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第2話 畑の温度
朝の畑は、まだ誰のものでもない顔をしていた。
夜露の残る葉。
畝の肩へやわらかく戻った土。
遠くで鳴く鳥の声。
山の上から降りてくる、少し冷えた風。
おばあちゃんは、いつものように戸を開けた。
朝の光が土間へ入り、
縁の木をなぞり、
まだ眠たそうな鍋のふたへ細く乗る。
「起きてるかい」
その声に、
ミュオは板の間で首を上げた。
羽毛にまだ夜の静けさが残っている。
長い首を一度ふると、
首もとの紫が朝の光でわずかにゆれた。
昨日、空へ増えた星のことを、
ミュオは夜の終わりまで何度も見ていた。
夢だったようにも思えた。
けれど朝になっても、
胸の奥に、音のあとみたいなものが残っている。
おばあちゃんは土間へ長靴を置いた。
「畑、見に行こうか」
ミュオはその言葉に、すぐ立ち上がった。
家の外へ出ると、
畑の土が朝の匂いをしていた。
昨日の夕方より、少しだけ冷たい。
けれど死んだ冷たさではない。
起きる前のからだに似た、
中へ熱をしまっている冷たさだった。
ミュオは畝のそばでしゃがんだ。
長い指先が土へ触れる。
その瞬間、
胸の奥に、いくつもの小さな温度が流れこんできた。
昨日この土をならした手。
草を抜いた指。
桶からこぼれた水。
鍬の先が返した重み。
膝をついて、黙って眺めた時間。
土は、ただの土ではなかった。
重ねられた手の跡が、
見えないまま、ちゃんと残っている。
ミュオは目を細めた。
「あったかい」
おばあちゃんが振り向く。
「朝はまだ冷えるよ」
ミュオは首をふった。
そうじゃない、と言いたいのに、
うまくつながらない。
土の中にある温度は、
陽ざしのものとも、
夜の名残とも少しちがう。
触れた人の気持ちが、
そのまま沈んでいるみたいだった。
ミュオはもう一度、土をなでた。
そこはやわらかい。
となりの畝は少し固い。
水が多かったところは丸く、
昨日よく踏まれたところは鈍い。
温度に形がある。
ミュオは、それがうれしかった。
分からないまま感じるしかなかったものが、
土では、少しだけ輪郭を持つ。
おばあちゃんは籠を置いて、
小さな紙袋を出した。
中には種が入っていた。
つやのある粒。
乾いて軽いのに、
指先へ乗せると、ひどく静かだ。
「今日はこれをまくよ」
ミュオは種を見つめた。
小さい。
けれど、中にまだ見ぬ葉と茎と、
水を吸う朝と、
風に揺れる昼が折りたたまれているように見える。
おばあちゃんは畝へ指で浅い筋を引いた。
「ここへ落として、土をかける」
やってごらん、と言われる前に、
ミュオは膝をついた。
長い脚をたたむ姿は少しぎこちない。
灰色の羽毛が朝露をかすめ、
首もとの紫が畝の影へ落ちる。
おばあちゃんは笑う。
「そのうち上手になるよ」
ミュオは種を一粒つまんだ。
そっと、筋へ落とす。
また一粒。
また一粒。
土の上に置くたび、
小さな音が胸の中で鳴る。
種は黙っているのに、
置かれた場所の温度を受け取っているのが分かった。
ミュオは土をかけた。
やさしく。
眠っているものへ布をかけるみたいに。
その手つきに、
おばあちゃんが少し目を細める。
「乱暴じゃないねえ」
ミュオは答えず、
土の線を指でなぞった。
そこへ、つい音がこぼれた。
「つちの した
ちいさな いき」
自分でも、なぜそんなふうに並んだのか分からない。
ただ、胸の奥のものが、
土へ触れた指先から、そのまま音へ変わっただけだった。
そのすぐあと、
ミュオは畝を見た。
変わってはいない。
芽も出ていない。
けれど、土の中の静けさが、
さっきより少しだけほどけた気がした。
おばあちゃんが言う。
「今の、歌みたいだねえ」
「うた」
「ことばを並べて、気持ちを乗せるんだよ」
ミュオは土を見つめたまま、
その言い方を胸へしまった。
ことばを並べる。
昨日の夜、
星が増えた時も、
たしかにことばが先だった。
おばあちゃんは畝の端へ腰を下ろした。
「昔からね、短く言う遊びがあるんだよ」
ミュオが顔を上げる。
おばあちゃんは指を三度折った。
「五つ、七つ、五つ」
「ご」
「しち」
「ご」
「そう。長くなくていい。短いほうが、すとんと落ちることもある」
ミュオは、その数を口の中で転がした。
五。
七。
五。
小さい種みたいだった。
おばあちゃんは笑いながら、
