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第5話「ひとりぼっち」
レンは、朝の駅でいつも少しだけ浮いていた。
改札の前では、学生たちが小さな人格タグを確認している。
今日の一限、勉強人格で出る?
眠り人格がまだ奥にいるから無理。
午後からバイト人格に交代する予定。
恋愛人格が勝手にメッセージ送ったんだけど。
そんな声が、朝の空気に混ざっている。
レンはスマホを取り出した。
人格管理アプリ、ケロベロス。
画面には、何度見ても変わらない表示が出ていた。
代表人格 レン
同居人格 なし
本日の交代予定 なし
レンはその画面を見て、すぐに閉じた。
何も起きない予定表ほど、静かなものはない。
静かすぎて、指先が少し冷える。
大学に着くと、正門前の掲示板に新しいポスターが貼られていた。
人格交流週間
自分の中の仲間と、他人の中の仲間を知ろう
レンは立ち止まった。
ポスターには、笑う学生たちと、吹き出しの中に浮かぶ複数の顔が描かれている。
どの顔もにぎやかだった。
どの顔も、誰かと話していた。
「レン、おはよ」
後ろから声がした。
アヤトだった。
アヤトは紫のジャケットの袖をまくり、片手でスマホを振っている。
髪は朝から少し乱れていて、本人は気にしていない。
レンが返事をする前に、アヤトの目つきが変わった。
「おはようございます、レンさん。本日の一限は心理社会学ですね。出席確認はアプリ連携です」
「今、まじめ人格?」
「はい」
すぐにまた目が変わった。
「いやー、朝から固いな。俺に戻った」
レンは小さく笑った。
「忙しそうだね」
「普通普通。レンは今日もレン?」
「うん」
「すげえな。毎日同じって逆に才能だよ」
アヤトは悪気なく言った。
その悪気のなさが、レンには少しだけ刺さった。
教室に入ると、すでに席の半分ほどが埋まっていた。
学生たちの机には、飲み物、ノート、スマホ、人格タグが並んでいる。
講義前の教室は、いつも声の層が厚い。
表にいる人格の声。
内側から漏れる独り言。
ケロベロスの通知音。
誰かの照れ人格が出て、前日の失言を謝っている。
誰かの毒舌人格が、課題を忘れた代表人格を責めている。
レンは窓際の席に座った。
ノートを開く。
ペンを置く。
スマホを伏せる。
その動作はいつも同じだった。
「レンくん、隣いい?」
ミナが立っていた。
黄緑のパーカーの袖が少し長く、指先が半分隠れている。
髪は耳元で丸く跳ねていて、笑うと頬がやわらかく動いた。
「うん」
ミナは隣に座り、机に人格タグを置いた。
表示がころころ変わる。
代表人格 ミナ
交代候補 話しかけ人格 観察人格 緊張人格
ミナはタグを手で隠した。
「見た?」
「少し」
「今のなしで」
「うん」
「なしにできる?」
「たぶん」
ミナはほっとした顔をした。
その直後、背筋が少し伸びる。
「レンくんは、本当に交代しないんだよね」
声の調子が変わった。
観察人格だ。
レンは慣れている質問だった。
「しないよ」
「一度も?」
「一度も」
「内側で会議とかは?」
「ない」
「独り言は?」
「それはある。普通の独り言」
「普通の独り言って、逆に難しくない?」
レンはペンを回した。
「難しくはないよ。ただ、自分で言って自分で聞くだけ」
ミナの目が丸くなった。
「すごい」
「そうかな」
「うん。うちなんて昨日、夕飯を決めるだけで三人格が会議して、最後に食いしんぼ人格が全部決めた」
「何食べたの?」
「パンケーキと餃子」
「夕飯に?」
「夕飯に」
レンは少し笑った。
ミナも笑った。
教授が教室に入ってきた。
灰色の髪を短く整え、深緑の上着を着ている。
教卓に資料を置くと、学生たちの人格タグが自動で講義モードに切り替わった。
講義参加人格を登録してください。
あちこちでスマホが震える。
勉強人格に交代する学生。
代表人格のまま受ける学生。
眠り人格が表に出てしまい、友人に肩をゆすられる学生。
レンの画面だけは、何も変わらなかった。
講義が始まった。
今日のテーマは、ケロベロス社会における単独人格者の印象形成。
教授が板書する。
単独人格者。
レンはその言葉をノートに写した。
手が少しだけ遅れた。
教授は教室を見渡した。
「この社会では、複数人格を持つことが標準とされています。では、人格がひとつの人は、どのような印象を持たれやすいでしょうか」
学生たちがざわめいた。
ミナがちらっとレンを見る。
すぐ目を逸らす。
