には、空になったビール瓶が大量に入ったケースが何段も重ねられている。
「ははっ…」
詠心は微かに笑いながら、そこから少し離れた位置にあるビールケースに座る。フードの人物が、目深に被ったフードを取った。
(やっぱりそうだ…)
詠心が思っていた通り、そこには晴天のような青い髪を持ったサファイアの姿がある。
「そ、それ凄いですね」
彼女に何を話していいのか分からないのか、誤魔化すようにある方向を指差す少年。それはサファイアが人間業と思えない速度で片付けた荷物だ。
「私達には加護があるからね」
「身体能力を上げるって奴ですよね!」
「そ、そうね」
顔を近づけ捲し立てる詠心に、驚きながらも微笑むサファイア。
「神子の素質がある人間には、本人の意思とは関係なく加護が発動するの」
「だからこそ不協和音ノ獣とも戦えるし、こんな事も…」
そう話をしながら、サファイアは隣にあるビール瓶の入った重ねられたケースを軽々と片手で持ち上げた後ゆっくりと下ろした。
「ふおぉぉぉぉーー!!」
それをキラキラと瞳を輝かせながら嬉しそうに見る詠心。彼女はそんな彼の様子に軽く口角を上げながらも、その表情は直ぐに消えてしまった。
「それで…」
「いつから気付いていたの?」
「気付いて?」
少年は少女の言葉の意図が分からず聞き返す。記憶を遡り、路地裏のフードの人物がサファイアだった事に対してだと思った詠心は話を続けていく。
「歌声です!」
「へ?」
「路地裏に響く、心を優しく包み込むような透き通った美しい声!」
「あ、あの…」
「その声が幾つも折り重なって僕の心をガンガン揺さぶって!」
「いや、そうじゃ…」
「不協和音ノ獣から助けて貰った時に、同じ歌声が聞こえて来た時は、内心テンションぶち上がりましたよ!!」
「そうじゃなくて!!」
「はい?」
サファイアは心底不思議そうな顔をする詠心を見て、呆気に取られた表情になった後、大きく笑い出す。それを見て首を傾げる少年。路地裏には暫くサファイアの笑い声だけが響いた。
「はー!笑ったわ」
「えっと…乙辺さん?」
「あ、あぁ! ごめんなさい」
「まさかそんな答えが返ってくるなんて思わなかったから」
笑いすぎて出た涙を、サファイアが人差し指で拭いながら話を続けていく。
「私が言ってたのは路地裏での話じゃないわ」
「え?」
「そもそもあの時路地裏に入ってきたのが、あなただった…ってのも今知ったわよ」
「あれ? じゃあさっきのいつから気付いたってのは…」
詠心がそこまで呟いたところで、サファイアが一旦息を吐く。自分を落ち着かせる為なのか、何度か深呼吸した後に彼女は話し始める。
「乙辺……乙辺セレナ」
真剣な表情のサファイアが続けた。
「私のお母さんについてよ」
◆
「家に帰る途中ですけど…」
「え?」
あっけらかんとした顔でそう答える詠心に、目を丸くするサファイア。
「本当に?」
「はい。最初はただ同じ名字なんだなぁ…くらいで、セレナさんの娘だなんて気付いてもいませんでした」
「……」
「乙辺さん?」
「はぁ…」
サファイアが深い溜め息を吐く。まるでそれは胸に溜まった不安を全て吐き出すようだ。
「何が…?」
「いや気にしないでいいわ。ごめんなさい」
「…わ、分かりました。じゃあそろそろ」
「?」
不意に真剣な表情でサファイアの両手を掴む詠心。何か気になる事から解放された影響か、彼女は不思議そうな顔をしながらもそれに対して反応が取れていない。
「セレナさんの話を聞いてもいいですか?」
「えぇ…?」
そこから10分間、詠心のセレナに対する熱い話が続いた。目を今までより一層輝かせ、セレナの話をサファイアに質問する詠心。
最初こそ詠心が質問してサファイアが軽く返すくらいだったが、徐々に彼女の口数も増え、ポツリポツリと詠心の質問がなくてもサファイア自身が語り始める。そして気付けば、サファイアも詠心と同じくらいの熱量で話をするようになっていた。
セレナの使用する特殊なギターシンセサイザーという物についてや、私生活での理想の母親としての姿、なのに何処か抜けている部分がある事も含めて嬉しそうに彼女は語っている。サファイアの瞳は宝石のようにキラキラとしていた。
「誕生日に私が神子のぬいぐるみを欲しがっていた話を叔母さんから聞いたお母さんが買ってきたのは…」
「本当にただの巫女さんのぬいぐるみだったの!」
「はははっ!セレナさんのそんな話が聞けるなんて最高です!それに……」
詠心が急に静かになる。
「一野瀬くん?」
それを見て首を傾げるサファイア。
「やっぱり乙辺さんは本当にセレナさんが大好きなんですね」
「うん。大好き!」
先程までの硬い表情が嘘のように、笑顔でそう答える彼女を見てチクリと胸が痛む詠心。彼の脳裏には昨日の『伝説の神子!その娘は平凡以下の落ちこぼれ!』と書かれたネットニュースの内容がよぎっていた。
(大好きな母親と比べられて、落ちこぼれ…なんて言われるのはどんな気持ちなんだろう?)
