高原からまさかの告白を受けてからひと月ほどが過ぎた。
彼は無事に研修生となった。あの日車の中で互いに言い合ったように、「仕事は仕事」としての態度で私に接しているようではあったが、完全に私情抜きだとは思えなかった。何かしらの用で会社にやって来た時には必ずと言っていいほど、彼はその対応に私を名指ししたのだ。
その度に、私は内心でため息をついた。というのも、高原の対応をしたのが私だと知った時、大木の風当たりがなぜかいつも以上に強まることが多かったからだ。そんな状態が続いたため、高原の対応を誰か他の者に任せたいと思い始めた。とは言え、私の手が回らず他の誰かが対応した場合、彼の顔に不服そうな色が滲んでいるのが目に入った時には、自分が特別に思われているような気がして、嬉しい気持ちになったりした。認めたくはなかったが、私は確かに彼を意識し始めていた。
その日、午後になって高原がやって来た。
カウンター近くにいた戸田の声が聞こえる。
「いらっしゃいませ」
彼は出迎えた戸田に向かって、どこか澄まして見える微笑を浮かべて挨拶した。そのまま目を上げ、席にいた私の姿を捉えて、彼はいつものように私の名前を口にした。
「早瀬さんをお願いできますか」
「はい、ただ今」
振り返った戸田は私を意味ありげな目で見て、口元だけを動かした。
『ご指名ですよ』
私は心の中で苦笑しながらノートとペンを持って立ち上がる。戸田と入れ違いに高原の前まで行き、彼に会釈した。
「いらっしゃいませ」
そのまま彼をパーテーションで区切った簡易的な来客用スペースへと案内する。
高原は個人契約の書類を何件か持参してきていた。実際に業務に取り組み始めてからはまだ日が浅いというのに、契約を取り付けて来るそのペースの早さに驚く。
彼は私の前に書類を置いた。
「見て頂けますか?」
私は頷き、書類を手に取った。目を皿のようにしながら隅々まで確認し、最後に書面の何か所かを指さした。
「こことここが記入漏れです。ここの高原さんのサインも抜けていますね」
「本当だ。失礼しました」
高原はペンを持って顔を伏せ、私に指摘された場所を埋め始める。
私はその手元を何気なく眺めていたが、書き終えて顔を上げた高原と目が合って、不覚にもどきりとしてしまう。
彼は口元に小さく笑みを浮かべ、私だけにしか聞こえないほどの小声で言った。
「今夜、空いてる?」
私は動揺を悟られないように慌てて目を伏せ、同じく小声で返した。
「空いてません」
彼はメモを取るふりをしながら続けた。
「何度もメッセージ入れたのに、返事くれないんだな」
「忙しかったので」
「そう簡単に頷いてもらえないことは、覚悟してるけどね」
高原は目元を緩めて私を見つめた。
その表情に胸の中がざわめいたが、平静を装いながら書類をまとめる。
「……それでは書類はお預かりします。何かあれば、またご連絡しますので、その時はご対応などよろしくお願いします」
大木の声がしたのはその時だ。
「高原さん、いらしてたんですね。お疲れ様です」
顔を上げたそこに、外出先から戻って来たばかりと思われる大木が立っていた。パーテーションの脇から覗き込むようにして、私と高原を笑顔で見ている。大木は高原に目を向けてにこやかに言った。
「たくさんの契約成立、ありがとうございます。さすがマルヨシ様ですね」
私ははっとした。その言い方では、まるで高原が親の力を利用してでもいるかのように聞こえてしまう。自分が失礼な発言をしたことに大木は気づいていないのだろうかと、はらはらしながら高原の横顔を見た。
しかし、彼に大木の言葉を気にした様子はない。高原は穏やかな顔のまま、さらりと言った。
「えぇ、おかげさまで」
その余裕ある態度が癇に触ったのか、大木の笑顔がぴくりと引きつった。それをごまかそうとしてか、その笑顔がさらに大きくなり不自然なほど明るすぎる声で言った。
「ぜひその調子で、今後もよろしくお願いします」
「はい。頑張ります」
高原が頭を下げたその一瞬、大木が私を見た。その目の奥に探るような、疑うような、嫌らしい光がちらついたような気がした。きっとまた何か言ってくるに違いないと気が重くなり、胸が苦しくなった。
高原が帰って行った後、思っていた通り、私は大木から別室に呼ばれた。二人きりになるのは嫌だと思っても、行かないわけにはいかない。ここ最近、高原が来る、または来たと知ると、大木の嫌味は今までよりさらに粘着度を増していた。今日はいったい何を言われるのかと緊張しながら入室する。
大木は私を立たせたままで、早速口を開いた。
「早瀬さん、ずいぶんと高原さんと親しげな雰囲気だったねぇ。まさかとは思うけど、彼と何かあったんじゃないだろうね。――例えば、寝た、とかさ。彼、どことなく色気あるしねぇ」
「な、何を仰るんですか……っ!」
いきなりの侮辱発言に、全身がカッと熱くなった。それは大木得意の嫌味であり、言いがかりだと分かってはいた。しかし私だけではなく、遠回しに高原のことまでも貶めるような発言に、怒りでめまいを起こしそうになる。それを必死に抑え込みながら、私は声を絞り出して大木の言葉を否定した。
「そんなことはしていませんし、ありえません。それに、今の課長の発言は、高原さんに対しても失礼です」
「ふぅん……」
大木は腕を組んで疑いのまなざしを私に向けて、じとっとした口調で続けた。
「失礼、ねぇ……。本当にそうかな。どうも私の目には、そうは見えなかったからさ。まぁねぇ、高原さんはほんと、いい男だからね。早瀬さんが好きになる気持ちは分からないでもないな。ああいうのが好みなんだったら、私のことなんか確かに眼中にないよなぁ。まぁ、とにかくだ。高原さんだって、あんまり変な噂が立ったりしたら迷惑だろう。彼はマルヨシの跡取りなんだろうからさ。そんなわけで一応ね、確認させてもらった」
いつに以上に執拗で棘のある大木の言葉に、はらわたが煮え繰り返りそうになる。しかし、ここで怒りを露わにしたり涙ぐんだりするのは大木を喜ばせるだけだと思い、私は拳をぎゅっと握りしめてその暴言に耐える。
「……以後、周りに誤解を与えないよう、十分に気を付けます」
悔しいけれど私はそう言って頭を下げた。
大木はふふんと鼻で嗤う。顎でドアの方を示しながら言う。
「そうした方がいい。……仕事に戻っていいよ」
「はい、失礼します」
部屋を出て、私は下唇を噛みながら思う。大木がいなくなるまであと半年。それまで我慢してなんとか乗り切ればいい。
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