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翌朝、教室の空気は昨日と同じように重たかった。
笑い声は確かにあるのに、どこか乾いていて、遥の耳には届かない。席に着いても、誰とも目が合わない。
「おはよう」と声を出してみる。
けれど、その音は誰の鼓膜にも触れずに空気の中に溶けた。
昨日、ほんの一瞬、話しかけてくれた女子がいた。忘れ物を渡してくれただけのことだったけれど、彼女の目はまっすぐで、その視線がまだ心に残っている。
その子が今日はどうしているのか、そっと目で探してみた。
──けれど、彼女はもう遥の方を見なかった。
教室の隅にいる彼を、まるで最初からいなかったかのように通り過ぎていく。
「……そうだよな」
小さく笑ってみる。笑えた気がしなかった。頬が少しだけ引きつって、痛い。
授業が始まっても、頭には何も入らない。
ノートに文字を写そうとしても、手が勝手に止まる。ペン先が紙の上で震えて、細い線をいくつも描いた。
先生の声は遠い。
教室のざわめきも遠い。
──世界の中で、自分だけが切り離されたようだった。
昼休みになっても、誰も声をかけてこない。
机に弁当を広げる音すら、まるで許されていないような気がして、遥はゆっくり立ち上がった。
屋上へ行こうと思った。
ただ、空気のある場所へ逃げたかった。
廊下に出ると、すれ違う生徒たちの会話が耳に入る。
「ねえ、あいつさ、なんか感じ悪くない?」
「誰?」
「……ほら、あれ」
声のトーンが落ちる。
笑いに変わる。
その「笑い」が、自分の背中に張りついた。
屋上の扉を開けると、風が頬を打った。
少し冷たい。
でも、それが気持ちよかった。
コンクリートの壁にもたれかかりながら、遥は空を見上げた。
──どうして、こうなるんだろう。
誰かを傷つけた覚えなんてないのに。
ただ、ちゃんとしたかっただけなのに。
思考が空の青に溶けていく。
そのとき、後ろで足音がした。
振り向くと、そこに立っていたのは弟の颯馬だった。
「……何してんの、ここで」
淡々とした声。
その目には、軽い苛立ちと、どこかのぞき込むような冷たさがあった。
「別に……」
そう言うと、颯馬は一歩、近づいてきた。
「また逃げてんの?」
「逃げてない」
「ふうん。じゃあ、何? 避けられてるのに、まだ何か期待してんの?」
遥の胸の奥が、音を立てて沈んだ。
弟は笑う。小さく、鼻で。
「お前、ほんと変わんないな。見ててイライラすんだよ、そういうとこ」
「……俺が何をしたっていうの」
「そういう言い方がムカつくんだって」
颯馬の手が肩を押した。
軽い力だったけれど、その一瞬の間に、遥の中で何かが静かに崩れた。
颯馬はもう笑っていなかった。
ただ、冷たく言い捨てた。
「お前は、いない方がうまくいく」
その言葉が風よりも鋭く、胸に突き刺さる。
反論も、叫びも出なかった。
ただ、唇を噛みしめる。鉄の味がした。
屋上を出た後、遥は静かに廊下を歩いた。
笑い声が遠くで響く。
誰かが自分の名前を呼んだような気がしたが、振り返らなかった。
──笑おうとしても、もううまく笑えない。
それが、俺の「日常」なのだと、思った。