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夜が、沈んでいく音がした。水の底のように、空気が重い。呼吸をしても、肺の中が冷たい。
遥は、自分がどこにいるのか分からなかった。
見覚えのある廊下。けれど、壁はゆっくりと波打ち、足元の床がひび割れている。
どこかで誰かが笑った。誰の声かも思い出せない。
その声は、ひどく懐かしく、そして恐ろしかった。
「――遥」
呼ばれて、振り向く。
そこに、日下部がいた。
制服のまま、いつものように、少し不器用な笑みを浮かべて。
けれど、その笑みの奥に、何かが欠けていた。
光のない瞳。声のトーンが、どこか他人のように響く。
「……来たんだな」
そう言うと、日下部は手を差し出した。
その手はあたたかくも冷たくもない。
触れた瞬間、指先がじんと痛んだ。
まるで、そこにあるのが“体温の幻”のようだった。
「お前さ、いつまで黙ってんの」
穏やかな声のまま、問いかける。
「何も言わないまま、全部終わると思ってるの?」
遥は答えようと口を開くが、声が出ない。
喉の奥に、血のような味が滲む。
日下部の手が頬に伸びる。
指先が触れると、皮膚の下に潜んでいた痛みが一気に蘇る。
「痛い?」
彼がそう言うと、遥は小さく頷いた。
けれど、頷いた瞬間、その表情が少しだけ歪んだ。
悲しみでも怒りでもない。どこか、冷たく、遠い。
「俺さ……お前がこうしてると、嫌になる」
日下部の声が、低く変わっていく。
「助けようとしたのに、何も届かない。お前のせいで、俺まで壊れそうだ」
その言葉に、胸の奥がひどく痛んだ。
怜央菜の声が重なるように響く。
『――ほらね、言ったでしょ。あなたのせいで彼が壊れるって』
遥は耳を塞ぐように頭を抱えた。
けれど、指の間から、日下部の声がこぼれ落ちる。
「どうして逃げるんだよ」
「お前が痛いのは、誰のせいだと思ってんの」
周囲の空気が変わる。
日下部の顔が崩れていく。
笑顔の輪郭が溶け、皮膚の下に亀裂が走る。
それでも彼は優しい声で言う。
「大丈夫。俺がいるから」
その言葉があまりにも優しすぎて、遥は泣きたくなった。
だけど、涙が出ない。
代わりに、足元の床から黒い水が滲み出す。
ゆっくりと、ふたりの足を飲み込み、体温を奪っていく。
「行くな」
日下部が手を伸ばす。
けれど、彼の腕も、次第に黒い水に溶けていった。
遥は最後の力でその手を掴もうとした。
指先が触れる。
その瞬間、日下部の声が――怜央菜の声に変わった。
『離れなさい。あなたが触れるほど、彼は壊れるのよ』
「違う!」
遥は叫んだ。ようやく声が出た。
けれど、誰もいなかった。
黒い水の中で、日下部の姿が消え、代わりに自分自身が映っていた。
頬に傷があり、目の下に深い影が落ちている。
その“自分”が、かすかに笑った。
「お前が望んだんだろ、これを」
目が覚めたのは、夜明け前だった。
部屋の隅で、まだ夢の続きがゆらめいている気がした。
手のひらを見ても、誰の温もりも残っていない。
ただ、指先が――まだ痛かった。