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楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、スイートルームでの甘い夜も朝には思い出となる。目が覚めてもしばらくベッドの中で触れ合ってキスしていた私たちも、朝食のルームサービスが届けられて現実に連れ戻された。
私はカップにコーヒーを注いだ。
「蒼、和泉社長か充副社長が黒幕だと考えたことはない?」
「ない」
カップを受け取りながら、蒼は即答した。
「どうして?」
「まず、理由がない。和泉兄さんも充兄さんも金に不自由しているとは思えない」
オムレツが口の中でとろける。
「それに、和泉兄さんは咲が尊敬する百合さんが好きになった男だぞ? 女と深い付き合いを嫌ってた充兄さんも今は結婚したい女がいるみたいだし、金のために罪を犯すなんてあり得ない」
「理由がお金以外だったら?」と言って、私はハッシュドポテトを口に入れた。
「T&Nの次期会長を狙ってか? それこそ矛盾だらけだろ」
「本音は?」
私はフォークにベーコンを刺して、蒼に向けた。蒼はベーコンを口に入れる。
「俺の兄さんたちは悪人じゃない」
「そう……」
今度は蒼がミニトマトのヘタを指でつまんで、私に向けた。私はミニトマトを頬張る。
「聞いても調べるんだろ?」
「まぁね」
「俺がするべきことは?」
『ないわ』と言おうとして、やめた。
「身辺に気を付けて」
「はっ?」
予想外だったようで、蒼が拍子抜けした声を出した。
「蒼、川原が消えたの」
「え……」
「先週まで充副社長が匿っていたのは確かなんだけど、取締役会の後に逃げられたみたい。川原は真が清水を告発したことを恨んでるから、この件で真をフィナンシャルに引っ張った蒼が真を使ってると誤解しても不思議じゃない」
川原の行方を追っていた侑から報告を受けたのは三日前。恐らく、真がフィナンシャルで調査をすると知って、逃げ出したのだろう。
「なるほど。それなら、俺よりも真さんの方が危険なんじゃ……」
「大丈夫。真は有段者だから」
「あ……そ」
蒼はいじけた顔をして、目を逸らした。
真と張り合おうとする蒼が、可愛かった。
「蒼だって護身術の心得くらいはあるだろうけど、注意に越したことはないから」
「わかった。他には?」
「私のことは心配しないで」
「それは……難しいな」と、蒼は寂しそうに笑った。
「蒼はフィナンシャルで和泉社長の戻る場所を守ってあげて」
「わかったよ」
朝食を終えて身支度をしていた私をベッドに連れ戻した蒼は、薄いガラスに触れるように優しく私に触れた。初めて蒼に抱かれた時よりも、もっとずっと優しくて、もっとずっと幸せで、もっとずっと苦しかった。
感触を身体に刻み込むように、ゆっくりと深く、優しく揺さぶられ、この瞬間が終わらなければいいと、本気で願った。
「咲……、愛してる――」
一度だけ、蒼が囁いた。
蒼が私の言葉を待っているのはわかっている。言えたらどんなに楽だろうと思う。けれど、今の私はまだ、言えない。
「ありがとう……」
『私も愛してる』の代わりに、私は微笑んだ。
軽くなった左手の薬指に寂しさを残して、私たちはホテルを出て別れた――。
*****
蒼と別れて一時間後、私は真の部屋にいた。
「一昨日のことがあったから、別れるのをやめたのかと思ってたんだけどな」
真に差し出されたミルクティーのカップを受け取って、私は一口飲んだ。温かさと甘さが、涙を誘った。
「そんなに頑張らなくてもいいんじゃないのか? これまで通り、お前は庶務課で働きながら俺や館山からの報告を待てばいい。時間のある時に飯を作って蒼の帰りを待ってやればいい」
そうできたら、どんなにいいだろう。
私はうつむいて、首を振った。
「庶務課はやめるから……」
「どうしてっ?」
「本社にいたんじゃ……身動きが取れない」
ミルクティーの表面に雫が落ちて、渦を巻いた。
真は私の手からカップを取ってテーブルに置いた。
「頑張りすぎだ、咲」と、真が私の頭をなでる。
「お前、自分が思ってるほど器用じゃないんだよ……」
わかってる……。
今までは仕事が好きで楽しかったから、恋人が出来ても夢中になれなかった。セックスにしても、仕事での達成感以上の快感を得られなくて、自分は不感症なんじゃないかと思うくらいだった。
でも、蒼と出会って、蒼に愛されて、蒼を愛してわかった。結局、今までの私は誰のことも、仕事以上に好きにはなれなかっただけ。
