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第3話 甘さの理由
朝の台所には、
切ったばかりの野菜の匂いが広がっていた。
包丁の入った音。
まな板へ落ちる薄い輪切り。
鍋のふちでふくらむ湯気。
おばあちゃんは、採れたばかりの根菜を二つ並べていた。
どちらも形は似ている。
どちらも土をつけたまま、さっきまで畑にいた顔をしている。
けれど、ミュオは見ただけで立ち止まった。
ちがう。
見た目ではなく、
もっと奥のところが。
ミュオは細い指先で、片方へ触れた。
ひんやりしている。
けれど、その奥にあるものが丸い。
土のやわらかさと、水のゆっくりした重みと、
待たれた時間のぬくもりが、ほどよく混ざっている。
もう片方へ触れる。
同じように冷たい。
でも、その奥が少しかたい。
育った。
大きくなった。
けれど、どこか急いだ足あとが残っている。
ミュオは目を細めた。
おばあちゃんが包丁を止める。
「どうしたんだい」
ミュオは根菜を持ち上げ、
左右を見くらべた。
「こっち
やさしい」
そして、もう片方を見た。
「こっち
つよい
でも
すこし さみしい」
おばあちゃんの手が、わずかに止まる。
台所の外では、
朝の風が干し網を揺らしている。
その音だけが、少し長く聞こえた。
おばあちゃんは、ふっと息をつき、
根菜を受け取った。
「食べてみるかい」
薄く切られたものを、
それぞれ小皿へ置く。
ミュオは先に、やさしい方を口へ入れた。
しゃり、と鳴る。
みずみずしい。
甘い。
けれど甘いだけじゃない。
土に守られていた時間が、ほどけながら舌へ広がる。
日ざしを受けた昼、
水をもらった夕方、
手で撫でられた朝。
その全部が、かすかに甘さへ変わっている。
次に、もう片方をかじる。
こちらも悪くない。
むしろ味は濃い。
力がある。
けれど、甘さの奥に、
わずかな引っかかりがあった。
まるで、ひとりでがんばりすぎた足どりみたいな、
少し急いた硬さ。
ミュオはくちばしを止めた。
おばあちゃんは、その顔を見て笑わなかった。
「分かるんだねえ」
ミュオはうなずく。
「ちがう
おなじ つち
でも
ちがう」
おばあちゃんは切った野菜を鍋へ入れた。
湯気が立つ。
鍋の中で野菜が転がり、
やがてやわらかな匂いが立ちのぼる。
「畝が違ったんだよ」
その言い方は軽かったが、
軽く投げたわけではなかった。
「向こう側の畝はね、昔、じいさんがよく見てたところでね」
じいさん。
その音が出るたび、
おばあちゃんの声は少しだけ静かになる。
沈むのではなく、
奥へ入る。
ミュオは鍋を見つめたまま、耳を向けた。
おばあちゃんは、椀を並べながら続けた。
「土ってねえ、忘れないんだよ」
ミュオの羽先がわずかに動く。
「草を抜いた手も、
水をやった朝も、
しゃがみこんで何も言わなかった日も」
鍋のふたがことりと鳴る。
台所の小さな音が、その言葉の合間を埋めていく。
「じいさんがいた時はね、あっちの畝のほうが、もう少し丸い味をしてた」
おばあちゃんは包丁を置いた。
手をふいて、
戸口の外の畑へ目をやる。
「いなくなってから、少し変わった」
その顔は泣いていない。
でも、目じりのしわの奥に、
よく晴れた日の影みたいなものが残っている。
ミュオは、その気配を感じた。
痛みは、
叫ぶばかりじゃない。
毎日同じ道を歩き、
同じ鍋へ火をかけ、
同じ畑へ出るうちに、
静かに土へしみていく痛みもある。
それが、甘さを変える。
ミュオは椀のふちへ指をかけた。
「じいさん
どこ」
おばあちゃんは、すぐには答えなかった。
庭のほうで、風が少し強くなった。
干してある葉がかさりと鳴る。
「もう、いないよ」
そのひと言は短い。
でも、短いからこそ、
その奥の広さが見えた。
ミュオは黙った。
いない。
その言葉の形は知っている。
