コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
「結婚する時に決めたの。家賃と光熱費は旦那、生活費は私、医療費、衣服費、嗜好品は各自、って」
共働きの夫婦の内情に詳しくはないから、そういう夫婦がいてもおかしいとは思わない。
ただ、それは奥さんがいつまでも働き続けられる場合だ。
妊娠し産休、育休に入れば、同じようにはいかない。
「妊娠がわかってから、暴力が始まったの。モラハラパワハラセクハラのオンパレード。つわりが始まる前に流産したの。で、離婚」
ははっ、と何でもないように笑う槇ちゃんに、私は同じように笑いかけられるはずもない。
「別れて正解でしょ」
「そうね。でも、妊娠する前は結婚を後悔することはなかった。ベタベタする恋愛関係は好きじゃなかったし、気が強い私に嫌な顔をすることもなかった旦那との生活は、すごく楽で。だから――」
「――近藤ともうまくいかなくなるって?」
槇ちゃんが頷いた。
離婚に限らず、『こんな人だなんて思わなかった』と思うような別れ方をすると、自分の人を見る目が信じられなくなるのは、よくあることだろう。
私だって、そうだ。
将来を夢見て一緒に暮らした男には置き去りにされ、大人で包容力があると思って結婚した男には浮気されまくった。
結果として、匡が私と別れたことにはそれなりにまともな理由があったにしても、それはあくまでも匡側の言い分だ。
16年も経ってネタバラしされても、遅い。
「いいんじゃない? それで」
「なにが?」
「槇ちゃんが男を信じられるようになるかは、近藤次第ってことでしょ? お手並み拝見ってことでいいんじゃない?」
小首をかしげて言うと、槇ちゃんが笑った。
「私、すんごい嫌な女みたいじゃない」
「寝た後に『待て』させてるんだから、みたいじゃなくて嫌な女でしょ」
ずっと食べてみたかったものがあって、それを食べられたとする。でも、次に食べられるのはいつになるかわからない。それはきっと、そのものの味を知る前より渇きを誘うだろう。
だって、それがとても美味しいと知ってしまったから。
「ま、槇ちゃんがどんなに嫌な女でも? 本当に欲しいなら近藤が頑張るだけでしょ」
「他人事だと思って言ってるんだろうけど、千恵も十分嫌な女よ」
「アラフォーバツイチ女には誉め言葉かもね」
お互いにハハッと笑うと、どちらからともなくグラスを差し出した。
「どうせなら、とことん振り回してやろ」
ハツラツとそう言った槇ちゃんが、中学生の頃の、日に焼けた肌でグラウンドを走っていた頃の彼女を思い出させた。
多分、槇ちゃんも同じように思っただろう。
話題は昔の近藤の話になり、当時槇ちゃんが好きだった人の話になり、私と匡が付き合っていた頃の話を聞かせろと言った槇ちゃんの目は虚ろだった。
そこで気づく。
槇ちゃんの現住所がわからない。
この時、私もすでに酔っていた。
そうでなければ、槇ちゃんの頬を叩いて起こすなり、バッグの中から免許証を探すなりしたはずだ。
なのに、何を思ったのか私は槇ちゃんのスマホを手に持った。そして、ディスプレイを彼女に向ける。
「槇ちゃん、目ぇ開けて」
「んん……?」
言われるがまま、自分のスマホを向けられて槇ちゃんが閉じかかった瞼を上げる。
私もまた、重い瞼を擦り上げながら、槇ちゃんのスマホを操作し、目当ての人物の名前を見つける。
人差し指で軽やかに名前をタップすると、呼び出し音が鳴り始めた。
「もっしもーし」
呼び出し音に呼びかける。
「もっしもー――」
『――はい! 槇野!?』
声だけでは相手が誰とは認識できなかったが、男なのは確かで、そのくぐもった低い声は私を槇ちゃんだと思っている。
短い言葉でも焦っている様子がうかがえて、私はなぜかそれが面白くなった。
「ぶっぶー! ハズレでぇす」
残念だなぁ、と思いながら〈終話〉のマークをタップする。
「槇ちゃん。愛する槇ちゃんと私を間違えるような男は、ダメだよ」
やれやれ、とスマホをテーブルに置こうとした時、ヴヴヴッと震えた。
相手も見ずに、〈応答〉のマークをタップする。
「もっしもーし」
『槇野? ……の携帯だろ?』
すごく遠いところでぼそぼそと聞こえる。
「誰だ!」
『かけてきておいて誰だじゃねぇ。お前こそ誰……って、篠塚?』
自分の名前を呼ばれただけなのに、なぜかムッとした。
「人の名前を気安く呼ぶな!」
『めんどくせぇ……。酔ってんのか?』
「めんどくせぇのはお前だ! さっさと槇ちゃんを迎えに来い!」
『はぁ?』
「十秒以内に来ないと、槇ちゃんはあげません!」
『十秒とか――』
その後の記憶はかなり曖昧で、現実味もないのだが、私はテンション高めに楽しい会話を続けた。
その結果、喉が渇き、更に冷えたアルコールを接種。生理現象には抗えず、ふらつく足で席を立つ。
私が意識を保ち、記憶というデータの保存が可能だったのは、そこまでだった。