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『春風が君を運んできた日』
春の風が吹いた日、僕の世界に君は現れた。
駅前の桜並木がちょうど咲き始めていて、風に舞った花びらがまるで魔法のように空を漂っていた。
君はその真ん中に立っていた。
大きなスーツケースと、やけに似合わない薄手のワンピース。
長い黒髪が風に流されて、まるでどこか遠い国の物語から抜け出してきたみたいだった。
「……ここ、どこ?」
それが、君の第一声だった。
不思議そうに見上げる瞳は、どこか迷子のようで――でも、なぜか僕はすぐに思った。
ああ、この人は、この世界の住人じゃない。
君は「記憶がない」と言った。
でも、泣いたり困ったりせずに、なんだか楽しそうに笑っていた。
「せっかくだし、ちょっとだけこの世界に居させてくれる?」
僕は頷いた。
その日から、僕たちは一緒に暮らし始めた。
料理を教えて、桜の並木道を散歩して、風の音に耳をすまして、君は少しずつこの街に馴染んでいった。
でも、僕は知っていた。
君がここにいることは、ほんの短い奇跡だってことを。
風が君を連れてきたのなら、
きっと風が君をさらっていく。
ある日の夜、君は夢を見ていた。
静かに涙を流しながら「ありがとう」と、誰かの名前を呼んでいた。
僕はその声を聞きながら、何も言えずに隣に座っていた。
そして、次の朝。
君はいなかった。
まるで最初からこの世界にいなかったように、痕跡を一つも残さずに。
でも、君が座っていた椅子の上に、そっと置かれていたものがあった。
一輪の桜の花と、たった一言の手紙。
「君に会えて、よかった。春風に乗って、またどこかで。」
それから何年が経っても、春が来るたび僕は思い出す。
あの日、桜の花びらの中で微笑んだ君のことを。
そして風が吹くたびに、ほんの少しだけ胸があたたかくなる。
君が春風に乗ってやってきた日を、僕はずっと忘れない。