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第79話 帰る場所は
遠く、白い記録盤の前で。
管理官は、戻ってきた観測値を見ていた。
縫香官としての職能接続は消えた。声は届かない。
だが――この世界線が観測網へ触れた一瞬だけ、輪郭を拾うことはできた。
花壇の前に立つ縫季の姿が、今朝より少しだけ濃い。
人間の時間へ、定着しつつある。
管理官は記録した。
職員識別符号・第五八層第六九二七号。本人選択による緊急有限化、定着完了。縫香官としての職能接続、消失。当該世界線への定着を確認。
一拍。
――観測値、変動。
この世界線の伝承圧が、わずかに――上昇している。
帝辛の魂核に、別の記録層の残滓が加わった。
笑顔として生きた帝辛の密度が、この線に流れ込んでいる。
線が、太くなっている。
管理官は、そのまま記録欄へ残した。
意味を決める権限は、自分にはない。
判断するのは――この先、この線を語る者たちだ。
最終話荷は、小さかった。
元々、何も持っていなかった。持てる体ではなかった。
縫季は部屋を見渡した。
三日間、眠り続けた部屋。帝辛が水を持ってきた部屋。胸の光が、最後に震えた部屋。
何かを置いていくには、あまりにも静かすぎる部屋だった。
(……行くか)
任務は終わった。魂の統合は完了した。調整員としての力は消えた。
ここに留まる理由はない。理由を、作れない。
縫季は荷を持ち、扉を開けた。
◆
廊下に、帝辛が立っていた。
朝議の帰りなのか、帳を手に持っている。その視線が、縫季の荷に落ちた。
目が止まる。
「……どこへ行く」
低い声だった。穏やかなのに、縫季の足をその場に縫い留める声。
「旅の続きを」
答えると、帝辛はしばらく黙った。
何かを言いかけて、飲み込む。その沈黙だけで、縫季の胸が痛む。
やがて帝辛は静かに言った。
「茶を、飲んでいけ」
命じる声ではない。だが、拒む余白がない。
縫季は荷を持ったまま、頷いた。
「……はい」
◆
政務の間の奥に、小さな卓があった。
茶器が置かれていた。いつもここにあるものなのか、今日だけなのか。縫季には分からない。
帝辛が卓の前に座り、道具を並べた。
縫季は向かいに腰を下ろした。荷を、足元に置く。
その荷が、やけに軽く見えた。
湯が沸く音。白い湯気が、薄く立つ。
帝辛はしばらく何も言わなかった。ただ、火と湯を見ていた。
その沈黙のあとで、ぽつりと落とす。
「……『また』、私の元から去るつもりか」
縫季は顔を上げた。
「……陛下」
「また、と言ったな」
縫季の肩が、わずかに揺れる。
「なぜそう言ったのか、自分でも分からぬ」
帝辛は湯を見たまま続けた。
「だが、お前を見ていると、何かを、何度も失くしてきたような気がする」
湯気の向こうで、その横顔は静かだった。静かなのに、言葉だけがひどくむき出しだった。
「だから」
一拍。
「お前が今、ここを出ていくのが……嫌だ」
帝辛はまだ湯を見ている。こちらを見ないまま、続けた。
「王として正しい言葉でもない」「だが、嫌なものは嫌なのだ」
喉の奥が熱くなる。
縫季は何も言えなかった。何か言えば、たぶん全部崩れる。
帝辛はようやく視線を上げた。
「帰る場所は、あるのか」
答えられない。
管理官の香波には届かない。世界線は見えない。縫香官として戻る場所は――もうない。
帝辛はその沈黙を、否定と取らなかった。ただ静かに受け取った。
「ならば、ここにいろ」
「……なぜ」
「……分からぬ」
一拍。
「分からぬが、お前がいないと落ち着かない」
それから、まっすぐ縫季を見る。
縫季の指が、膝の上でわずかに震えた。
帝辛は視線を湯へ戻した。
「通りすがりは、もう終わりにしろ」
それだけだった。
だが、その一言には、引き止めるというより、留まって当然だとでも言うような静かな執着があった。
縫季は、足元の荷を見た。
持っていく必要が、なくなった。
コメント
1件
第79話読み終えたよ〜!!🌸 帝辛の「お前がいないと落ち着かない」からの静かな執着、マジで心臓持っていかれた😭💕 管理官視点の冷たい観測記録と、縫季を引き止める生々しい感情の対比がエモすぎる…。「帰る場所はあるのか」に答えられない縫季の沈黙も、全部刺さった。最後の「持っていく必要がなくなった」で涙腺崩壊しかけた…続きが気になりすぎるよ!!