畝の先を見た。
「昔、じいさんがよく言ってたんだよ。畑仕事の途中にね。たいしたもんじゃないけど、聞くとちょっと景色が変わる」
じいさん、という音のあと、
おばあちゃんの声は少しだけゆっくりになった。
けれど暗くはならない。
土の下へしまったぬくもりみたいに、
奥へ静かに残るだけだ。
ミュオはその声の温度も、
ちゃんと感じた。
午前のあいだ、
ふたりは種をまき続けた。
籠の中の粒が減っていく。
畝に引かれた筋が埋まっていく。
指先へ土がなじみ、
爪の間へやわらかい粒が入る。
そのたびに、
ミュオは小さくことばをこぼした。
「みずを まつ」
「ひかりを まつ」
「ねむりの たね」
声にしたあと、
土の中の静けさが少しずつ変わる。
目に見えるほどではない。
けれど、昨日まで閉じていたものが、
中で向きを変えはじめる感じがある。
昼前、
おばあちゃんが桶で水をまいた。
水の筋が陽ざしを受け、
細いきらめきになって畝へ落ちる。
ミュオはその様子を見て、
急に立ち上がった。
胸の奥で、
またあの粒が鳴っていた。
五。
七。
五。
おばあちゃんが振り向く。
ミュオは空を見た。
朝より高くなった光。
畑へ降るあたたかさ。
まだ地面の中で目を閉じている種。
そして、言った。
「つちの した
みずの おとする
はるの まえ」
声は大きくなかった。
むしろ、土へ落とすみたいな声だった。
けれど、言い終わった瞬間、
畑の上の空気がわずかにゆれた。
風が止まる。
おばあちゃんが目をみはる。
ミュオも、自分のくちばしを少し開けたまま止まった。
空の高いところで、
陽の色が変わっていく。
まぶしさはそのままなのに、
熱の縁だけが、すっと別の色へ寄る。
水色でもない。
やわらかな緑。
草を透かした時のような、
やわらかな緑。
太陽が、緑に輝いていた。
畑の葉先が、その色を受ける。
桶の水が、薄い緑を散らす。
おばあちゃんのモカ色の上着の肩へも、
やわらかな緑が落ちる。
里の向こうから、
誰かの驚いた声がした。
けれど、この畑だけは静かだった。
ミュオは空を見上げたまま、
胸の奥で何かがひらくのを感じていた。
昨日は夜だった。
星が増えた。
今日は昼だった。
太陽が色を変えた。
ことばが先で、
景色があとからついてくる。
おばあちゃんは空とミュオを見比べて、
やがて、ふっと笑った。
「すごいねえ」
その言葉は、
持ち上げすぎず、
怖がりすぎず、
ただ、起きたことを大事に受け取る声だった。
ミュオの羽が、ふわりと軽くなる。
緑の光が、
灰色の羽毛をやさしくなぞる。
首もとの紫が、その中で少し深く見えた。
ミュオは、おそるおそる言う。
「ご しち ご」
「うん」
「ことば ならべると
そら きく」
おばあちゃんは小さく笑って、
畝の土を指先でつまんだ。
「空が聞くのか、土が聞くのか、その両方かねえ」
ミュオは、しゃがみこんだ。
緑の光を浴びた畝へ手を当てる。
土の中で、
種がほんの少しだけ向きを変えていた。
まだ芽ではない。
けれど、たしかに昨日とはちがう。
言葉は、届いていた。
ミュオは目を閉じる。
指先に触れる土。
そこへ残るおばあちゃんの手の温度。
水の気配。
これから伸びるものの、かすかな押し返し。
全部が混ざって、
胸の奥でやわらかい音になる。
おばあちゃんはその横で、
種袋をたたみながら言った。
「じゃあ、明日も読んでごらん」
明日。
昨日の夜にももらった、その音。
ミュオは顔を上げた。
おばあちゃんの顔には、
深いしわがいくつもある。
でも、そのしわはどれも、
笑った回数のぶんだけやわらかい。
土のついた指。
小柄な背。
陽に焼けた頬。
里で生きてきた人の見た目が、
そのまま今日の言葉になっているみたいだった。
ミュオは、うなずいた。
空ではまだ、太陽が緑に輝いている。
短いあいだだけの奇跡かもしれない。
けれど畑は、その光をたしかに受け取っていた。
土の中には、
言葉のぬくもりが残る。
ミュオはそのことを、
はじめて自分のからだで知った。
そして、畝の前で、
もう一度だけ、小さく言った。
「めは まだね
でも もう きいてる」
おばあちゃんは笑った。
「うん。聞いてるねえ」
その返事が、
今日いちばんやわらかく、
土へ沈んでいった。
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