「筑波嶺の みねより御つる みなの川 恋ぞつもりて ふちとなりぬる……か」
夢現な状態のまま、ベッドの天蓋を見詰めている私の耳に、ロイさんの呟く声が聴こえてきた。悲しいかな、日本語である事は解るのに言葉の意味が全く解らない。きっと和歌か何かなのだろうなと、なんとなく感じる程度で、まだ気怠さの残る体と頭ではそれ以上考える事は出来なかった。
「……今の、言葉は?」
軽く顔を声の方へ向けると、枕に頭を埋め、私のすぐ隣で横になっているロイさんの蒼い瞳と目が合った。
「百人一首の一つだよ。意味は……そうだな、『塵も積もって恋となる』——そんな感じの意味だよ」
「……何それ、意味わかんない」
「分からなくてもいいよ。ただ何となく、そんな言葉をふと思い出したから口にしてみただけさ。深く考える必要は無い」
「そうなの?」
(いや、考えた方がいいんじゃないか?)
——と、一瞬頭には浮かんだが、気怠さに負けて彼の言う通りでもいいかなんて気分になった。
「あぁ、そうさ。何も考えなくていい。ただ芙弓は、僕の傍に居ればいいだけだから」
ロイさんは優しい声でそう言うと、陽だまりの様な笑顔を私に向けながら、そっと髪を撫でてくれた。コロコロと変わる表情に『アンタはいったいいくつの顔を持ってんの?』という疑問が頭に浮かぶ。
何年もずっと、ロイさんの事はテレビや雑誌の中でしか見る事などなかった。初めて彼を見た時の事はもうおぼろげで記憶が薄く、顔なんかほとんど思い出せないのに、金色に輝く髪の色だけはしっかりと覚えている。
雪乃の家で彼をチラッと見て以来私は、幼いながらに『金色の髪をした人』に興味を持つ様になり、面影を追うように金色の髪の人を捜し求めたがロイさん程の綺麗な色に出会う事はなかった。
(いや……ただ単に彼の髪の色が好きだっただけ、かもしれないな)
家に引き篭るよりもずっとずっと前の事。なんとなく入った喫茶店で偶然読んだ経済雑誌。その特集ページの写真でロイさんの姿を見た瞬間、今まで捜し求めていた者にやっと出会う事が出来たと思った。その衝撃はとても激しく、人間嫌いな私が初めて『この人に直接会いたい』とすら思った。—— だが、掲載されていた名前を見た途端にその気持ちは一瞬で消し飛んでしまった。
雪乃の兄だと、苗字を見た瞬間にすぐ分かったからだ。
別に、一目惚れとかじゃなかった。『この色だ!』と思った衝撃は大きかったけれど、別段本人に好意を持った訳ではなかったんだ。彼は妹が好きだという噂はすぐに私の耳に入ってきたし、今まで雪乃から着ていたメールでも、彼女が兄に好かれている事はイヤって程分かっていたし。
そんな人を本気で好きになれる人なんて、いないと思う。
絶対に玉砕すると分かっていて、その相手を好きになど……私はならなかった。なってなどいない。
——そう、思いたい。
「……難しい顔をして、どうしたんだい?」
そう訊かれても、『ロイさんの優しい笑みのせいで昔の事を少し思い出していた』とは言えず、私は口元をへの字にしながら「別に」と呟いた。彼の優しい笑顔が可愛くて、素敵で、でも同時にそう思ってしまっている自分が悔しくて素直な態度がとれない。でも、私の頬は確実に少し紅く染まってしまっているからか、『くすっ』と彼が笑みをこぼす。
「……可愛い顔してる。素直じゃないね、君のお口は」
ロイさんが私の頬をぷにゅっと押してきた。
「柔らかいなぁ、意外にも結構気持ちいい肌をしているよね!多少手入れしただけでこれだから基礎は悪くない物を持っているんだろうな。きちんと手入れをしたら、どこまで綺麗になるのか興味があるよ」
「またあの冷たいやつを顔にのせる気ですか?もしかして」
「今度はまた別の方法で!あ、そういえば知ってるかい?」と言ったロイさんの顔が急に、少し淫靡な色を帯び始める。その表情に引きづられたのか、私の体が少し強張り、唾をごくっと飲んだ。
「——エッチな事をするとね、女の子は綺麗になるらしいよ?」
「は!?う、嘘!またそう言って、私の事を騙す気なんでしょ!」
お互いが大人になってから彼の顔を見たのはテレビや写真ばかりで、それらはどれも真面目な表情か、とても優しげな顔だけだった。なのにこれ程に色々な表情を持っている人だなんて考えた事もなかった。そんな一面ばかりを見ていたせいか、雪乃から兄の愚痴メールが着ても、正直それらを行なっている彼の姿が全く想像出来ないでいた。そして、こんな卑猥な冗談を言う人かもなんて再会する前までは微塵も考えた事すら無かったのに、コレが彼の素だなんてホント信じられない……。
「本当さ!だから、ね?」
「だ、『だから』って……はい!?何が『ね?』なの?何の『ね?』な訳?」
「もう一回、しようか!芙弓が綺麗になれるように手伝ってあげるよ」
「そんな事の為に、あ、あんな、あんな事——」
自分の中で、少し前の行為が鮮明に蘇る。途端に体の奥で淫猥な熱が再浮上し、『早くあの快楽を』と求めるように秘部からお尻の方へねっとりとした蜜が流れ落ちた。だけど私はその事が許せず、認めたくもなくて、即座にロイさんから顔を逸らした。
「そんなに物欲しそうな顔しなくても、きちんとあげるから安心していていいよ?」
