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昼下がりの光は、どこか眠たげだった。 窓際の席に座る遥の机の上には、誰かが置いていった小さな花が一輪。
白いノートの上に、ふわりと影を落としている。
──誰が、置いたんだろう。
教室にはもう誰もいなかった。
放課後のざわめきも遠く、風だけがカーテンを揺らしていた。
その花は、名前のわからない淡い青。
どこかで見たことがある気がするのに、思い出そうとすると、心の奥が痛む。
「それ、きれいだね」
声に振り向くと、昨日、廊下ですれ違ったあの女子が立っていた。
彼女は少し恥ずかしそうに笑って、遥の机をのぞきこんだ。
「たぶん、ネモフィラ。青い花言葉は“あなたを許す”だって」
「……詳しいんだね」
「ううん、たまたま。昔、誰かに教わったの」
その言葉の「昔」という響きが、不思議に心を揺らした。
まるでどこか遠い記憶に触れたような、かすかな温かさ。
遥は、彼女の横顔を見つめた。
光が髪の間からこぼれて、まるで透明な時間を照らしているようだった。
「君が、置いたの?」
「……そうだったら、どうする?」
少しだけ意地悪そうに微笑む。
「……ありがとう、って言う」
「じゃあ、そういうことにしておこうか」
その曖昧な答えが、なぜか心地よかった。
彼女はノートの上に置かれた花を指でそっと撫でる。
「傷んでるね。今日の風、強かったから」
「うん」
「でもね、こういうのってすぐ枯れるけど、枯れる前の色がいちばんきれいなんだって」
「……誰が言ってたの?」
「覚えてない。ただ、そう思えるのって、優しいことだなって」
言葉が胸の奥にゆっくり沈む。
彼女の声が、どこか“懐かしい”と思った。
どこで出会ったんだろう。
──昔、どこかで、この声を聞いた気がする。
小さな丘の上、夕暮れの風、手のひらの温度。
淡い記憶の断片が、音もなく心に浮かんでは消えた。
「ねえ、遥くん」
名前を呼ばれた瞬間、息が詰まった。
彼女は少しだけ微笑んで続けた。
「いつか、本当の青を見に行こうよ」
「……青?」
「うん。空でも海でもなくて、心の奥にある青。あなたの中にも、きっとある」
それが何を意味するのか分からなかった。
でも、彼女の声の柔らかさだけが、確かなものとして残った。
チャイムが鳴り、時間が動き出す。
気づくと、彼女の姿はもうなかった。
机の上には、青い花だけが残っている。
遥はその花をそっと拾い上げ、胸ポケットに入れた。
──風が吹く。
カーテンが揺れる。
窓の外で沈む夕日が、わずかに青を滲ませた。
その瞬間、胸の奥で何かが微かに灯った。
懐かしい約束の光。
それが何だったのか、まだ思い出せない。
けれど確かに、今、心のどこかで呼吸していた。