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それは、夕立の名残がまだ地面に色濃く残る、黄昏時のことだった。日が西の稜線に沈みかけ、世界が群青と灰色の境界を曖昧にする時間帯。雨上がりの湿気を含んだ風は、どこかぬるく、肌に寄りかかるように重い。村の外れ、黒煉瓦の尖塔へと続く一本の細道に、いつもより多くの人影が蠢いていた。
誰かが声を張り上げたわけではない。鐘が鳴らされたわけでもない。ただ、水が低きに流れるように、”そうするのが当然だ”という空気感だけが、人々をその場所へと運んでいた。
「今日は聖女様にお祈りを捧げる日だ」
「この前の雨で尖塔が冷えていないか心配で」
「騎士様たちは、もう三日もあの人の様子を伝えてくれない」
理由はいくらでもあった。どれもが善意で、どれもが慈悲深く、そしてどれもが――自分たちの不安を埋めるための口実。
泥濘んだ道の途中で、二人の騎士が立ち塞がる。交代の見張りだ。彼らは剣の柄に手をかけることもなく、ただ壁のようにそこに立っていた。
「ここから先は、立入禁止区域です」
雨に濡れた鉄兜の下から、事務的な声が響く。
「危険はありません。引き返してください」
一瞬、重苦しい沈黙が落ちる。雨雫が木の葉から落ちる音だけが響く中、村人たちは互いの顔を見合わせ、視線で熱を交換し合う。やがて、ひとりの青年が、泥を跳ね上げて一歩前に出た。
「お祈りをするだけだ」
「我々は聖女様に感謝を伝えたいだけなんです」
「それとも騎士様は――」
青年は、言葉を喉の奥で転がし、鋭い刃に変えて吐き出した。
「――聖女様を、閉じ込めているのですか」
空気が、ぴんと張り詰めた。湿った大気が、一瞬で乾燥した火薬のような匂いを帯びる。騎士の一人が、わずかに眉を動かした。
「そのような言い方は控えていただきたい」
「じゃあ、通せよ」
群衆の後ろから、誰かが低く言った。その声は波紋のように広がる。
「顔を見せてくれるだけでいいんだ」
「あの方の声を聞くだけで、安心して眠れる」
「そうだ! ひと目だけでいい」
同意の声が、さざ波のように重なる。武器を取ろうとする者はいない。石を握る者もいない。彼らが握りしめているのは、自分たちは正しいことを望んでいるという確信だけだ。しかし、その確信が生む圧力は、武装した兵士をもたじろがせる質量を持っていた。
一歩。
じり、と土を踏みしめる音が重なる。
さらに一歩。
騎士が、圧されるように半歩後退する。
「下がれ。これ以上は――」
その時だった。
列の端にいた、年若い娘が、ふらりと前のめりになった。ぬかるんだ地面に足を取られたのだ。身体が大きく傾き、泥水の中へ倒れ込む。とっさに、近くにいた騎士が腕を伸ばす。それは訓練された反射であり、庇護者としての本能。革手袋の指先が掴んだのは、娘の袖ではなく、無防備な手首だった。
「――触るな!」
悲鳴のような叫びが、夕闇を引き裂いた。誰の声だったのか、叫んだ本人すら分からなかったかもしれない。だがその一言は、”騎士は敵である”という無意識のスイッチを弾くには十分すぎた。
「離せ!」
「乱暴する気か!?」
騎士の手を振り払おうと、誰かがその腕を強く叩いた。
予期せぬ衝撃に体勢を崩した騎士が、泥に足を取られてよろめく。バランスを取ろうと反射的に振り上げた腕――その硬質な鉄の籠手が、近くにいた男の頬を、鈍い音を立てて強打した。
「痛っ――」
短い苦悶の声。それだけだった。剣は抜かれていない。殺意もなかった。だが、鉄の角に裂かれた皮膚からは、赤黒いものがすうっと筋を引いて零れ落ちる。
ぽたり、と。
その赤は、湿った黒土の上で、毒々しいほどに鮮やかだった。超えてはならない線が、物理的に引かれてしまった瞬間だった。
静寂。その後、誰かが悲痛な様子で叫んだ。
「聖女様が、こんなことを望むと思うのか!」
咎める声。だが、それに被せるように、別の誰かが震える声で呟いた。
「……でも、助けてくれたのは、あの人だ」
その言葉が決定打だった。
騎士ではない。国でもない。我々を救ったのは、ソラス様だ。だから――我々の行動は、彼女の意志の代行なのだ。
その歪んだ論理が、熱病のように共有されていく。騒ぎを聞きつけたアルベルトが駆けつけたとき、事態はすでに、奇妙な収束を見せていた。
