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コメント
1件
うん、めちゃくちゃ良かった……。 縫季が調整員としての感覚を失った静けさと、代わりに「人間」として世界に直接触れる感触——その描写が繊細で、胸に来るものがあったよ。管理官の呼びかけがすり抜けていく場面、あの白い揺らぎが何度も伸びては消える無音のやりとり、切なかった。そして最後に獣骨を土に埋めて「あなたの笑みを紡ぎました」と刻むところ、正史に残らない記憶を残すって、すごく縫季らしいと思う。設定の積み重ねがちゃんと回収されていく感じ、好きだな。
第78話 獣骨の記録
温もりだけが、残っている。
(……還った)
縫季の目が、熱くなった。
泣きそうになって、堪えた。堪えて、口元がほどけた。
泣き顔みたいな表情だった。
朝の光が、花壇に降り注いでいた。
白い花が揺れている。
帝辛が、清朗に言った。
「行くか」
「はい」
二人が、宮の奥へ歩いていく。
帝辛が歩き出す前に、一度だけ花壇を見た。
自然に、口元が緩んだ。
誰かに見せるためではない。ただ――咲いているから、緩んでいた。
縫季は、その横顔を見た。
胸の奥で、温もりが静かに脈打っていた。
帝辛の足音が、遠ざかっていく。
朝の庭に、縫季だけが残った。
白い花が、風に揺れている。
縫季はしばらく、その花を見ていた。
◆
光が、消えた。
縫季は花壇の前に立ったまま、胸に手を当てた。
温もりだけが、残っている。光はもうない。
(……行ったか)
息を吐いた。
それから――香を読もうとした。
習慣だった。どの世界線に降り立っても、最初にすることだった。
香に手を伸ばす。
何もない。
海があったはずの場所に、ただの空気がある。
もう一度、試みる。
何もない。
世界線の流れが――見えない。記録の層が――読めない。香の濃淡が――分からない。
縫季は指先を見た。
透けていない。輪郭はある。体は、ある。
だが。
(……消えた)
調整員としての感覚が、根こそぎ――なくなっていた。
魂の端を燃やした代償が、ここで、静かに来た。
◆
そのとき。
白い揺らぎが、縫季の視界の端で揺れた。
管理官からの照合香波だ。
遠い。いつもより、ずっと遠い。
白い光が、縫季へ向かって伸びてくる。触れようとしている。
だが――すり抜けた。
音にならない。声にならない。波が来る。来るが、届かない。
縫香官としての職能接続が消えた縫季には、管理官の声が――受け取れない。
白い揺らぎが、もう一度伸びてくる。
すり抜ける。
また、伸びてくる。
すり抜ける。
縫季はその揺らぎを見つめた。
(……管理官)
声に出さなかった。出しても、届かない。
白い揺らぎが、しばらくそこにあった。
それから――消えた。
縫季は、花壇を見た。
白い花が、朝の光の中に揺れている。
(……ああ)(もう、繋がっていないのか)
怖くなかった。
ただ――静かだった。
◆
花の匂いがした。
朝の光が、肩に温かい。
敷石の冷たさが、足の裏に返る。
縫季は深く息を吸った。
香の流れではない。
ただの――空気だ。
草の匂い。土の匂い。朝露の冷たさ。
(……これが、人間か)
怖くない。
重くもない。
ただ――世界が、近い。
今まで香越しに見ていた世界が、一枚、薄皮が剥けたように――直接触れてくる。
縫季は花壇の白い花に、そっと指先を触れた。
花びらの感触が、返ってくる。
柔らかい。冷たい。確かに、ある。
(……ここに、いる)
調整員としてではなく。通りすがりとして。
ただの人間として――この線に、いる。
◆
縫季は懐に手を入れた。
祭壇から持ち出した、あの獣骨だ。
小さく、古い。天への問いが、刻まれたまま残っている。
答えは、来なかった問いだ。
縫季はしばらく、その骨を手の中で見た。
それから――腰の刀の鞘尻を使い、骨の端に、文字を刻んだ。
細く、小さく。
調整員の手ではない。ただの人間の手で、刻んだ。
帝辛の笑みは、ここにあった。
正史には残らない。誰も読まない。周の史官も、後の世の学者も、この骨の在処を知らない。
それでも――残す。
縫季は花壇の端へ歩み寄り、白い花の根元の土を、指先で掘った。
深くはない。浅く、静かに。
獣骨を、土の中へ収めた。
土を戻す。花の根が、上から覆う。
正史に届かない場所に。記録の層にも刻まれない場所に。
ただ――ここにあったという、それだけのために。
(……陛下)
縫季は土の上に、そっと手を置いた。
(あなたの笑みを、紡ぎました)
声には、しなかった。する必要が、なかった。