可愛い笑顔を浮かべ、楽しそうにそう言うと、一糸まとわぬ姿のままであった私の肌をロイさんがすーっと指先で撫でてきた。
「肌が熱くなってるよ。つい数時間前まで処女だったとは思えぬほどの早い順応ぶりだね」と、今度は狐みたいに目を細くさせて意地悪く微笑む。こうも次々に変わる表情を見ていると、昼と夜のようにガラリと一転していく、様々な仮面を目の前で披露されているみたいな不思議な気分になる。『それらを見られるのは、もしかしたら自分だけなのでは?』という優越感も少し抱いてしまった。
「でも、こ、こんなの可笑しいですよ。……恋人でもないのに、こんなっ」
自分達の関係が明確には分からず、体のこわばりが解けない。
「好きでもないくせに。私の事なんて、好きじゃないんでしょ?どうせ。ただ、嫌いになれないってだけで……」
真意が知りたくて自分で言った言葉が、心にチクッと刺さる。
「うん。別に好きじゃないよ」
きっぱりと言い切るロイさんの声が、追い討ちをかけた。
「じゃ、じゃあなんであんな!激しく抱いたりなんかっ」
湧き上がる負の感情が私の声を大きくさせる。
「『婚約者』を抱くのは別に、人道外の行為じゃないよね?だからだよ」
「『婚約者』ぁ?……誰と、誰が?」
寝耳に水な発言で怒りすら一気に冷めた。何の話だ一体。
「もちろん、芙弓と僕だよ!この流れで急に他の人達の話しなんかすると思うかい?それとも、あ、人形である『彼』は別として、他に芙弓に興味を持っている奴が他にいるかい?もっとも、もしそういう奴がいたとしても、そっちに君を譲る気なんか更々無いけどね」
ロイさんはそう言うと、窓の側に置かれている椅子に眠る様な姿勢で座っている人形を軽く指差した。
「責任は取るよ。僕は芙弓以外の『誰か』との結婚なんか、気持ち悪くて考えたくもないしね。それに再会したあの日にちゃんと言ったじゃないか、『結婚しよう』って」
……確かに言ってたけど、あれってなんかすごくテキトウで、話の流れで何かそうなっちゃったな程度の言葉だったのに。
まさかあの言葉が本気だったとは一ミリも思っていなかったので、今私は、驚きがそのまま表情となって出ている気がする。
「アンタは、好きでもない相手とでも結婚出来るって事?」
「あぁ出来るよ。芙弓とならね」
口元に微笑を浮かべ、私の唇をロイさんが指先でスッと撫でた。
「……好きじゃ、ないくせに?」
心の傷を抉るだけなのに、私にとっては大事な事なので、何度も、何度も確認してしまう。
「うん、好きじゃないよ。でも、嫌いでもないから。それに、芙弓だってもう僕の事なんかファン心理的にですらも好きじゃないだろう?無理矢理、抵抗する君を何度も犯した男なんかさ。なら、お互い様って事でいいんじゃないのかい?」
「そ、そりゃ——」
言葉が詰まった。何と答えていいのか思い付かない。好きかどうかは別として、ずっと気になって姿を追っていた相手に触れられて、嬉しくないはずがないからだ。例えそれが、かなり強引だったとしても。
悔しくて、気持ち悪くて、痛くて、切なくて——それでも、ちょっとだけ嬉しい気持ちが根底にあるせいか、本気で逃げる事が出来ない。
嫌う……事も出来ない。
でも、自分を好きでもない彼にそれを伝えるのはなんだか負けた様な気がして、告げる気は起きなかった。
「……この手、とっても綺麗だよね。子供みたいに小さいけど。龍が空を駆けているみたいな彫り物が蒼く光る瞬間が、特に綺麗だ」
ロイさんは私の手を取ると指先をちょろっと舐め始めた。目の前で、私に舌先を魅せつける様に。その行為のせいで否応なしに脳裏に走る彼の思念。
「ぃやっ!」
淫猥なイメージと思念が流れ込んでくるせいで生まれる軽い痛みから逃げたくて、私はすぐさま彼から手を離そうとした。だがロイさんの手はそれを許してはくれず、意地の悪い笑みを浮かべている。 蒼い瞳でじっと私の目を真っ直ぐに見詰め、『綺麗だ』と褒めた刺青の光る手にすら目もくれず、視線を合わせたままゆっくりこちらに近づくと、私の唇に吸い付いてきた。
現実と、脳裏に残るイメージが重なり、体がじわりと火照っていくのを止める事が出来ない。
「んくっ……ぁんっ」
自らの口から漏れる吐息の音が耳に入り、欲望に流されそうな気持ちを後押ししてしまう。それでも私はこんなにもあっさり自分の心が肉欲に負けてしまう事が許せず、なんとかロイさんの手を振り解き、彼の意思に抵抗してみた。そして、その手でぐぐっとロイさんの胸を押し、彼と距離をとる。すると彼は、少しきょとんとした顔で私の顔を見詰めてきた。
(大人なのに、か、可愛い……とか、マジでやめて)
また別の表情を見せられ、完全にその顔に魅せられてしまった私がロイさんから視線を逸らせないでいると、今度は何度も写真やテレビで見てきた優しい笑顔と声で「安心して」と彼は呟いた。
「あ、安心してって……今のこの状態で、何をどう安心しろって……」
「気持ちに蓋はしないってきちんと決めたはずなのに、苛めたくなっちゃうんだよね。芙弓の顔を見ていると」
「い、苛めたくなるって!?」
「んー……僕は芙弓のこの手なら好きみたいだよ。一緒に居て面白いから、ずっと傍に置いておきたいって思う程度くらいには、他の部分もね」
(待て待て待て!数十秒前の言葉を急に覆すな!しかも、かなり微妙な程度の愛情で!)