突き飛ばされた騎士は、泥に汚れたまま腕を押さえて座り込んでいる。切っ掛けとなった娘は、顔を青ざめさせて立ち尽くしている。そして群衆は、波が引くように沈黙していた。誰もが口を閉ざし、何もなかったふりをしていた。
アルベルトは、地面に落ちた僅かな血の跡を見た。それから、ゆっくりと視線を上げ、村人たちの目を見る。そこにあるべき後悔の色を探した。あるいは、行き過ぎた行動への恐怖を。
だが、何も見つからない。そこにあったのは、強固な”正当化”だった。自分たちは悪くない。聖女様を想ってやったことなのだから。そんな無言の主張が、壁となって立ちはだかっていた。
「……解散してください」
アルベルトの声は、低く、冷たく、そしてどこか枯れていた。反論も謝罪もなく、村人たちはゆっくりと散っていく。夕闇の中へ消えていく彼らの背中は、不思議なほど堂々としていた。それぞれの胸の内で、免罪符のように同じ言葉を繰り返しているのが聞こえるようだった。
――全ては聖女様のためだ、と。
⬛︎
夜更けの幕舎は、澱んだ水底のような静けさに満ちていた。夏の終わりだというのに、布越しの夜気は生温かい。机上の油灯が、吹き込む風もないのに揺らぎ、頼りない影を天幕に落としていた。
机の前に座ったまま、アルベルトは、指一本動かせずにいた。目の前に白い羊皮紙。まだ一文字も記されていないその空白が、鉛の板のように重く感じられる。瞼の裏で、先ほどの光景が繰り返されていた。
剣は抜かれなかった。
死者も出ていない。
これを報告書にするならば、せいぜい”小競り合い”あるいは”小規模な摩擦”と記されるだけの出来事。だが、アルベルトの葡萄色の瞳は、そこに別のものを見ていた。
これは事件ではない。崩壊への兆候だ。部下の腕に残った赤い打撲痕。突き飛ばされた娘の、血の気のない蒼白な顔。そして何より――その場にいた誰一人として、自分たちが間違っているとは微塵も思わない、あの澄み切った狂気。
ふと、昼間の尖塔での記憶が蘇る。音もなく拒絶を示すように閉ざされた扉。夕闇に溶けていく銀の髪。そして、あどけない顔で放たれた、刃のような言葉。
――次は、あなたたちが何を守れなかったのかも、ちゃんと書いてくださいね。
胸の奥が、じくりと痛んだ。アルベルトは、これまで数え切れないほどの報告を書き記してきた。反乱の火種。異端の噂。治安の悪化。それらはすべて、騎士団が剣を抜くための正当な理由となる。ペン先から落ちたインクは彼個人の感情を離れ、冷徹な制度の判断へと変わり、やがて誰かの血となって流れる。それが騎士の仕事であり、彼の役割のひとつだった。
「……隊長」
幕舎の入り口で、遠慮がちな声がした。今夜の当直を務める騎士だ。
「負傷者の容体は」
「軽傷です。村の娘のほうも……大事には至っていません」
本来なら安堵すべき報告だ。だが、アルベルトの胸にのしかかる重石は、少しも軽くならない。
「隊長」
騎士は、少し言い淀んでから、困惑したように続ける。
「……あの場にいた連中、誰一人として、こちらを恨んじゃいませんでした」
アルベルトは、ゆっくりと顔を上げた。
「むしろ……聖女様のために仕方なかった、あれは正しい行いだったと、そう信じ込んでいます」
その言葉で、最後の砦となっていた何かが音もなく崩れ去った。恨みならば、話し合いで解けるかもしれない。怒りならば、鎮めることもできるだろう。だが――自らの正しさを疑わない集団は、止まらない。彼らは善意で石を投げ、信仰で人を傷つける。
「分かった。下がっていい」
アルベルトは、感情を押し殺して告げた。騎士が一礼して去ると、再び粘り着くような静寂が戻ってきた。
揺れる炎の下、彼は一人、無垢な羊皮紙を見つめる。これを書けば王都が動く。巨大な機構が回転し、白耀の剣が抜かれるだろう。
だが、書かなければ。この歪んだ平穏の果てに血を流すのは、村人か、部下か、あるいは――あの孤独な少女かもしれない。
アルベルトは、深く目を閉じた。自分が何者であるかを、問い直す。自分は英雄ではない。善悪を裁く裁定者でもない。ただ、事実を記録する者だ。そして記録とは、自分に都合のいい沈黙を選ばないことだと、彼自身が誰よりも知っていた。
ゆっくりと羽根ペンを取る。インク壺の縁に触れたペン先が、微かに震えた。それでも手は止まらない。 羽根ペンの鋭い先端が、乾いた羊皮紙の上を滑る。カリ、カリ、と。その規則的な摩擦音だけが、夜の帳に吸い込まれていく。