アヤトが手を挙げた。
表に出ているのは、たぶん発言人格だった。
「安定している印象があります。約束を忘れにくそうとか、急に態度が変わらなさそうとか」
別の学生が手を挙げる。
「でも、少し地味に見えるかもしれません。人格交代の話題に入れないので」
さらに別の学生。
「恋愛では安心感があると思います。誰が出てくるかわかるから」
教室が少し笑った。
レンはノートの端に、小さく線を引いた。
安定。
地味。
安心。
全部、何度も聞いた言葉だった。
教授の視線がレンに向いた。
「レンさん。答えにくければ、そのままでかまいません。あなた自身は、どう感じますか」
教室が静かになった。
レンはペンを置いた。
椅子の背もたれから、少しだけ体を離す。
「便利だと思うことはあります。提出物も、自分が忘れたら自分のせいです。誰かのせいにできないので」
少し笑いが起きた。
レンは続けた。
「でも、にぎやかな人たちの中にいると、自分だけ部屋がひとつしかないみたいに感じることがあります」
言ってから、少し驚いた。
思ったより正直な言葉が出た。
ミナが、机の下で指をぎゅっと握った。
アヤトも、さっきまでの笑いを引っ込めていた。
教授はうなずいた。
「ありがとうございます」
それだけだった。
余計な言葉はなかった。
講義が終わると、教室はまた元の騒がしさに戻った。
ただ、レンの周りだけ少し違っていた。
「レンくん」
ミナが声をかける。
今度は代表人格の声だった。
「さっきの、部屋がひとつって表現、わかりやすかった」
「そう?」
「うん。私たちは部屋が多すぎて迷子になる時あるけど、ひとつしかないのも、広すぎるのかもって思った」
レンはノートを閉じた。
「広いというより、音が少ない」
ミナはうなずいた。
「音か」
その瞬間、彼女のタグが震えた。
話しかけ人格 表出希望
ミナは慌ててタグを押さえた。
「ごめん、話しかけ人格がもっと話したがってる」
「いいよ」
「いいの?」
「うん」
ミナの表情がぱっと明るくなった。
話しかけ人格が出た。
「じゃあ聞くけど、レンくんって休日どうしてるの?人格交代なしで一日持つの?退屈じゃない?ケロベロスのグループ通話は誰で出るの?」
質問が一気に来た。
レンは目をしばたたいた。
「一個ずつでお願い」
「ごめん、うちの話しかけ人格、ブレーキが薄い」
「知ってる」
昼休み。
レンはミナとアヤトに連れられて、学食へ行った。
学食の入り口には、今日の人格対応メニューが貼られている。
まじめ人格向け 栄養定食
眠り人格向け やわらかうどん
食いしんぼ人格向け 大盛りセット
気まぐれ人格向け 何が出るかわからない丼
レンは栄養定食を選んだ。
ミナは食いしんぼ人格に交代しかけて、大盛りセットを指差したあと、代表人格に戻って慌てて普通盛りに変えた。
アヤトは気まぐれ丼を選び、中身を見て笑っていた。
「コロッケとプリン乗ってる」
「それ丼なの?」
「気まぐれだからな」
三人で席に座ると、周りの学生たちがちらちらレンを見た。
最近、レンは少し目立っていた。
単独人格。
安定している。
約束を破らない。
急に毒舌にならない。
昨日と言っていることが同じ。
それが、なぜか恋愛対象として評価され始めていた。
「レンくん、今日の午後あいてる?」
隣のテーブルから女子学生が声をかけてきた。
髪をふわりと結び、モカ色の上着を着ている。
彼女の人格タグには、恋愛人格と冷静人格が交互に表示されていた。
レンは箸を止めた。
「午後は図書館に行く予定」
「一緒に行っていい?」
「えっと」
ミナの目が動く。
アヤトの口元がにやける。
別の席からも声がした。
「レンくん、今度グループ課題いっしょにやらない?君なら人格交代で進行止まらなそうだし」
「レンさん、ケロベロスの単独人格コミュニティって入ってる?」
「安定感って、やっぱ恋愛で大事だよね」
レンは箸を持ったまま固まった。
昨日まで、地味と言われていた。
今日になって、安定と言われている。
同じことなのに、急に価値が変わった。
ミナの観察人格が出た。
「急な需要増加ですね」
アヤトのツッコミ人格が出た。
「レン、モテ期じゃん」
レンは首を横に振った。
「たぶん違う」
「違わないだろ」
「みんな、人格が少ないところに珍しさを感じてるだけ」
ミナが代表人格に戻って、レンを見た。
「でも、それもレンくんの一部でしょ」
レンは返事ができなかった。
午後。
図書館へ行くと、静かなはずの場所にも人格社会の気配はあった。