イマイチどの位好きであってくれるのか分からない言葉なのに、胸の奥に熱いものを感じてしまう自分に腹が立つ。遥か昔に心の最奥に仕舞い込んでいた『初恋』という名を冠する感情が、彼の『好きだよ』なんて短い一言だけで頭をもたげて外へ出ようとし始めてきた。
「僕が芙弓を好きになれれば、芙弓も僕を好きになれるよね?まぁ答えなんかちゃんと訊かなくてもわかるけど、それでもあえてその言葉が聞きたいなって思う僕は、別に我侭じゃないよね?」
切なそうな顔をしながら私の方へにじり寄り、私がやっと手放したばかりの手を、ロイさんがギュッと両手で握ってきた。一緒に流れ込んでくる彼の思念も、初めて卑猥なものではなく、真冬の雪原の様な寂しげな情景ばかりだった。
彼の悲しげな声、表情、思念にと、どんどん私の心が逃げ場を失っているのが分かるが、無駄に強情な気質がなかなか素直な言葉を口から出させてくれない。
「あ、え……」と、情けない声を出しながら少し逃げても、ロイさんはすぐに距離を詰めてくる。
逃げて、距離を詰められ、また逃げて。
それを繰り返すうちに、とうとう私の体は広いベッドの隅にまで追い込まれ、次に体を後ろにずらすと床に落ちるという所まできてしまった。
「床に落ちちゃうよ?さぁ、おいで——」
ロイさんは兄の様な優しい声でそう言うと、私の背にそっと手を回してギュッと逞しい胸の中に抱いてくれた。耳に直接彼の心音が聞こえ、規則的な鼓動が心地いい。彼の肌の温かさと心音を私が暫く黙って聞いていると、まるで母の胎内にでも戻った様な錯覚を感じ始めた。
瞼を閉じ、自分の方からロイさんに少し近づく。すると彼は、私の耳の側辺りを優しく撫でて「好きだよ」と囁いた。
完全に心をほぐされたタイミングで言われたその言葉は、頑固である事には定評のある私の心の鍵をいとも簡単に解除してしまった。間違いなく、その言葉の前後には『雪乃の次くらいに』とか『多分』やら『きっと』だなんて端折った言葉があるはずなのに、だ。
「……わ、私も……」
彼の胸の中で小さく呟くと、恥かしさを誤魔化す様に強く拳を握る。
「聞えないよ?なぁに?」
「私も、好き……かも?」
どうせ私を宥めすかしているか、騙されているだけかもしれない。
だって、さっき『手』がどうこうとか言っていたし。
そんな思いが少しよぎり、私は即座に『かも』という言葉を付け足し、逃げ場を作ってしまった。
「もう、素直じゃないなぁ。でもいいよ、許してあげる」
優しい声が耳をくすぐり、髪にそっとキスをしてくれた流れで目を閉じる。まるで羽毛にでも包まれたみたいな、ふんわりとした安心感が私を満たした。
「……ロイさん」
つい、安心し切った声で私は彼の名前を呼ぶと、ロイさんは応える様に強く体を抱き締めてくれた。
「でも、今から覚悟はしていてね?もし僕が君をちゃんと愛せる様になったら、かなーり重いから。だけど、逃げちゃ駄目だよ?まぁ、僕から逃げるなんて行為は、月にでも行けないと無理なんだけどさ」
低く呟く声が耳の奥で暗く響く。
瞼で覆われた瞳に映る暗闇がまるで、これからの私の未来を見せられている様な気がして少し怖くなったが、彼から逃げる道はもう無いのだと私は確信した。
【完結】
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