人の秘密を暴く優越感、スパイごっこの緊張感、会社を守る達成感、どれも私の交感神経を刺激し、アドレナリンを放出させた。その快感以上のものなんてないと思ってた。いつか仕事以上に大切にしたいものが、人が出来るなんて考えもしなかった。だからこそ、これまでどんな危険なことも、無茶苦茶なこともやってきたのだ。
「真兄ぃ……」
無意識に、呼んだ。もうずっと、真をそんな呼び方はしていなかったのに。
「蒼を守って……」
「前にも言っただろ? あいつはそんなにヤワじゃない」
私は夢中で首を振った。
「そんなに心配なら、お前がそばにいればいい」
「蒼に言われたの。『どこのお嬢様だ』って……」
「咲……」
止まることなく流れる涙が、私のスカートに染みを広げる。
「まこ……兄……」
涙で視界が歪む。
「蒼に……嫌われたらどうしよう……」
息が苦しい。
「さっさと言っちまえば良かったんだ――」
真が私の肩を抱いた。
「本当のことを知ったって、あいつはきっと変わらない」
私は真にしがみついて、子供のように泣きじゃくった。
「お前たちだけが特別じゃない。誰にだって秘密の一つや二つあるんだよ。お前は誰にも話さなかった樹梨ちゃんと千鶴ちゃんのことも、蒼には話しただろ。同じように、お前が誰なのかを話しても蒼はちゃんとお前を受け止めるさ」
「でもっ――」
「咲、お前は蒼が会長の息子だから好きになったのか? 違うだろ。裏に誰のどんな思惑があったって、お前と蒼がお互いを好きになったのは、間違いなくお前たちの意思だ」
真の言っていることを理解は出来る。そうでありたい、そうであってほしいとも思う。けれど、それはどう頑張っても『願い』の域を出ない。どうしても、『自信』には繋がらない。
だって、私は知っているから。
誰にでも秘密がある。
誰にでも嘘がある。
そして、それはいつか暴かれる。
私が暴いてきたように。
そして、必ず誰かが傷つく。
私が傷つけてきたように。
これは罰。
他人の秘密に興奮し、それを暴くことに快感を覚えた。
秘密の香りが私を『メス』にした。
私の中の獣の本能が、秘密を暴けと掻き立てた。
気が付けば……、私は手負いの獣のように誰も信じられなくなっていた――。
『咲、愛してる――』
数時間前の蒼の囁きを思い出すだけで、身体が熱くなる。
いつか、蒼が違う誰かに愛を囁くのかと考えるだけで、胸が苦しくなる。
それでも、私の秘密が蒼を狂わせ、喰い殺してしまうよりはマシかもしれない。
そうか……。
私が、蒼の未来の礎になればいい。
「真……」
私は顔を上げた。涙は乾いていた。
「計画変更よ」
私が話し終えた時、ミルクティーは冷めきっていて、真が淹れ直してくれた。
「本当に、それでいいのか?」と、真は聞いた。
「うん……。真が了承してくれるなら」
「俺はいいんだよ。どこでだって、どうにだって生きていけるさ。けど、百合さんと館山も巻き込んでいいのか? いや、それよりもお前だよ。全部捨てるのか?」
一杯目のミルクティーと違って、二杯目のミルクティーの温かさは私を落ち着け、甘さは私の心を研ぎ澄ませた。
昨夜は精いっぱいの虚勢を張って、蒼に指輪を返した。あの指輪を私が手にすることは、きっと二度とない。
蒼を離したくないと、何度も思った。
蒼を放さないと、何度も決めた。
それでも、私が蒼に出来ることは、別れることだけだった。
苦しかったし、寂しかった。
今も、苦しいし、寂しい。
けれど、心は決まった。
「私も同じよ。どこでだって、どうにだって生きていける」
真が大きなため息をついた。
「いっそのこと、お前から蒼にプロポーズしろよ。こんなことするより、よっぽど喜ばれるぞ?」
「ふふっ……。そんな月並みな愛し方じゃつまらないじゃない」
「お前の愛はスケールがデカすぎるんだよ」と言って、真は呆れ顔で笑った。
「ここまで付き合ったんだ。最後まで付き合うさ。可愛い妹のためだ」
「ありがとう……、真兄」
「で、具体的に俺は何をすればいい?」
真が自分のミルクティーを飲む。
「手始めに、和泉社長を攻略して」
「手始めって……軽く言ってくれるぜ。築島和泉ってラスボス級だろ」
「冗談。ラスボスは私の獲物よ」
二度と蒼と触れ合えなくても、私は蒼の心に住み続けたい。
蒼が一生、絶対に忘れられない女になりたい。
そのためなら、憎まれても構わない。
私は自分の中で『メス』が目覚めるのを感じた――。