テラーノベル
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政務の間の空気は静かだった。
卓の上は整っている。木簡は揃い、筆は真っ直ぐに置かれている。
茶は冷めていた。湯気は、もうない。
帝辛は卓の前に戻り、座に腰を下ろした。
しばらく、沈黙があった。
「……もう少し、いられるか」
低い声。問いの形をしているが、答えを求めていない。
縫季は息を置いた。
「……はい」
帝辛は頷く。だが、何も言わない。
灯りが、小さく揺れる。
沈黙が続く。
「私はな」
唐突に、帝辛が言った。
「祭祀に、人を使うな、と命じた」
縫季は顔を上げる。
「……反発が出たでしょう」
「神官どもは反対した。先王からの習わしだと。祖霊への礼だと」
帝辛は冷えた茶を見つめたまま続ける。
「だが、死んだ者に捧げるより、生きた者に返す方が、国は動く」
「血の古さで席を決める限り、どれほど正しい者を置いても、制度が腐る」
縫季の胸が、静かに締めつけられる。
(……また、敵を増やしてる)
「十年後も、同じ市場で、同じ声が聞こえる国にしたい」
帝辛の声が、少しだけ低くなった。
「今日、腹を満たした者が、明日も同じ顔で笑える国にしたい」
卓の上の茶椀から、もう湯気は立っていない。帝辛は、その冷えた茶をじっと見つめた。
「そのために、鋳て、残す」
「鼎や鐘のように。祈りも、約も、形にして――」
「崩れないように」
縫季は、冷えた茶椀を見た。
「……鼎は、作るのに時間がかかります」
帝辛が、わずかに顔を上げる。
「知っている」
短く、それだけ言った。
沈黙が、また落ちる。
今度は、さっきより柔らかい。
「……用があったわけではない」
帝辛が、静かに続けた。
「ただ、足が向いた」
縫季は、一度だけ帝辛を見た。
「……私もです」
言ってから、視線を落とした。言うつもりはなかった。
帝辛は、何も言わなかった。だが、その沈黙は責めではなかった。
「お前といると」
灯りが揺れる。影が、二人の間で揺れる。
「……頭が、静かになる」
帝辛は目を伏せた。
「王太子である間は、そうはならない」
縫季は、掌を握りしめた。
帝辛は、ゆっくりと卓を回り、縫季の前に来る。
距離は、もう半歩もない。
帝辛は、縫季を見たまま動かなかった。
しばらく。
「……今だけでいい」
低く、落とすように言った。
「……支えてくれ」
ただの、人間の声だった。
縫季は瞼を震わせた。
そして、吸い寄せられるようにゆっくりと、帝辛の背に腕を回した。
帝辛の体が一瞬、強張る。だが、すぐに力が抜ける。
「……ありがとう」
小さな声だった。
腕の中で、帝辛の呼吸がゆっくり整っていく。
帝辛の温もりに比例するように、縫季の手が冷えていく。
世界線が、動いている。
特定の線が、太くなっているのを感じた。
清朗がいた頃には、なかった線だ。
(……ああ、そうか)
(俺が、歪みだ)
縫季は、腕の力を緩めない。
帝辛の腕が、縫季の背を抱き返す。静かに。強く。
その瞬間。
掌の冷えが増す。
鋭く。深く。
今夜、初めて。
縫季は、動けなかった。
冷えが、骨の中まで走る。
帝辛の呼吸が、縫季の首筋にかかる。
温かい。
その温かさを、冷えた身体が欲する。
帝辛の額が、縫季の肩に重さを増す。
しばらく、そのままだった。
帝辛の腕の力が、わずかに強くなった。もう少しだけ、近づこうとするような。
縫季は、その変化を感じた。
感じて、息を止めた。
胸の奥が、焼ける。
来てくれるな、と思った。来てほしい、とも思った。
冷えた指先で、帝辛の衣を微かに引いた。
静かに。柔らかく。それだけで、意味を込めて。
帝辛の体が、わずかに止まった。
止まって。
腕から、少しずつ力が抜けていく。
堪えた、というより。受け取った、という息だった。
帝辛の体が、わずかに動いた。離れる。ゆっくりと。だが確かに。
縫季の腕の輪から抜けていく。
帝辛は一歩下がった。灯りの下で目を伏せる。
「……すまない」
低い声。
縫季は何も言えない。
帝辛は静かに続けた。
「今のは、忘れてくれ」
帝辛は卓へ戻る。背を向けたまま筆を取りかけて、筆先が木簡に触れない。
「私は、そなたに頼りすぎてはならない」
その声は、昼の公務と同じように整っていた。
「支えがなければ立てぬ王では、駄目だ」
帝辛は続けた。
「私は、一人で選べる王にならねばならない」
灯りが、また小さく揺れる。
「だから」
帝辛は振り返らないまま言った。
「今夜は、ここまでだ」「もう休め」
それが最後の言葉だった。
「……承知いたしました」
声が、かすれる。
縫季は立ち上がり、深く頭を下げた。
扉を開け、廊下に出る。
冷たい空気が頬を打った。
背後では、筆が動き出す音がする。
無理に、動かし始めた音だ。
縫季は、その音に背を向けたまま立ち尽くした。
縫季は掌を見た。
冷えている。
冷えたまま、温まらない。
清朗を切った。
いずれ、自分も切らなければならない。
縫季は、足を動かした。
廊下の燭台が、一つずつ遠ざかっていく。
足音だけが、静かな夜に響いた。
#BL
#ヒューマンドラマ
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コメント
1件
ああ、第44話読み終えたわ…めっちゃ静かで、でも心臓ぎゅってなる回だったね。 帝辛が「支えてくれ」って、ただの人間の声で言ったところ、刺さりすぎた。王冠脱いだ瞬間の体温がそこにある感じがする。でもその後「一人で選べる王にならねば」って自分の首を締めるように引いていくの、痛いほどわかるよ…。 縫季の「俺が、歪みだ」って気づきも、世界線が太くなってる描写も、この物語の重みをちゃんと感じた。冷えた手が温まらないまま終わる夜、すごく切なかった。