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コーヒーの香りで目が覚めた。心地良い柔らかさに顔をうずめて、しばらくぼーっとしていた。
カチャカチャと食器がぶつかる音が聞こえて、ようやく状況を把握した。俺はいつかの咲のように飛び起きた。
そうだ! 昨夜は咲と――。
「おはよう」
台所から咲が顔を覗かせた。
「おは……よう」
「今日も仕事でしょう? 朝ご飯食べてる時間ある?」
俺は腕時計に目をやった。七時五分。
ジューッと焼ける音がして、香ばしい香りがした。朝食の準備をする咲の姿を見たら、仕事なんてどうでもいい気がした。
「タオル置いてあるから、顔洗ってきたら?
咲に促されて、俺は洗面所に向かった。
冷たい水で目を覚まし、俺は大きなため息をついた。
寝落ちとか、あり得ねー――。
いくら疲れてたからって、いくら電話に邪魔されたからって、あの雰囲気はもったいないだろ――。
昨夜の咲の唇の感触を思い出してにやけた自分の顔が鏡に映る。気を引き締めるために、もう一度顔を冷やした。ついでに口をすすぐ。
リビングに戻ると、テーブルに二人分の朝食が並んでいた。トーストにスクランブルエッグ、カリカリのベーコンにフライドポテトとレタスのサラダ。
「和食が良かった?」
咲がカップを二つテーブルに置いた。差し出された一つを受け取る。
「悪い……。まさか寝ちまうとは――」
「先週、私も同じこと思った」と、咲が笑った。
コーヒーを一口飲んだ。
ちょうどいい温かさ……。
咲の気遣いが、嬉しかった。
「私も少し忙しくなりそう」
二人で朝食を済ませて、俺が着替えにマンションに帰ろうとジャケットを羽織った時、咲が言った。
「昨日の電話、侑からだろ? 何かあったのか?」
「清水の共犯者と被害者の割り出しにちょっと手こずってるみたいだから」
「そっか」
「あ、でも時間がある時は電話して?」
「わかった」
俺は咲にキスをして、彼女の部屋を出た。
思えば、今までの女とは俺が会いたい時に会って、食事して、ホテルに行って、セックスしたら帰るだけだったな……。
マンションを出てタクシーに乗り込んだ俺は、そんなことを考えた。
セフレだなんて思ったことはなかったけど、休日を一緒に過ごすことはなかったし、お互いの部屋を行き来することもなかった。誕生日だと言われたらプレゼントを渡したし、逆にプレゼントされれば受け取った。でも、咲との関係を恋人と言うなら、今までの女はそれとは違う。
大体、キスにあんなに夢中になるとか、名前呼ばれただけで興奮するとか、俺は中学生か――!
俺は、今日何度目かのため息をついた。タクシーの運転手には、俺が仕事に追われて疲れ切っているように見えているんだろう。
電話して……ってことは、咲からは電話してこないのかな。
清水みたいなクズの尻拭いで面白くもない事務仕事をさせられて、そのせいで同じ建物にいるのに顔も見れないことで、俺は咲のことばかり考えていた。追い打ちをかけるように、四六時中顔を突き合わせているのは咲の従兄妹だ。
咲の部屋を出る時、『今日も会いに来たい』と言いたかったが、やめた。咲がわざわざ『忙しい』と言ったのは、『放っておいてほしい』ってサインじゃないかと思えた。
俺のいないところで、あんな顔をして仕事してるのかな……。
俺は清水のことを調べていた時の咲の表情を思い出していた。
背筋が凍り付くような、冷たい笑み――。
胸の内を見透かすような鋭い眼光――。
獲物を狙う獣のような、静かに激しい彼女の姿を綺麗だと思ったし、興奮した。
どっぷりハマってんな、俺――。
会社に到着し、俺も咲に負けない仕事モードに切り替えて、タクシーを降りた。