入口に、人格音量注意の看板。
内側会話は小声で。
人格交代時の大声に注意。
ケロベロス通話は専用席で。
レンは奥の席に座った。
本を開く。
ページをめくる。
文字が目に入る。
でも、内容はなかなか沈まなかった。
さっきの言葉が残っている。
それもレンくんの一部でしょ。
一部。
レンには、分けられる部分がなかった。
代表人格も、勉強人格も、遊び人格も、恋愛人格もいない。
眠い時も自分。
機嫌が悪い時も自分。
緊張している時も自分。
誰にも代われない。
誰かのせいにもできない。
そのかわり、誰かに置いていかれることもない。
いつも自分が、自分の席にいる。
「レンくん」
小さな声がした。
ミナだった。
今度はひとりで来たらしい。
黄緑のパーカーのポケットに手を入れ、少し照れた顔をしている。
「隣、いい?」
「うん」
ミナは座った。
しばらく黙っていた。
「私さ」
ミナは机の木目を指でなぞった。
「人格が多いの、便利って思ってた。苦手なことを誰かに頼めるから」
「うん」
「でも、たまに思う。私の本音って、どれなんだろうって」
レンはページに置いていた手を止めた。
「全部じゃないの?」
ミナは目を上げた。
「全部?」
「どれかひとつだけが本音って決めなくてもいいんじゃないかな」
「レンくんは、そう思うの?」
「僕はひとりだから、そう思うしかないだけかも」
ミナは小さく笑った。
「それ、いいね。そう思うしかないって、強い」
「強いかな」
「強いよ」
ミナのタグが震えた。
緊張人格 表出希望
ミナはそれを見て、少し迷ってから、タグを伏せた。
自分で言おうとしているようだった。
「レンくんって、安心する」
レンはゆっくり瞬きした。
「安定してるから?」
「それもある。でも、それだけじゃない」
ミナは言葉を探すように、少し下を向いた。
「誰が出てくるかわからない毎日は楽しいけど、疲れる日もある。レンくんは、ずっとレンくんだから、話してると落ち着く」
レンの胸の奥が、静かに揺れた。
大きくはない。
でも確かに、揺れた。
「それ、褒めてる?」
「褒めてる」
「地味って意味じゃなくて?」
「違う」
ミナは即答した。
その早さに、レンは少し笑った。
夕方。
レンは帰り道をひとりで歩いた。
大学の門を出ると、人格交流週間のポスターが夕風に揺れている。
自分の中の仲間と、他人の中の仲間を知ろう。
レンはポスターを見上げた。
自分の中に仲間はいない。
けれど、外にはいる。
アヤトがいる。
ミナがいる。
昼休みに声をかけてきた学生たちもいる。
教授の静かなうなずきも、まだ胸に残っている。
ひとりぼっちは、内側の人数だけで決まるわけではないのかもしれない。
駅前に着くと、アヤトからメッセージが来た。
今日、レンの話でうちの中が会議してる。
まじめ人格 単独人格者への理解を深めるべき
ノリ人格 レンすげえ
ツッコミ人格 モテ期じゃん
結論 明日も学食行こう
レンは笑った。
返信を打つ。
行く。
それだけ送ろうとして、指が止まった。
少し考えて、追加した。
気まぐれ丼はやめた方がいい。
すぐに既読がついた。
アヤトから返ってきた。
それは俺も思った。
レンはスマホをしまい、ホームで電車を待った。
周りには、今日もたくさんの声があった。
内側に何人もいる人たち。
表に出る順番を相談する人たち。
自分の中の誰かに怒られている人たち。
自分の中の誰かに励まされている人たち。
レンの中は静かだった。
でも、朝よりは冷たくなかった。
翌日。
学食で、レンはまた注目を浴びた。
「レンくん、課題一緒にやろうよ」
「レンさん、人格交代なしで朝起きられるコツ教えて」
「単独人格って、恋人にするなら最高じゃない?」
「昨日から人気だね」
ミナが笑う。
アヤトは気まぐれ丼を避け、栄養定食を持っていた。
レンは席に座り、ため息をついた。
「急に安定安定って言われると、安定しなくなる」
ミナが吹き出す。
アヤトも笑う。
「レンにも揺れる時あるんだな」
「あるよ」
「なんか安心した」
「僕は困ってる」
ミナが頬杖をつく。
「困ってるレンくん、ちょっと珍しい」
「珍しさで見ないで」
「ごめん」
「でも、ちょっと面白い」
「そこは否定しないんだ」
周りからまた声がかかる。
レンは返事をして、断って、うなずいて、また困った顔をした。
ミナの話しかけ人格が出る。
「ねえレンくん、正直どう?モテてうれしい?困る?楽しい?怖い?」
「一個ずつ」
「じゃあ、うれしい?」