「それにしても…」
そんな詠心の考えには気付かず、サファイアが話していく。
「よくお母さん…じゃなくて乙辺セレナについてここまで知ってたわね」
「おかしいですか?」
「神子をしていたのは10年前なのに…」
「でも怪我で引退したとはいえ、何度かドラマだったりバラエティで見た事ありますよ」
「それは……まぁそうね」
サファイアの嬉しそうな表情が一瞬で消え去る。それを見て必死に話題を変えようとする詠心。ふと彼は、彼女の様子を見て一番気になった事を口に出す。
「どうして…」
「え?」
「乙辺さんはそんなに頑張ってるんですか?」
彼女の歌声から感じた…何かを追い求め、必死に手を伸ばそうとするようなそんな強い気持ちと、幾つもの汗を流しながらも歌い続けていたサファイアの姿。それを見てしまった詠心は聞く事を止められなかった。
「私は…」
何かを悩んでいたのか、暫く黙っていたサファイアはゆっくりと喋り始める。
「お母さんのような神子になるのが夢なの」
詠心を真っ直ぐに見ながらサファイアはそう告げる。
「だから…その為に私は……」
彼女は自らの感情を表すかのように、苦しそうに両手で胸元を掴んだ。
「なれますよ!」
「…えっ?」
サファイアのそんな気持ちを掻き消すように詠心が続けていく。
「僕は不協和音ノ獣に襲われたあの時…本当にもうダメだと思いました」
「だけど……」
「そんな僕を乙辺さんが助けてくれた。もしあの時乙辺さんが来なかったら…」
詠心の脳裏に不協和音ノ獣の姿がよぎった。
「だからきっと…乙辺さんならセレナさんのような神子になれますよ!」
真っ直ぐにサファイアを見てそう話す詠心。
「……ありがとう」
しかし、その言葉を聞いても彼女の表情は晴れなかった。
「でも…」
そう続けた後、サファイアが突然歌い始める。それはただの歌ではなかった。
「伴奏」
サファイアの言葉に呼応するように彼女の背後に七色の裂け目が現れる。その裂け目から出てきたのは、頭に三度笠を着けた小さく可愛らしい、二頭身の程のデフォルメされた姿をした白い顎髭を蓄える老人の侍だった。
「えっ?」
以前にサファイアと共にいたカンベエと呼ばれていたその侍を見て、何故か詠心は驚いた表情を浮かべている。
「気付いたでしょ?」
サファイアの言葉で彼が思い出したのは、リビングで何度も見ていた彼女の母親──セレナが召喚した侍の姿だった……。
「カンベエさんは…サファイアさんが神子として召喚した侍?」
神子は侍や騎士達などの伴奏者を異次元から召喚する。詠心が今まで神子オタクとして見てきた数多くの召還された者達は、人の背丈を大きく越える事はあっても、カンベエのようなぬいぐるみと変わらないサイズの存在は一度も見たことがなかった。
(僕の知らない楽譜や詠術か何かで出されたものだと思ってたけど、伴奏によって召喚された侍だったのか…)
「私が未熟なばっかりに……何度伴奏で召喚しても、カンベエはずっとこのままなのよ」
「蒼…そんなに己を責めるな」
サファイアを励ますように、彼女の肩にその小さな手を置くカンベエ。しかしそんな思いやりに返す余裕すら今の彼女にはない。
「私のせいで、カンベエにまで迷惑をかけている。本当に私は…」
「『落ちこぼれ』なのよ」
彼女が至極当たり前のようにその一言を呟いたのを見て、詠心は胸の奥がズタズタに引き裂かれたような感覚を抱いた。サファイアは再び一見して笑顔のように見える、周りの誰かにではない駄目な自分自身に向けるようなそんな表情になっている。
(また…あの表情だ)
彼女のその笑顔に、再び既視感を抱いた詠心は考える。
(このままでいいのか?)