日曜の朝に咲の部屋を出てから木曜の夜まで、咲の顔を一瞬たりとも見ることが出来なかった。思っていた通り、彼女から電話がかかってくることもない。俺は半ば無理やりに仕事を切り上げ、侑を酒に付き合わせた。
「咲に会いに行かなくていいのか?」
開口一番に侑に言われた。
「知ってたのか」
俺はグラスビールを一気飲みして、バーテンダーに二杯目を頼んだ。
「土曜の夜に咲の部屋にいなかったか? 電話の奥でお前の声がしたと思ったんだけど」
「ああ……、あれか」
「咲はそんな話しねーよ」と言って、侑はワインを口に含む。
「早速喧嘩か?」
「距離感がつかめない……」
「なんだそれ」
侑は腹が減ったと、ピザを注文した。
「『忙しい』って言うから、邪魔しない方がいいのかと思ったんだよ」
「忙しい? 咲が?」
あれ? そういえば……。
「お前は忙しくないのか?」と侑に聞く。
「いや? むしろ清水の件が一段落して定時で上がれるくらいだ」
「じゃあ、咲は? 土曜のお前の電話のせいじゃないのか?」
「あー、あれか――」
侑は思い出したように宙を見た。
「でも、あれから何も言ってきてないから、動きはないはず」
「藤川課長とは連絡とってるぞ。電話でお前の名前も出てきてたし」
「俺抜きで真さんと何やってるんだ?」
「俺が知るわけねーだろ」
俺は苛立ちを隠さず、投げやりな言い方をした。
実際、俺にはメッセージのひとつもないのに、藤川課長には毎日咲から電話やメッセージが届いているようだった。藤川課長も俺と咲の関係を知っているらしく、メッセージが届くたびににやけ顔で俺を挑発してきた。
「気になるな……。ちょっと探ってみるか」
侑がピザを頬張る。
「でも、案外プライベートなことかもよ? あの二人、相当なシスコンとブラコンだからな」
「従兄妹だろ?」
「お互い一人っ子で子供の頃から一緒に暮らしてきたから、実の兄妹より依存してるんじゃないかな」
「そんなもんかね……」
咲の手料理が食べたいな……。
ピザを食べながら、そう思った。
「お前、余裕ないね」と言いながら、侑が笑った。
「わかってるよ!」
俺は気持ちを見透かされて、恥ずかしくなった。
「ま、相手が咲だからな」
「お前のその物知り顔がムカつく」
グラスを空にして、ウィスキーを注文した。
「そりゃ、お前とは年月が違うからな」
侑が自慢げに言った。
「そんなことくらいでムカついてたら、咲とは付き合っていけないぞ」と侑が続けた。
「咲は人間不信なところがあるからな。滅多に他人を寄せ付けない代わりに、信じた人間への依存は半端じゃない。咲の信頼している人間ごと受け入れられなきゃ、すぐに切られるぞ」
「忠告どーも」
「警告だ。半端な気持ちなら、長くは続かないだろうな」
侑の真剣な表情に、俺は気おくれした。
「脅しかよ」
「俺でさえ、時々怖くなる」
「何が?」
「咲の絶対の信頼が」
「今度は自慢かよ」と言って、俺はウィスキーのグラスに口をつけた。
「俺がお前に咲の正体をバラしたこと、普通なら懲戒免職ものだろ」
「確かに……」
「お前と咲がまとまったから結果オーライに見えるけど、違うからな。咲は俺の考えを読んでたから、あの場で一喝されただけで済んだんだ。で、言われたよ。『課長に明かした侑の判断を信じる』って。普通、そんなこと言えるか?」
「いや……」
「俺の見込み違いでお前が咲を告発でもしたら、咲はお終いだ。それを――」
侑はワインで喉を潤して、呼吸を整えた。
「もし、俺が咲を裏切るようなことがあっても、あいつはきっと『信じる人を間違えた自分が悪い』って言うんだよ」
「わかる気がするな」
「それなら、咲に顔向けできないようなことはするなよ」