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夏祭りの喧騒はまだ続いていたが、夜が深まるにつれて人混みは少しずつ落ち着いてきていた。
昼間の熱狂が嘘のように、提灯の柔らかな光が石畳の路地を照らし
その光の輪郭がじんわりと滲む。
焼きイカやりんご飴の甘い匂いが、熱気と共に夜空へと吸い込まれていく。
遠くで不規則に上がる花火の音が、パチパチと鼓膜を震わせ、その余韻がじんわりと胸に広がる。
どこからか聞こえてくる盆踊りの囃子歌も、今はもう遠い幻のように聞こえた。
賑やかさの中に、どこか郷愁を誘う静けさが漂い始めていた。
金魚すくいの屋台の近くにある、年季の入った木製のベンチに腰を下ろした。
座ると、ひんやりとした木の感触が浴衣越しに伝わってくる。
隣には、楓の兄が静かに座った。
これで会うのは2回目ぐらいか。
しかし、その存在感は、すでに俺の日常に深く刻み込まれたドラマの登場人物のようだった。
過保護で、声がでかくて、弟への愛を隠す気ゼロの兄――
彼の眼差しには、弟への深い愛情だけでなく、何か複雑な影が宿っているように感じられた。
目の前の屋台では、楓と将暉
そしてさっき出会ったばかりの巴が金魚すくいに挑戦していた。
屋台の電球が、水槽の中を泳ぐ金魚の鱗をキラキラと反射させている。
楓は、鮮やかな紺色の浴衣の袖を器用にたくし上げ、薄い紙の網を慎重に水面に差し入れている。
その横顔には、童心に帰ったような無邪気な笑みが浮かび
時折、狙った金魚を逃しては「あちゃー…」
と悔しそうな声を上げている。
その仕草一つ一つが、俺の知る楓とはまた違う
年相応の可愛らしさを感じさせた。
将暉は、いつものチャラい笑顔を浮かべながら
巴に網の動かし方や金魚の追い込み方を教えている。
その手つきは意外と器用で、まるでベテランの職人のようだった。
巴はまだちょっとビクビクしながらも
将暉の言葉に真剣に耳を傾け、網を握る手に力がこもっているのが見て取れた。
金魚がスイスイと網をすり抜けるたびに、楓が
「うわ、あと少しだったよね?!」と声を上げて、巴が小さく笑う。
その笑い声は、出会ったばかりの怯えた表情からは想像もできないほど自然で柔らかいものだった。
遠目からでも、巴の目が少しずつ
しかし確実に柔らかくなっているのが分かった。
楓と将暉が、少年の心を解きほぐしているのが見て取れた。
「楓があそこまでαを信頼してるなんて、思ってもみませんでしたよ」
隣で楓の兄がポツリと呟いた。
その声は、祭りの喧騒にかき消されそうなほど小さく、どこか意外と寂しげな響きを帯びていた。
俺は思わず顔を向けた。
彼の言葉の裏に、何か深い意味が隠されているような気がしたからだ。
「はは…楓くんって、意外と肝が据わってますから。さっきのは俺もびっくりしました」
俺が笑いながら返すと、彼は少し眉を上げて
ふっと小さく笑った。
その笑みには、安堵と、そして微かな悲しみが入り混じっているように見えた。
「楓って、あぁ見えて泣き虫で……まあ、環境にも問題があったのかもしれませんけど」
「環境、ですか?」
その言葉に、俺の声は無意識のうちに少し低くなった。
なんとなく、軽い世間話で済ませられるような話題じゃない気がした。
彼の表情が、一瞬にして曇ったように見えたからだ。
彼は一瞬、金魚すくいに夢中になっている楓の方をチラッと見て
それから俺に視線を戻し、少し声を潜めた。
まるで、楓に聞かれてはいけない秘密を打ち明けるかのように。
「楓だけ、Ωで。しかもフェロモンが強すぎて、誰彼構わず魅了してしまう」
「それを母親に薬で無理やり抑えろって言われて、逃げ場もなかった。13歳のときに、ヤクザのαに誘拐拉致されたこともあったので……α嫌いになっててもおかしくないですから」
彼の言葉は、俺の胸に重く響いた。
13歳。まだ幼い、多感な時期にそんな残酷な目に遭っていたのか。
フェロモンが強すぎるがゆえの苦悩
そして誘拐という、カタギにとっては恐ろしい経験。
想像するだけで、胸が締め付けられるような痛みを感じた。
「……それだけ、強い子なんですね、楓くんは」
俺の言葉は、思わず口からこぼれ落ちた本音だった。
13歳でそんな目に遭って、そりゃ普通ならαなんて見るだけで震え上がるだろう。
恐怖と嫌悪で、二度とαに近づこうとしないのが自然な反応だ。
それなのに、俺が元ヤクザだと知ったときも
彼は臆することなく、真っ直ぐに俺を見ていた。
その瞳には、一切の怯えも、偏見もなかった。
今だって、こんな俺を信用してくれている。
さっきの楓くんは、怯える巴の肩にそっと手を置いていた。
その手は、まるで自分のことみたいに優しく
そして力強く、巴を励ましていた。
あの目は、何の曇りもない、真っ直ぐな光を宿していた。
その強さは、並大抵のものではない。
俺が今まで出会ってきた人間の中でも、あれほど純粋な強さを持った人間は、そう多くない。
俺がそんなことを考えている間に、お兄さんがふっと笑って言った。
その笑みには、先ほどの苦悩の色は薄れ
「まあ、だからこそ、将暉さんやあなたみたいなαを信頼できてるってのは、俺にとっても驚きで」
彼の言葉には、安堵の色が滲んでいた。
それは、弟を心から案じ、その幸せを願う兄の偽りのない感情だった。
俺は、彼の言葉から、楓がどれほど彼にとって大切な存在であるかを改めて感じ取った。
「いや、ほんと、楓が心開いてるの見て、ちょっと安心しましたよ」
その言葉に、俺は少し照れ臭くなって、頭を掻いた。
自分でも意外だったが、楓に信頼されているという事実は、確かに悪い気はしなかった。
むしろ、じんわりと温かいものが胸に広がるのを感じた。
それは、これまで感じたことのない、不思議な感覚だった。
「…まあ、楓くんが信頼してくれるなら、悪い気はしないです」
俺が少しぶっきらぼうにそう言うと、彼は「はは」と声を上げて笑った。
その笑い声は、先ほどまでの沈痛な雰囲気とは打って変わり、軽やかで明るいものだった。
「あなた、見た目は厳ついと思ってましたが、話すと悪くないですね」
「よく言われます」
俺が笑いながらそう言うと、彼も調子に乗って笑い出した。
その笑い声は、祭りの賑わいに溶け込んでいく。
なんか、最初は俺のこと警戒してるっぽかったが
話しているうちに、ずいぶんと打ち解けてきた感じがする。
夜の帳が降り、祭りの喧騒が遠のく中で、俺たちの間に不思議な連帯感が生まれていた。
それは、楓という存在を介して
互いの人間性を認め合った瞬間だったのかもしれない。
結局「せっかく縁があったんだし」とか言って
彼はポケットからスマホを取り出した。
画面の光が、彼の顔を青白く照らす。
そして、連絡先を交換しようという流れになった。
祭りの夜が、新しい縁を結びつけていくようだった。