落ちてきた夜より前にも、
どこかで何度もその気配に触れてきた。
でも、ここで聞くと、
それはただ消えたというより、
残ったものの中に混ざった何かのようだった。
おばあちゃんは味見をして、
少しだけ塩を足した。
「病気でね」
手元はぶれない。
声も荒れない。
それでも、その場の空気は少しだけ重くなった。
「夏が終わるころだった。朝はふつうで、昼には横になって、秋の前にいなくなった」
ミュオの胸の奥で、
小さな石がころがるみたいな音がした。
夏が終わるころ。
昼。
秋の前。
そういうふうに並べると、
いなくなったことが、
風景の切れ目として残る。
おばあちゃんは鍋の火を弱めた。
「それでも、畑は待ってくれないからねえ」
笑った。
けれど、いつもの笑いより、ほんの少しだけ薄かった。
「草は生えるし、土は乾くし、種はまく時を逃す」
ミュオは、その言葉を胸へ入れた。
待ってくれないものの中で、
手を止めずにいること。
それもまた、痛みのかたちなのだと分かった。
昼前、
ふたりは収穫した野菜を籠へ入れ、
里の小さな八百屋へ向かった。
道の途中で、
あのそばかすの子どもが走ってくる。
頬の丸い顔に、
片側だけ跳ねた髪。
膝の擦りむき跡まで、今日も元気そうだ。
「ミュオー」
名前を呼ばれ、
ミュオは首を上げる。
名前が飛んでくる。
そのたび、胸の奥で小さく灯がつく。
子どもは籠をのぞきこみ、
丸い目をさらに丸くした。
「これ、うまそう」
おばあちゃんが笑う。
「見るだけで分かるかい」
「分かるよ」
子どもは胸を張り、
でもすぐミュオの方へ顔を寄せた。
「ミュオ、それ、またしゃべると変わるの」
ミュオは首をかしげる。
「かわる」
「この前、空、へんだった」
へん。
その言い方が悪意なく転がって、
ミュオは少しだけ羽をゆらした。
おばあちゃんが口をはさむ。
「へんじゃなくて、きれいだったろ」
子どもは笑う。
「うん。きれいだった」
それで十分みたいに、また走って去っていく。
八百屋の店先には、
木箱がいくつも並んでいた。
八百屋の主人は、胸板が厚く、
腕の太い男だった。
茶色の前かけを腰へ巻き、
額の汗を手の甲でぬぐう。
「お、持ってきたか」
声は低いが、
おばあちゃんには昔からの調子で向けられているらしい。
主人は野菜をひとつ取り、
指で重みをたしかめた。
「今年もいいな」
そして、もうひとつ取る。
同じように見て、
少しだけ首をかしげる。
「こっちは、ちょっと味が締まってるか」
ミュオの目が細くなる。
主人にも分かるのか。
全部ではないだろう。
でも、食べものを長く見てきた目には、
土の違いがどこかで見えている。
主人はそこでようやくミュオへ目を向けた。
「こいつが、あの」
言いかけて、
言葉を止める。
ミュオの長い首。
灰色の羽毛。
水色寄りの目。
首もとの淡い紫。
じろじろ見たわけではない。
でも、初めて見るものを見ている目だった。
ミュオの羽先が少しだけ重くなりかける。
その時、
主人が野菜を持ち上げたまま言った。
「手伝ってんなら、働き者だな」
それだけだった。
測るでもなく、
追い払うでもなく、
働く側へ寄せる言い方。
ミュオの羽の重さが、少し戻る。
おばあちゃんが、
その変化に気づいたみたいに目を細めた。
帰り道、
ミュオは何度も籠の中をのぞいた。
甘い方。
さみしい方。
同じ畑でも、味が違う。
それは土だけのせいじゃない。
そこへ触れた人の時間がちがうからだ。
家へ戻ると、
おばあちゃんは縁側で、少しだけ休んだ。
茶色のもんぺの膝をさすり、
遠くの畑を見ている。
その横顔には、
若いころの名残がすこしだけ見えた。
小柄でも、まっすぐな背。
よく笑う口もと。
そして、ひとり分の時間を長く抱えた目。
ミュオは、そっととなりへ座った。
しばらく何も言わなかった。
言わない時間にも、
温度はある。
