テラーノベル
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「ホーズ博士」
彼女が軽く咳払いする。黄色い瞳をゆっくり開いた。
「うん?ああ」
声が震えている。
「そうか、君がウィストンの息子か」
「はい、そうです」
「来てくれてありがとう。嬉しいよ。さあ、こっちへ」
柔和な口調で言い、シオンを手招きしようとした。その手は途中までしか上がらない。
彼は近づいていて手を差し出した。ホーズは力なくその手を掴んで握り返す。
「まずは診察させていただけますか?」
そう言うと、病気だとしたらなんなのか。あるいは心気症(またの名は病気不安症)ではないかと考えた。
「診察しながらお話を伺います」
「診察する?ああ、そうだな。もちろん」
「ガス灯をつけても構いませんか?」
「申し訳ないが、強い光は目が痛くなってね。オイルランプの方がいい」
「分かりました」
タバーズが部屋を出ていき、シオンは鞄を開けて聴診器を取り出す。
「さて、どんな症状か、教えていただけますか?」
「ああ。もう今にも死にそうなんだよ。心臓がおかしいし、汗が出て痛みもある。全身が痛いんだ。関節も内臓も、頭も。歯もガタガタ鳴る。それに、いつも寒くてたまらん」
ホーズは消え入りそうな声で話した。
この部屋は充分暖かい。暖炉に火がついていないので、換気口を通して建物中に暖気が循環する仕組みになっているのだろう。
「胸を調べたら、病歴をお聞きします」
ホーズは素直にシャツの前を大きく開いた。病気だと思い込んでいるだけだろうという予想に反して、心音は確かに正常とは言い難い。数秒後速く打ったと思ったら次に不規則に打ち、それからゆっくり重く打つ。よくないなと、胸の中で呟いた。
「症状がで始めたのは、いつですか?」
「ふむ、いつだったかな。そう、木曜日だった。普段の私は寒気がすることはあっても、丈夫な方だ。ところがその日起きた途端、頭が割れるほど痛くてね。いつになく悪寒が酷かったから、床に就いた。しかし、今はあの時よりはるかに悪い。拷問並に痛くて、立つことも眠ることもできない」
体調を崩して五日経つということか。通常の感染症よりタチが悪いのは確かだ。ここがロンドンなら、真っ先に例のコレラを疑っていただろう。だが人がまばらに住む海岸沿いの地域で、コレラなどほとんど聞いたことがない。マラリアか?いや。確かに湿地ではあるけれど、マラリアはこの地域では根絶された。
「いつもと変わったものは食べませんでしたか?生焼けの肉とか」
「いや。というより、私は肉をほとんど口にしない。食べると血が騒ぎすぎる気がしてね」
「なるほど。家政婦が珍しいキノコ料理を作ったとか?」
「それもないな。普通のパンにチーズ。たまに魚や羊肉。ごくありふれた野菜。それだけだ。そして、タバーズ夫人もケインも一緒に同じものを食べている。うちは小さな所帯だから、別の食事を用意する意味があまりないんだよ」
「お酒は飲みますか?」
「寝る前にブランデーをほんの少しね。ただ、具合が悪くなってから身体が受け付けない」
部屋の隅の小ぶりな樽を手で示す。いつでも掬って飲めるよう、銀の柄杓がそばに置いてある。収税吏が関わるのを恐れるこの地では、聖職者でさえ樽から酒を飲むらしい。
「しばらくお酒は控えた方がいいですね。寝る前もやめてください」
その時微かに軋む音が聞こえて、シオンは部屋の奥の闇へ顔を向けた。
「分かったよ」
彼は学校と臨床の現場で学んだことを思い出しながら、ホーズの病の原因を懸命に探る。特に思い当たらない。だが一番怪しいのは食中毒であり、患者が回復するまで何日か滞在することになりそうだ。それからロンドンへ戻ったら、研究の再開に近づくだろう。
「強壮剤(またの名は栄養剤)を出しますから、それで時期に立てるようになるでしょう」
自信に満ちた口調で言う。
「そうなんだろうな。何しろ、君は専門家だ」
ポーズの清々しさに微笑み、鞄から瓶を取り出した。強壮剤を量ってタンブラーに注ぐ。彼が飲み、苦い味に小さく唇を鳴らした。
「料理を作るところを見てきますよ。家政婦が見落としているのかもしれません」