今の少年にはどうするのかが正解かは分からない。ただ絶対に彼女を放っては置けないという感情が彼の心を支配していた。
(だけど…何て声を掛ければいいんだ? いや…)
詠心の脳裏に、教室の真ん中にいる筈の自分がまるで存在していない様だった時の光景がよぎる。運動も勉強も、何も出来ない。そこにいるのにいない。そんな自分の姿を思い出した詠心は……。
(こんな僕に…彼女に言える事なんてない)
詠心は口を噤ぎ、ただ黙って拳を握り締める。
(でも…)
(それでも……)
少年は自分の中にある大きな感情に逆らい、意を決して口を開いた。
「ぼ…」
突然、耳を思わず塞ぎたくなるような不快な音が辺りに響き、詠心の言葉を搔き消した。
「へ?」
同時に何かが割れるような大きな音がそれに続く。
詠心とサファイアがいる路地裏、その上空──意図して音を外したようなその不快な音の連なりの元凶……大きな亀裂がそこに姿を現していた。亀裂の先に見える七色の光が、路地裏を怪しく照らしている。
──ドンッ!
という音と共に、サファイアが詠心を突き飛ばす。彼が座っていたビールケースが、振り下ろされた大きな腕によって粉々にされていた。
サファイアが立ち上がり、歌を紡いでいく。
「風神…Allegro」
彼女の言葉に応じるようにサファイアの前方に風が集まり発射された。裏路地に生臭い風が吹き荒れる。
その風の直撃を受けたのは、車より大きな体躯を持つ大きな虎のような化物だった。化物はそよ風でも受けたかのようにその場に鎮座している。その虎が、欠けた音符とpが2つ刻まれた腕を横に振るう。そんな軽い動作にも関わらず、少女が生み出した風圧と同等のものがその場に発生した。
後ろにゴロゴロと転がるしかない詠心と、咄嗟に風を眼前に発生させその場に何とか留まるサファイア。
「はぁ…はぁ…」
おずおずと起き上がる詠心。彼が彼女の方を見ると、サファイアは真剣な表情で虎の方を見ていた。
「ぼ、僕も手伝いを…」
「いらない!」
詠心の言葉は少女の叫びに掻き消される。彼女の語気から少しの余裕もない事が詠心にも伝わってきた。そんなサファイアを見て詠心は続ける。
「でも…僕でも何か」
「足手纏いよ」
少年の目を真っ直ぐに少女が見ていた。彼女の瞳には有無を言わせない強い意志が秘められていた。
「私は神子で、あなたはただの一般人。だからここにいられても迷惑なのよ」
ダメ押しのようにそう続けるサファイアに、詠心は何も言えなくなった。少年は何も言わずにその場から走り去る。それを目で追った後、サファイアは再び虎の化物に視線を戻した。
◆
「はぁ…はぁ…はぁ…!」
町中を1人、躓きそうになりながらも走っていく詠心。不協和音ノ獣が現れた事に気付き、周りの人達が叫びながら逃げていく。
(これで良かったんだ。何も出来ない自分があの場から逃げ出すのは正しい事だ。だから…)
自分を納得させるようにそう続ける詠心。
「不協和音ノ獣だって!?担当の神子は?」
「別の不協和音ノ獣に対応中なんだよ!!」
逃げ出しながら話す男2人の会話が詠心に届く。それを聞いても詠心は足を動かすのを止めない。そんな彼の視界に何かが映る。
「は?」
表通り、アパレルショップが並んだその場所、マネキンが飾られた大きなショーウインドウの前を詠心は走っていた。彼の視線はショーウインドウではなくその手前のガラスに釘付けになっている。そこに反射した光景はある事実を彼に伝えていた。彼の背後、その空中に先程とは別の大きな亀裂が発生している…。
「魔ノ前奏曲!?じゃあ少なくても近くに不協和音ノ獣が2体は…」
考え事をしながら走っていた詠心は地面に躓き、首に掛けてあったヘッドフォンを落とす。
「……」
立ち上がりそのヘッドフォンを拾う詠心。再び逃げる為に走り出そうとした彼はヘッドフォンの持ち主だった父との過去にあったやり取りを思い出し、完全に足を止めた。ふと彼の瞳にあるものが映る。
それはアパレルショップのショーウインドウに映る詠心の姿だった。ガラスに反射する自分の表情を見て、少年は何かに気付く。そして詠心は……。
「ははっ…」
「あはははははは!!」
少女を置いて逃げ出す事になった少年は、突然壊れたように笑い出した。
コメント
1件