アルベルトは、自らの内側にある感情の回路を、意識的に断ち切った。 これは慈悲を乞う嘆願書ではない。悪を糾弾する告発文でもない。記録だ。いずれ王国騎士団という巨大な怪物が読み返し、冷徹な判断を下すための――温度を持たない、均質な文字列の羅列。
『報告。ライトリム村駐留中、住民と王国騎士との間に複数回の摩擦を確認』
黒いインクが、紙の繊維に染み込み、決して消えない事実として定着していく。
『特に、尖塔付近への立ち入り制限を巡り、住民側に強い不満と抵抗の兆候あり』
彼は、あえて”信仰”という熱を帯びた言葉を避けた。代わりに、より無機質で、それゆえにこそ危険な響きを持つ言葉を選ぶ。
『当該抵抗は、特定個人への崇拝に起因する可能性が高く、住民側は当該存在を”聖女”として認識している節が見受けられる』
一瞬、ペンの動きが止まる。インクが一滴、わずかに溜まる。
“節が見受けられる”。
それは、断定を避けるための慎重な言い回しだ。だが同時に、解釈の刃を読み手に委ねるための、卑怯な逃げ道でもあった。
『本日、尖塔へ向かう住民集団と見張り騎士との間で小規模な衝突が発生』
アルベルトは、硝子細工を扱うように慎重に言葉を選び抜く。
『剣の抜刀には至らず、死傷者なし。ただし、騎士一名および住民一名に軽度の負傷あり』
そこには流れた血の赤さも、娘の悲鳴も記されない。必要なのは、抽出された結果の残滓だけだ。
『当該事案において、住民側に明確な敵意は確認されず。しかしながら、”当該存在の意思を優先すべき”との発言が複数確認された』
ここで、アルベルトは一行、空白を作った。その空白こそが、この報告書の心臓部となることを、彼は痛いほど理解していた。ペンを握る指先に、微かな震えが走る。
『以上より、本件は単なる治安維持案件に留まらず、住民心理および信仰構造そのものが不安定化している兆候と判断する』
息を吐く。肺の底に沈殿していた熱を逃がし、続ける。
『現地指揮官としての所感を付記する』
公式文書に所感を残すこと。それは彼に許された権利であり、同時に、書いた者の首に責任という名の鎖を巻きつける行為でもある。
『当該存在――ソラスは、現時点において自発的な敵対行動を取っていない』
彼は、事実を曲げなかった。それが、彼にできる唯一の誠実さだった。
『しかし、住民側の認識と期待が、当該存在の意思を超えて増幅している』
インクが、紙の上で黒く滲む。それはまるで、広がりゆく影のようだった。
『このまま推移した場合、当該存在の意図に関わらず、更なる衝突および流血に至る可能性は否定できない』
最後に、アルベルトは決定的な一文を刻み込む。
『本件は、現地判断のみで収拾可能な段階を越えつつある』
かつん、とペンを置く音が静寂に弾けた。油灯の小さな炎が、怯えるように揺れる。アルベルトは、しばらく石像のように動かなかった。記した言葉を読み返すこともしない。読み返せば、迷いが滲み出てしまう。
これは、彼のための言葉ではない。王都というシステムのための燃料だ。そして同時に、彼自身を裁くために残された、残酷な記録でもあった。
羊皮紙を丁寧に折り畳み、熱した封蝋を垂らす。蝋が溶ける匂いと、指先に残る生々しい熱が、彼を現実に繋ぎ止める。
⬛︎
その夜、風は死んだように凪いでいた。村の外れ、森の深淵――尖塔は、いつもより濃密な闇の底に沈んでいる。塔の中、ソラスはひとり、冷たい螺旋階段に腰を下ろしていた。灯りはない。高い窓から差し込む青白い月光だけが、石段を切り取るように照らしている。
彼女は、身じろぎひとつしない。唄も、祈りも、唇から零れることはない。ただ、耳を澄ませていた。遠く、世界のどこかで、何かが決定的に変わる音がした。それは剣戟の響きでも、誰かの怒号でもない。運命が、紙の上に書き記された音だ。
ソラスは、ゆっくりと重いまぶたを閉じる。胸の奥深い場所で、冷たい石が水底へ沈んでいくような感覚があった。それは恐怖ではない。悲しみですらない。
――ああ。
彼女は、音のない息をつく。もう、戻らない。それだけを静かに理解して、ソラスは膝の上で両手を固く重ねる。その指先は、氷のように冷たかった。尖塔は、その沈黙を拒まなかった。森もまた、何も語らずただ闇を深める。夏の終わりを告げる夜は、嵐の前触れのように、異様なほど穏やかだった。