レンは少し考えた。
「うれしくないわけじゃない」
アヤトのツッコミ人格がすかさず言う。
「遠回し!」
ミナの観察人格が続く。
「照れていますね」
レンは眼鏡を直した。
「照れてない」
「照れてる」
「照れてない」
「安定して否定してる」
「やめて」
笑い声が広がった。
その日の夕方。
レンはケロベロスを開いた。
相変わらず、自分の画面は静かだった。
代表人格 レン
同居人格 なし
けれど、通知欄はいっぱいだった。
アヤトからグループ招待。
ミナからメッセージ。
心理社会学ゼミから連絡。
単独人格交流会から案内。
恋愛相談人格から質問。
レンは画面を見つめた。
内側はひとり。
外側は、思ったよりにぎやか。
それでも。
ふと、思ってしまう。
自分の中にも、誰かがいたら。
失敗した時に、笑ってくれる誰か。
緊張した時に、代わってくれる誰か。
恋をした時に、勝手に告白してしまう誰か。
朝、眠い時に起きてくれる誰か。
そんな誰かがいたら、どんなに騒がしいだろう。
どんなに面倒だろう。
どんなに、少しだけ心強いだろう。
「……別人格、欲しいな」
声に出ていた。
背後で、ミナとアヤトが固まった。
レンはゆっくり振り返った。
ミナは目を丸くしている。
アヤトは口を開けたまま、スマホを落としかけている。
「今の、聞こえた?」
ふたりは同時にうなずいた。
ミナの照れ人格が出た。
「かわいい本音だね」
アヤトのノリ人格が出た。
「よし、レンの別人格募集オーディションやろうぜ!」
「やらない」
「名前決めよう。レン二号」
「絶対に嫌だ」
ミナの毒舌人格がふっと出る。
「レンくんの別人格、たぶん本体より先に疲れそう」
「どういう意味?」
「まじめすぎて」
アヤトが笑い転げる。
ミナも笑う。
レンは顔を押さえた。
赤くなっているのが、自分でもわかった。
代わってくれる人格はいない。
だから、この恥ずかしさも自分で受け止めるしかない。
けれど、不思議と嫌ではなかった。
「……忘れて」
レンが言うと、アヤトがすぐに首を振った。
「無理。今日の名言」
ミナがスマホを開く。
「ケロベロスのメモに残す?」
「残さないで」
「じゃあ心に残す」
「それも困る」
「でも残った」
レンはため息をついた。
夕方の風が、三人の間を抜けた。
人格タグが揺れる。
スマホが震える。
誰かの内側で、誰かが笑う。
レンの中は、やっぱりひとりだった。
でも、そのひとりはもう、朝ほど寂しくなかった。
アヤトが肩を組もうとして、レンに避けられた。
ミナが笑いながら歩き出す。
レンも、その少し後ろを歩いた。
「ねえレンくん」
ミナが振り返る。
「もし本当に別人格ができたら、最初に何させたい?」
レンは考えた。
「朝の支度」
アヤトが腹を抱える。
「地味!」
ミナも笑う。
「でもレンくんらしい」
レンは少しだけ口元を上げた。
「あと、こういう時にうまく返すこと」
「今のままでいいよ」
ミナが言った。
その言葉は、夕方の道に静かに落ちた。
レンは歩きながら、ほんの少しだけうつむいた。
「そっか」
「うん」
アヤトが横から言う。
「でもレン二号案は捨てない」
「捨てて」
「じゃあレン補助人格」
「もっと嫌だ」
「レン応援人格」
ミナが手を挙げた。
「それなら、私たちが外側でやればいいんじゃない?」
アヤトが指を鳴らす。
「いいな。外付け人格」
レンは立ち止まった。
「外付けって何」
「困った時に俺らが騒ぐ」
「もう騒いでる」
「じゃあ完成してる」
ミナが笑う。
レンは呆れた顔をした。
けれど、足取りは軽かった。
ひとりぼっち。
その言葉は、朝より少しだけ形を変えていた。
ひとりだけど。
ひとりきりではない。
レンはスマホを開き、ケロベロスのプロフィール欄を見た。
代表人格 レン
同居人格 なし
少し迷って、自己紹介欄に一行だけ足した。
外側に、少しうるさい友人あり。
保存を押す。
画面の中で、ケロベロスの小さな犬のアイコンが跳ねた。
レンはその動きを見て、ひとりで笑った。
その笑い声は小さかった。
けれど、ちゃんと自分の声だった。
#遊戯をしましょう!
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桜
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#創作BL
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