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「聞かないの? これからのこと」
食後のコーヒーを飲みながら、咲が聞いた。
「聞いたら答えてくれるのか?」
「答えられることなら」
俺は少し考えて言った。
「俺が父さんの跡を継ぐって言ったら、ついてきてくれるか?」
咲の表情が変わった。
「俺が会社も咲も欲しいと言ったら、受け入れてくれるか?」
「本気?」
「どうかな」
俺も咲も、それ以上何も言わなかった。
食事を終えた俺たちは、ビルの中を見て歩いた。
咲が興味を持って入る店はどこも高級店で、俺は咲の育った環境がますます気になった。
夕方、咲がようやくネックレスを手に取った。プラチナのチェーンにダイヤが一粒という、かなりシンプルな物。お揃いのイヤリングとブレスレットもあると、店員が出して見せた。咲は気に入ったようで、熱心に鏡を見ている。
「ドレスは扱ってない?」と、俺は店員に聞いた。
「ございますよ」と、店員は二階に案内してくれた。
「蒼?」
咲が着けていたアクセサリーを外して上がって来るまでに、俺は店員にさっきのアクセサリーが似合うドレスと靴、バッグを選んでほしいと頼んだ。ついでに、ビル内の美容室の予約も頼むと、店員は快く引き受けてくれた。
「蒼? 何なの?」
「樹梨ちゃんの結婚式に着て行くドレス、選んで。俺は外で待ってるよ」
店員にドレスを薦められて戸惑う咲を置き去りにして、俺は店を出て近くのカフェで時間を潰した。一時間ほどして店から電話がかかってきた。
「お連れ様は美容室にご案内しました」と、店員は言った。
俺は支払いを済ませて、咲が着ていた服が入っている紙袋を持って店を出た。総額百万近い売り上げに、店員が上機嫌で深々と頭を下げて見送っていた。
咲から美容室を出たと電話があった時、外は薄暗くなっていた。
「何なの? これ……」
「前に言ったろ? 超高級レストランに連れて行くって」
俺は手をつなぐ代わりに、咲の腰に腕を回した。
「騒ぎが落ち着いたらって……」
「せっかくのチャンスだし、いいだろ」
咲は薄いグレーのワンピースに丈の短いジャケットを着ていた。俺の予想していたドレスよりずっとシンプルで少し期待外れだったが、咲によく似合っている。
俺はお台場に車を走らせた。
ホテルの駐車場で係員に宿泊を伝え、宿泊客用の駐車スペースに誘導された。
「えっ? 泊まるの?」と咲が聞く。
「そ」と、俺は当然のように答えた。
呆れたのか諦めたのか、咲はそれ以上は言わなかった。
積んであったジャケットを羽織り、俺は咲をエスコートして二十七階のスイート専用のラウンジでチェックインを済ませてから、三十階に上がり、ダイニングの入り口で名前を伝えた。
通された個室からは、ちょうどライトアップされたレインボーブリッジが望めた。一瞬、咲が足を止めて目を見開いた。
「おいで」と、俺は椅子を引いて咲に座るように促した。
「ありがとう」と、咲は流れる動きで腰を下ろした。
やっぱり、慣れてる……。
俺がウェイターに「任せる」とだけ伝えたことにも、反応しなかった。
「いつの間に予約したの?」と、咲が聞いた。
「今朝」と、俺は答えた。
すぐにソムリエが来て、食前酒を聞いた。
「彼女の好みで」と、俺は咲に任せた。
「シャンパンを」と、咲はすぐに答えた。
「急に、どうしたの?」
ソムリエが出て行くと、咲が聞いた。
「何が?」
「何から何まで……」と、咲はネックレスに触れた。
「俺がボンボンだってことを思い出してもらいたくて」
「何それ」
ソムリエが戻ってきて、グラスにシャンパンを注いで出て行った。
「俺たちの未来に」と言って、俺はグラスを傾けた。
我ながら、歯の浮くような文句だと思った。咲はふっと笑って、グラスを俺のグラスに重ねた。
シャンパンを一口飲むと、咲はドレスを買った店からずっと持っていた店の袋をテーブルに置いて、すっと俺の方に押した。
「何?」
「今日のお礼」
「いつの間に……」
俺は袋から箱を取り出し、蓋を開けた。
腕時計だった。
あの店で、咲がネックレスを試している間、俺が見ていたものだった。咲のジュエリー三点と同等の金額のはず。
「気に入らない?」
驚く俺に、咲はもう一つ箱を取り出して開けた。女性用の腕時計。
「ちょうど腕時計が欲しかったから」
お揃い……は嬉しいけど、セットでいくらだよ――。
「ありがとう。大事にするよ」と、俺は繕った笑顔を見せた。
「私こそ、ありがとう。今日はすごく楽しかった」
咲には、俺の考えはお見通しのようだ。
俺は咲に疑問をぶつけようか考えていた。ぶつけたところで、咲が答えを返してくれるかもわからない。今はドレスアップした咲を眺めて、食事を楽しむべきじゃないか。
ぐるぐる考えて、いつもの答えに辿り着いた。
「今更探り合いなんて、意味ないよな」
俺は言った。
「ふふっ」
咲が笑う。
「くそっ! 今日は格好つけてようと思ってたのに」と、俺はシャンパンを飲み干した。
「咲、お前は何者だよ?」
「何者って?」と、咲は俺を挑発するようにシャンパンをふくみながら言う。
「この時計、課長レベルで買えるものじゃないよな?」
「貯金が趣味なの」
「真面目にだよ。どこのお嬢様?」
「ねぇ、蒼」と、咲は窓レインボーブリッジに目を向けた。
「ランチの時に言ってたこと、本気?」
「何……」
『俺が会社も咲も欲しいと言ったら、受け入れてくれるか?』
「本気で会社を手に入れたい?」
『咲も』と言ったことはスルーかよ。
「本気だって言ったら?」
「お兄さんや重役の親族を蹴落とす覚悟はある?」
覚悟――。
窓に映る咲の目は、俺を見ていた。
「正直……、今は目の前のことで精いっぱいだから、腹を括ってると断言は出来ないな」
俺も、窓越しに咲を見て言った。
「でも、ここまで騒ぎが大きくなる前に処理出来たかもしれないのにしなかった和泉兄さんも、ここまで騒ぎを大きくしなくても処理出来たかもしれないのにしなかった充兄さんも、ムカつく――」
「蒼なら、騒ぎが大きくなる前に、騒ぎを大きくしないように処理出来た?」
「どうかな……。でも、被害者が増える前に、被害者が晒し者にならないように処理したかったとは思う」
「そっか……」
咲は徐に薬指の指輪を外し、俺の前に置いた。
「何だよ――」
心臓が跳ね上がった。
別れを告げられるのではと、不安が襲う。
「預かってて」と、咲は言った。
預かる――?
「この件が片付いた時、それがどんな結末であっても、T&Nは大きな改革をせざるを得なくなる。その時、蒼がまだ私を必要としてくれるなら、もう一度渡して?」
「俺が信じられない?」
無意識に、自分の手首の傷を確かめていた。
「違う。私が本気だってことよ」
「本気?」
「そう。必ずその指輪を取り戻すって、本気」
ホント、咲には敵わねぇな――。
俺は、指輪を握りしめた。
「じゃあ、次にこの指輪を咲に渡す時までに、俺は覚悟を決めるよ」
咲はシャンパンを俺のグラスに注いだ。
「私の本気と蒼の覚悟に」
俺たちはグラスを鳴らして、別れの前夜を楽しんだ。