「もう二十年かそこら、私に忠実に仕えてくれている。故意のはずがない」
「ええ、私もそう思います」
そのような可能性がなぜホーズの脳裏に浮かんだのか、しばし疑問を覚える。
「ロンドンは若者にとって魅力溢れる街なんだろうな」
シオンはその声音に、微かな羨望を感じた。
「活気に満ちた街なのは、間違いありません。でも、静かに暮らしたいと思うこともたまにあります」
「残念ながらレイとマーシーは、活気に満ちた土地とは言い難い。だが、数日いてもらえると助かるよ」
「回復なさるまでいますよ。もちろん」
また図書室の奥の闇から軋む音が響き、シオンはペットか何かが隠れているのだろうかとそちらに目を向けたが何も見えない。
「まだ治療費を決めてなかったな。一日五ギニー(約二十五万円)で足りるだろうか?」
「充分すぎるほどです」
シオンは部屋を取り囲む書棚を見回した。
「ここには何冊の本があるんですか?」
「本?ああ、ざっと三千冊かな」
「立派な図書館ですね。私は……」
さっきより大きな音が闇から聞こえ、彼は身震いする。
「なんの音でしょうか。犬を飼っていらっしゃる?」
「犬?違う、違う」
ホーズは謎めいた表情でシオンを見つめた。
「知らないのか?そうか。事前に知らされなかったとしても、〈ペルドン・ローズ〉で聞いたと思っていたんだが」
あの宿屋はこの土地の情報収集の拠点らしい。
「ランプを持っていて、自分の目で確かめるといい」
回りくどい伝え方がどうも釈然としなかったが、シオンはテーブルのオイルランプを手に取った。黄色い光が周囲に広がり、本の山や何枚もの敷物(ペルシャ絨毯やトルコ絨毯)を照らす。高級品だ。
彼は部屋の奥の暗闇へ向かった。「気をつけろよ」とホーズが言う。
足を前に進めると、奥にあるものの表面が輝くのが見えた。ガラスだ。部屋の奥には巨大なガラス板が配置され、ランプの明かりが滑らかな表面で踊っている。その時、再び音がした。今度は布擦れの音で、奥から聞こえてくる。暗いガラスに映った自分の姿を見ながら、シオンはランプを手に進んだ。
近づくにつれてガラス板の下方へ向かったので、そこからずっと上へ素早く明かりを走らせる。すると、奇妙なことに気づいた。ガラス板は突き当たりの壁ではなく、透明な間仕切りだ。部屋のこちら側は三千冊の蔵書が並んだオリバー・ホーズ博士の部屋で、向こう側の空間はそれより狭く屋敷の他の部分から孤立している。
「ずいぶん変わってますね」
「こうするしかないんだ。取り乱すこともある」
取り乱す?
シオンは不安な思いで暗いガラスをじっと見つめた。
突然淡い色がガラスの向こうに見える。満月のようなものが浮かんだが、すぐに闇に呑まれて消えた。続いて、床の近くで何かが緑色に光る。なんだあれは?まさか?ある可能性が頭に浮かんだが、あまりにも馬鹿げている。
彼は確かめるために、ランプを高く掲げた。暗いガラスの向こうへ光が中々届かないが、ランプを表面に押したところどうにか光が貫通する。照らされた光景に、シオンは戦慄した。
ガラスで隔てられた空間に、机と食卓、椅子と寝椅子が一脚ずつ置かれ、いくつかの本棚がある。そして寝椅子の上には、一人の女が身じろぎもせずに座っていた。薄緑色のドレスを纏い、髪は褐色で緑の瞳で静かにこちらを見ている。
シオンも相手を見つめ返し、互いの目が合った。女の肩が呼吸に合わせてごくわずかに上下している。何かを告げようとしているかのように、唇が開く。
コメント
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うわ、第5話めっちゃ雰囲気良かった!ホーズ博士の症状の描写が細かくて、病気か心気症かってシオンが考えてるところがすごくリアルで好き。で、あのガラスの間仕切りの先にいた女…まさか幽霊とかじゃないよな?取り乱すとか言ってたし、何か秘密がありそうで続きが気になりすぎる。この不穏な空気感、めちゃくちゃ刺さったわ🔥
#TL
瀬名 紫陽花
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