風が吹く。
畑の葉が返る。
遠くで誰かが鍬を鳴らす。
その中で、
おばあちゃんがぽつりとこぼす。
「一緒に食べる人がいるとね、甘くなる気がするんだよ」
ミュオは顔を向けた。
おばあちゃんは笑っている。
でも、その笑いは昼の店先のものよりずっと静かだ。
「本当に甘くなるのか、こっちがそう感じるだけなのか、分からないけどねえ」
ミュオは、畑を見る。
分かる気がした。
感じるだけじゃなく、
残るのだ。
言葉も。
痛みも。
待った日も。
ひとりで食べた夜も。
一緒に食べた朝も。
全部、
土の奥へ沈んでいって、
甘さの理由になる。
胸の奥で、
五つ、七つ、五つが動きはじめる。
今までは、こぼれてきた。
けれど今はちがう。
並べたいと思った。
おばあちゃんのために。
畑のために。
じいさんのいなくなったあとにも残った、
この甘さのために。
ミュオは立ち上がった。
「おばあちゃん」
呼ばれて、
おばあちゃんが顔を上げる。
「なにさ」
ミュオは、畑を見た。
風にゆれる葉。
土のふくらみ。
そこで育った根菜の、丸い甘さ。
そして、言う。
「いない ひも
つちが おぼえてる
あまさまで」
声は静かだった。
けれど、
言い終わったあと、
畑の空気がふっとやわらいだ。
風が、ひと呼吸だけ止まる。
おばあちゃんの目がわずかに見ひらかれる。
ミュオは、自分でも分かった。
今のは、こぼれたんじゃない。
選んで、置いた。
ことばを、
ちゃんと、そこへ運んだ。
縁側のわきに置いてあった根菜を、
おばあちゃんがひとつ取る。
包丁を入れ、
切って、
ミュオへ差し出す。
「食べてごらん」
さっきと同じ畑のもの。
でも、口へ入れた瞬間、
ミュオは目をみはった。
甘い。
前よりも、すっと丸い。
舌の上で、角がほどける。
土の味がやさしくひらいて、
その奥から、じわりとぬくもりが出てくる。
おばあちゃんもひと口かじる。
しばらく噛んで、
それから笑った。
「……ほんとだ」
その声は、
驚きよりも、
なつかしさに近かった。
ミュオは根菜を見つめた。
言葉で、味が変わった。
強くではない。
大げさでもない。
でも、たしかに変わった。
じいさんがいなくなったあとの土へ、
おばあちゃんが残してきたもの。
その上へ、
いま、ミュオの言葉がひとつ重なった。
おばあちゃんはもう一度、
さっきの句を小さく口の中でなぞった。
「いない ひも
つちが おぼえてる
あまさまで」
言いながら、
目じりのしわがゆっくり深くなる。
泣いてはいない。
でも、悲しみだけの顔でもない。
長く持っていたものへ、
やっと誰かが手を添えた時の顔だった。
夕方、
台所で煮物を作ると、
家の中にいつもより丸い匂いが広がった。
おばあちゃんは鍋を混ぜながら、
何度か味見をして、そのたびに首をかしげる。
「今日のは、やさしいねえ」
ミュオは囲炉裏のそばで、
膝をたたんで座っていた。
灰色の羽毛へ夕方の色が落ち、
首もとの紫が深く見える。
胸の奥には、
まださっきの五七五のぬくもりが残っている。
意図して言う。
だれかのために置く。
そうすると、
景色だけじゃなく、
味まで変わる。
ミュオは、少しだけこわくて、
少しだけうれしかった。
夜、
縁側へ出ると、
空には前に増えた星がまだいた。
ひとつだけ。
けれど、ちゃんとそこにいる。
ミュオはそれを見上げ、
小さく息を吐く。
土が忘れないなら、
空も忘れないのかもしれない。
そう思うと、
胸の中へ、また言葉の粒が集まりはじめる。
けれど今夜は、すぐには言わなかった。
となりでおばあちゃんが、
湯のみを両手で包んでいる。
その手の温度。
背すじのまっすぐさ。
目じりのしわ。
見た目に刻まれた時間の全部が、
今日の甘さへつながっていた。
ミュオは、その横顔を見て、
ただ、静かに座った。
静かな時間もまた、
いつか土へ沈んで、
甘さの理由になる気がした。