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泡咲めろあ🫧🪄
843
りんご
904
蛭の群れが退いたあとも、山には妙な静けさが残る。
空が暗い。
雲の切れ間から、月が覗いている。
旅僧が顔を上げた。
「月が……」
佐衛門は見なかった。
「違う」
「え?」
「あれは月じゃない」
佐衛門が指を上げる。
「月を背にしている」
旅僧は目を細めた。
最初は分からなかった。
やがて。
月の前に、人の形をした黒いものが浮かび上がった。
月の中ではない。
月を背負っている。
お師さんの隻眼が、大きく見開かれた。
「……思い出した」
「何を?」
妖怪は、震えていた。
「月を見るな」
旅僧が眉を寄せる。
「月を見せるな、では?」
「違う」
お師さんは首を振った。
「月を見るな」
影が動いた。
口が開く。
声は聞こえない。
なのに。
佐衛門の頭の中へ、言葉だけが滑り込んできた。
『思い出せ』
佐衛門の指が、僅かに動く。
『何故、捨てられた』
胸の奥が軋んだ。
『何故、独りだった』
『何故、真名を捨てた』
旅僧が佐衛門を見る。
ほんの僅かに。
空気が揺れていた。
『皆、忘れている』
『私も』
『お前も』
『あの妖も』
お師さんが頭を押さえた。
「違う……」
何かを掴みかけている。
だが。
掴んだはずのものが、指の間から零れていく。
『封じた者も』
「違う!」
お師さんが吼えた。
山が震える。
「忘れたんじゃない!」
隻眼に怒りが灯った。
「忘れさせられたんだ!」
影が止まった。
佐衛門は見逃さなかった。
「そうか」
小さく呟く。
「お前もか」
影は動かない。
「何を隠している」
答えはない。
やがて。
お師さんが、ゆっくり顔を上げた。
「思い出した」
影を指差す。
「お前は封印者じゃない」
影が、僅かに揺れた。
「番人だ」
沈黙。
「見張っていたんだ」
月明かりの中で、影の輪郭が崩れていく。
顔がない。
目も。
鼻も。
口もない。
何もない。
ただ、人の形だけが残っている。
役目だけを残して。
『そうだ』
『私は見張っていた』
『ずっと』
旅僧が唾を飲み込む。
「何を……?」
影は月を見た。
『あれを』
その瞬間。
月が、僅かに揺れた。
雲ではない。
月の表面に、細い影が走った。
まるで――
閉じた瞼のように。
佐衛門は目を細めた。
お師さんは、見ようとしなかった。
『見上げるな』
『あれを見るな』
その瞬間。
山の底から声が響いた。
『見つけた』
子供の声だった。
一つではない。
幾つも。
何十。
何百。
何千もの声が重なる。
『見つけた』
『見つけた』
『見つけた』
旅僧が膝をついた。
お師さんの顔から、血の気が引いていく。
「……思い出した」
「何を」
佐衛門が問う。
お師さんは答えず、月を見た。
いや。
見ないようにしていた。
「だから、二十四に分けたんだ」
佐衛門の目が細くなる。
「何を?」
答えはない。
ただ。
お師さんの手が、僅かに震えていた。
「一つじゃ、封じ切れなかった」
月の向こうで。
何かが、こちらを見ていた。
――月ではない何かが。
コメント
1件
いや、これめっちゃゾクゾクした……!「月を背にした影」のビジュアルがまず強烈で、読み始めた瞬間に空気が変わったのが分かったわ。「月を見るな」と「忘れさせられたんだ」の流れ、お師さんの隻眼に怒りが灯るシーンで鳥肌立った。そして「番人だ」のひと言で全ての意味が反転する感じ、痺れる。最後の子供の声の重なりと「月ではない何か」の不気味さ、続きが気になって仕方ない……!