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家の中は外よりも重かった。蛍光灯の柔らかな白さが、壁のしみを淡くなぞるだけで、笑い声もなく、食器の音もない。
リビングの時計が一拍ごとに鳴るたびに、遥の胸の奥で何かがひび割れていくようだった。
「おかえり」
誰かが言うでもなく声がこぼれた。玄関の扉が閉まる。晃司が、沙耶香が、怜央菜が、颯馬が、家の空気を引き裂くようにそれぞれ帰ってくる。四つの影がリビングの中に重なり、遥だけがその輪の内側に小さく座っていた。
怜央菜が先に動いた。椅子に腰を下ろすと、柔らかな声で話し始める。優しさの糸に縫い付けられた言葉は、刀のように鋭い。
「ねえ、今日の遥、学校でどんな顔してた?」
遥は返事を探して首を振る。喉が詰まり、言葉が唾に溶ける。怜央菜はその反応を楽しむように目を細めた。
「日下部が来てくれてるんだって? いいわね、でも――お姉ちゃん心配よ。あなた、自分で選んで傷ついてるんでしょ?」
その一言で、空気がひとつに凝縮した。晃司が立ち上がり、テーブルに手をつく。怒りというより、どうにもならない苛立ちがその肩を震わせる。沙耶香は端で口元を緩め、何も言わずに遥を見下ろす。颯馬の表情は硬く、目だけが笑っていなかった。
「選んでるって、んなわけねえだろ」
晃司の声が割れた。言葉の端に濁りがあり、遥の反応を待たずに拳を振り上げる。拳の一撃が胸に落ちる。音がして、息が抜ける。遥は震えながらも声を出せず、ただ肩を抱えて膝をかばう。
颯馬がそれを見て苛立ちを募らせる。若い怒りは手加減を知らない。彼は遥を引っ掴み、その胸倉を掴む。押し込むようにして壁に押しつける。冷たい壁が背中に当たる。息が途切れ、視界がぼやけるが、声は出せない。怜央菜はからかうように言葉を添える。
「ねえねえ、本当に日下部といると落ち着くの? そんな顔、外行きだけでしょ?」
沙耶香はその場に静かに立ち、ゆっくりと近づいて来る。手にしたものは何もない。ただ目線だけで遥を計る。彼女の言葉は甘く、しかし執拗だ。
「あなた、分かってない。日下部を巻き込むことで、“自分”を守ってるつもり? でも結局、彼は疲れる。あなたのために苦しむだけよ。あなたがその苦しみを背負わせるの、やめなさい」
その言葉は救済を装っている。だが救済という仮面の下にあるのは、支配の論理だった。沙耶香の声は次第に強さを帯び、遥の胸のうちにある“誰かに頼ることへの罪悪”を無理やり掘り返していく。遥は目を閉じ、喉から出る小さな音だけで震えを抑えようとする。
晃司の次の一撃はより乱暴だった。手の甲が遥の頬を叩く。唇が割れ、味覚に鉄の気配が広がる。颯馬がその顔色を見て、ひどく満足そうに笑う。沙耶香はその笑いに合わせて掌を打ち、まるで舞台の観客のように遥の痛みに拍手を送る。
「お前が安っぽい涙で男をつなぎ止めようとしたって、長持ちするわけない」
怜央菜は淡々と続ける。言葉は正確で、その一つ一つが遥の内部を削っていく。誰も手を差し伸べない。誰も止めようとしない。彼らにとって今のこの場は、遥を“正す”儀式なのだ。
身体の痛みが先に、次に羞恥が襲う。喉の奥で、遥は思わず日下部の名を呟いた。小さな声は夜の風に吸い込まれ、意味を持たない。だがその呟きは怜央菜の耳に届いたように見えた。彼女がふっと顔を上げ、何かを確認するように遥を見つめる。微笑みが、さらに冷たく映る。
「日下部もね……優しいけど、あなたのその“演技”に耐えられなくなる時が来るわ」
怜央菜の言葉は、逃げ場のない論理だった。晃司と颯馬の手がもう一度動く。遥の体は抵抗の余力を失い、床に沈むように膝を折る。
窓の外、遠くで車の音が通り過ぎる。時間だけが平然と流れていく。沙耶香がふと立ち上がり、柔らかい声で付け加える。
「お前、いい子だよ。黙ってれば済むんだから」
その言葉が最後の一撃のように響いた。遥は顔を伏せ、唇から微かな血の味を感じながら、ただ静かに息を吐いた。心のどこかで、まだ日下部の温度を追っていた。だがその外套は今、どこにも掛かってはいなかった。
怜央菜は立ち去る振りをしながら、振り向きざまに一言を呟いた。
「いい? 誰かのせいにしてるうちは、あなたは変われない。覚えておきなさい」
部屋に残るのは、亀裂の入った空気と、ひどく生々しい静けさだけだった。遥は床に手をついたまま、小さく震え、閉ざされた夜を受け止めるしかなかった。