テラーノベル
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夜が深い。
縫季は、政務の間の前で足を止めた。
廊下の奥から、かすかな音がする。
帳を繰る音。筆が木簡を撫でる、細い音。
まだ、働いている。
縫季は懐の書簡を確かめた。医官府から上がってきた、民の病の報告。安堵配給の経路が断たれてから、五日。震えと嘔吐を訴える民の数が、倍になった。
これは帝辛に渡さなければならない。今夜中に。
それだけだ。入る理由は、それだけだ。
縫季は扉を叩いた。
「……入れ」
くぐもった声。疲れている。だが、揺れていない。
扉を開ける。
灯りは卓の一本だけ。色がくすんで見えた。
帝辛は卓に向かっていた。両手に異なる帳。傍らに、書き損じた木簡が積まれている。
書き直した跡だ。
「縫季か」
顔を上げない。帳から目を離さない。
「安堵配給の件か」
一言で分かった。縫季は黙って書簡を差し出した。
帝辛は受け取る。開く。目が走る。
一度だけ、止まった。
「……倍か」
声は穏やかだった。乱れていない。ただ、一拍だけ遅い。
「五日でこれなら、十日後は」
帝辛は続きを言わない。言わなくても、分かる。
縫季は隣に腰を下ろした。聞いてから座るのが筋だが、今夜は違う。帝辛も、咎めない。
「配給を断った民は、体の障りが出る。放置すれば混乱する。だが」
縫季は卓の上の書き損じた木簡を見た。
「公にすれば、配給元の名が出る」
帝辛は筆を置いた。
「清朗の名が、出る」
静かに言った。事実として。責めではない。
縫季の喉が、一瞬つまった。
「……隠蔽は、してない」
帝辛が言う。
「別の経路を探している。医官府を通さず、巡回の薬師に障りの治療だけさせる。配給の話は出さない。記録は残すが、清朗の名と紐付けない形で」
縫季は帝辛の横顔を見た。
疲れている。だが、青ざめていない。
今夜何時間、これと向き合っていたのか。
「……その経路、私が通せます」
言葉が、自分でも驚くほど早く出た。
帝辛が、初めて顔を上げる。
「……記録に、残らないか」
「残りません」
帝辛は一拍、縫季を見た。
「そうか」
もう一拍。
「頼む」
短い。だが、重い。
縫季は木簡を引き寄せた。巡回の薬師に回す経路を書き始める。帝辛が隣で帳を開く。二人の筆音が、静かな部屋に重なる。
しばらく、言葉はなかった。
縫季は書きながら、掌の温度を確かめていた。
冷えている。
(……なぜだ)
配給が断たれて五日。汚染の余波がまだ広がっている。世界線が揺れているなら、今夜の掌は熱を帯びるはずだ。
(余波ではない)
縫季は筆を止めそうになって、止めなかった。
これは余波ではない。世界線が動いているのではなく、この部屋の出来事が、まだ線の上にある。
清朗を切った。歪は排除した。
だが、後処理まで含めて「本来の筋道に戻った」とは、まだ言えない。
帝辛が一人でこの問題を抱えている間は。誰かが隣に座らなければ、線が細くなっていく間は。
(……まだ動いている)
縫季は掌を見た。冷たい。冷えたまま、動いている。
それが何を意味するのか、今夜は答えを出せない。
「縫季」
帝辛が呼んだ。
「はい」
「この薬師への書状、明朝で間に合うか」
「間に合います」
「そうか」
「助かる」
それだけだった。
それだけなのに。
縫季の胸の奥で、何かが軋んだ。
助かる。その一言だ。
叱責でも、感謝でも、称賛でもない。ただ事実として、助かる、と言った。
この男は、それだけで十分だと思っている。
縫季は木簡に視線を戻した。戻しながら、喉の奥で何かを飲み込む。
(……支えたい)
また、あの衝動が来る。
廊下で止めた一歩。中庭で引いた手。今夜、自分から扉を叩いた足。
少しずつ、距離が詰まっている。
それが正しいのか、間違いなのか。任務なのか、感情なのか。
まだ、分からない。
分からないまま、筆だけが動く。
帝辛の筆音が、隣で続いている。
乱れていない。一定だ。
清朗がいない夜に、一人で立て直していた男の筆音だ。
縫季は、その音を聞きながら、書き続けた。
灯りが、静かに揺れた。
揺れたのは風のせいか。それとも、二人分の呼吸のせいか。
判断できないまま、夜は深くなっていく。
木簡が、一束ずつ積み重なる。
灯りが、静かに揺れる。
どれだけ経ったか。
帝辛が筆を置いた。
「今夜はここまでだ」
労いでも命令でもない。ただ、区切りだった。
縫季は頭を下げた。
「承知いたしました」
扉を開ける。廊下の冷気が、頬を打つ。
縫季は扉を閉めた。
背後で、帝辛の筆が小さく鳴った。
すぐに、静かになった。
◆
廊下は冷たかった。
縫季は、閉めた扉の前で一度だけ息を吐いた。白くなる。
掌を確かめる。
冷たい。
清朗を切った。経路も断った。
なのに、戻らない。保存記録上の収束へ寄るはずの線が、繋がらない。
答えは出ない。出ないまま、歩き出す。
背後で扉が開く音がした。
振り返る。
帝辛が立っていた。灯りを背負って。表情は見えない。
沈黙。
帝辛がゆっくりと身を引いた。扉を、広げる。
言葉はない。だが、意味は分かる。
縫季は扉へと歩き出した。
帝辛の前で、足が止まる。
近い。帝辛の目は穏やかだった。だが、その奥に何かが沈んでいる。
「……入れ」
縫季は、一歩、中へ踏み入れた。
コメント
1件
うわああ第43話…!めっちゃエモかった…!!😭💕 帝辛と縫季、二人の距離がほんのちょっとだけ縮まった感じがして胸がきゅーってなったよ…!「助かる」の一言に、感謝でも称賛でもなくただ事実として言う帝辛の誠実さと、それに心を動かされる縫季の心情がもう…たまらんねん…!! 清朗を切った後の「冷たい掌」の描写も、まだ世界線が動いてる予感がして続きが気になって仕方ない…!最後の「入れ」でふたりが同じ空間に戻っていく感じ、ちゃんと“開いた扉”だった…!次話も絶対読む!!🔥
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