視界いっぱいに広がるキラキラと青く光る海が、緩やかな鈍い響きを単調に繰り返す。
『海だぁ!』
こんな時間帯に海に来るのは初めて。
授業をサボるのも、先生たちに黙って学校を抜け出すのも、ぜんぶが初めて。
そんな“初めて”の詰まった状況に、心の内にはもちろんサボってしまったというどうしようもない罪悪感が居座っているが、その何倍もの言葉に出来ない解放感が胸の中を踊る。
全身の疲労を洗い落されるような風の暖かさに、ホッと小さく息を吐く。
「オマエ海好きなの?」
近付いては戻って行く海の水をキャッキャッと騒ぎながら楽しんでいると砂を踏む鋭い足音とともに私をここへ連れてきてくれた張本人であるイザナくんの声が鼓膜に触れる。その声に動かされるようにふらりと背後を振り向くと、想像通りの人物が私と同じように海を見つめていた。
『んー…』
迫るような潮の轟きをぼんやりと聞きながら、問われた言葉の返答を考える。
人間なんかの手には収まり切れないほどの大量の水があって、同じくらいの量の砂があって、どれだけ目を凝らしても果てが見えなくて。時折波の音に紛れて耳の中に入り込んで来る鳥たちの鳴き声がいつもよりずっと響いて聞こえる。
ただそれだけの海。
嫌いなのかと問われたら違うが、好きと問われても悩む。
『…どうだろう。』
複雑に絡まり合った思考を解くのを諦め、糸のように目を細めて力なく笑う。
風で水面にくだけた太陽がふにゃふにゃと柔らかく震え、光を濁す。小さな温かみを帯びた海の風が潮の匂いとともに私の体を包み込む。
「ふーん」
感情の読み取れない声でそう落とすイザナくんは私の横へ腰を下ろすと、擦り傷や痣の増えた私の腕をまたもや感情の読み取れない瞳で見つめた。
「…オマエ、こんなことされてもまだ学校行きたくないとか思わねェの」
疑問符もつかない淡々とした口調で告げられたその問いとともにイザナくんの視線が私の腕から目に移る。紫色に深く澄んだ瞳と視線ぶつかり、闇がちらつく。
『…思わないかな』
さらりと不自然に思われないような手振りで痣を片方の手で隠し、ぴったりと重なり合っていたイザナくんとの視線を外す。
『高校もちゃんと卒業しとかないとシセツの人に迷惑かけちゃうし。』
そう言いながら私は少しずつちぎって捨てるような苦しい溜息をついた。
どれだけ逃げたい場所から逃げたくても社会はそれを許してくれない。
それなりの学歴がないと就職や人付き合いでは苦労するし、“いじめられっ子”や“親が居ない子”というレッテルを張られている私からすれば尚更そうだ。
普通に生きるためには逃げるだけではなく、抗わなければいけない。
どれだけ苦しく、辛くても。
そう次々と浮かび上がって来る現実の嫌な考えにグルグルと緩い頭痛が始まり、ふーっと疲れを吐き出すように息をする。どれだけ息を吐いても気持ちは一向に楽にならない。体が目に見えない大きな力に引きずられるように先へ先へと進む。
『イザナくん』
ふと感じた目尻にこびりついている乾いた涙の欠片と身体に残った痣の数に目を細めながらすぐ横に居る彼の名前を呼ぶ。
「ンだよ」
『ありがとうね、助かった!』
彼がゆっくりとこちらを振り向いたのを確認したと同時に、言葉を吐く。
イザナくんが海につれてきてくれたおかげでいくらか気分が良くなったせいだろうか。不思議なことに落とした声の色はいつもよりもずっと明るかった。自然と顔に笑みの皺が刻まれる。
「…ン」
イザナくんは一瞬だけ、驚いたように長い睫毛に囲まれたガラス細工のように綺麗で大きな目を見開かせると、少しだけ目じりを下げてそう呟くような声で返事を返してくれた。
途端、胸に喜びに似た感情が広がる。
「帰るか?」
その声にハッとして上を見上げると、空の色はいつもの下校時間と同じ色をしていた。雲がバラ色のぼかし模様になって空を染めている。
『…うん。』
イザナくんの問いかけに文章に余白を設けるように少しだけ間を置き、そう答える。
波が耳に余る大きな音を立てるのを横目に最後に一度大きく息を吐くと、ゆっくりと砂浜から立ち上がって制服や皮膚にくっついた砂を払う。パラパラと重力に従って落ちていく細かな砂たちをぼんやりと見つめながら一歩先を進んでいくイザナくんの後を追う。
カラン、カランと彼の動きに合わせて揺れる花札のピアスが澄んだ音を立てる。
『待ってイザナくん早い』
「オマエがおせぇンだよ。」
来る時よりも何倍も軽くなった足取りで私は歩みを進めた。
続きます→♡1000
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