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三十二階層の湖は、妙に静かだった。
街並みが途切れた先——湖のほぼ中心に、ぽっかりと大穴が開いている。水面をくり抜いたような黒い円の縁から、黒い石で組まれた螺旋階段が見え、塔のさらに奥へと続いていた。
水音も、風の音も、ここでは薄い。穴の底から吹き上がる冷気だけが頬に触れ、肌の上をすべっていく。
「簡単にあなたたちの実力を知りたいのだけど」
エリーが階段の上にぼんやり浮かぶ転送陣を見上げた。まぶたの動きはゆっくりなのに、視線だけは逃げない。
「ここまで、どんなボスを倒してきたの?」
「十階層がオーガ、二十階層でワーウルフ、三十階層でエルダードラゴンだったよ」
ダリウスは手すりに指を添えたまま答えた。声色は淡々としていて、数字だけが並ぶ。言い終えてから息を一つ吐き、指先が石の冷たさを確かめるようにわずかに動いた。
「……エルダードラゴンを」
エリーの長い睫毛が小さく揺れた。青い瞳の奥で、光が一瞬だけ切り替わる。
「原書写しもいることだし……あなたたち、相当な実力者ってことね」
「まぁな。昔は俺たち、相当ならしてたぜ」
オットーが鼻を鳴らし、腹をぽんと叩いた。鎧の金具が小さく鳴る。
「ダリウスは——シュバーン」
ミラが剣を振り下ろす真似をして、空中に一閃を描く。手首が軽い。
「オットーはガッキーン」
両腕を広げ、見えない大盾で何かを受け止める仕草。膝が少し沈み、肩がぐっと固まる。
「エドガーは、どかーんだよ」
最後に両手を大きく広げ、爆発のジェスチャーで締めくくる。
階段の上に並ぶ影が、ひとときだけ揺れた。口元が緩み、息が漏れる。笑いは短く、すぐに引き締まる。
「……楽しみね」
エリーは小さく微笑んだ。笑みは薄いのに、目だけがよく動く。
「あぁ、行こう」
ダリウスが一歩、螺旋階段を踏みしめる。靴底が石を鳴らし、穴の底へ音が落ちた。水面からの光が、足元の影を長く引き伸ばす。
先頭にダリウス、そのすぐ後ろにオットーとエドガー。最後尾でミラが一度だけ振り返ると、水上都市のざわめきが遠くで揺れていた。釣り竿を振る腕も、笑い声も、ここからは小さな点にしか見えない。
*
転送陣を抜けた先——三十三階層。
足元の感触が変わった。砂だ。粒が靴裏にまとわり、歩くたびにさらりと崩れる。
目の前いっぱいに海が広がっている。エメラルドグリーンの水面が陽光を返し、きらきらと細かな光が散っていた。波は穏やかで、規則正しく白い砂浜を撫でては戻る。空は高く、雲ひとつない。水平線がまっすぐに走っている。
潮の匂いが鼻をくすぐる。風はぬるく、肌の上をなでていく。どこかで鳥が高く鳴いた。
「いい天気だなぁ」
オットーが空を見上げる。声は軽いのに、腕はすでに上がっていた。いつでも盾を出せる高さのまま、肩の筋が固い。
「そうですね」
エドガーは視線を魔導書に落としたまま答えた。ページをめくる指は滑らかで、足運びは静かだ。砂を踏む音すら整えている。
ダリウスの呼吸が一段、低くなる。視線が水平線の一点へ固定された。
「——来るぞ。前方、五体。サハギンとマーメイド!」
声と同時に、剣が鞘から抜けていた。刃が陽光を弾き、白く光る。
沖の方で波間の影が揺れ、甲高い咆哮とともに五つの人影が浮かび上がる。魚の鱗と人の体を併せ持つサハギン。上半身だけ人の女に似せたマーメイド。楽園めいた景色に、細い棘のような殺気が混じっていく。
少し離れた位置で、エリーが立ち止まった。青い髪が風で揺れ、唇の端がわずかに上がる。
(ふふっ、なるほど……百戦錬磨ってところね)
ダリウスの気配が変わる。肩の余計な力が抜け、首筋がすっと伸びる。目の焦点が一点へ集まった。
——“超集中”。
「行くぞ」
短く呟いた瞬間、オットーも足を踏み出していた。
「シールドバッシュ、出力最大——!」
号令とともに盾に魔力が走る。光が縁をなぞり、空気が震える。オットーの突進とダリウスの踏み込みがぴたりと重なり、二人は砂浜を抉るように前へ飛び出した。
(……もっと深く、潜れ)
ダリウスの視線から、波も空も外れる。揺れる光が端へ追いやられ、敵の手元と足運びだけが残る。
サハギンの一体が槍を構えて飛びかかってきた。
槍先が伸びる前に、ダリウスの身体が横へ滑った。靴が砂を噛み、腰が沈む。次の瞬間、懐へ入り込む。
剣が下からすくい上げる。
「——《スラッシュ》!」
刃が鱗と肉を割る。首がわずかにずれて止まり、砂の上に影が崩れ落ちた。血が一筋、砂へ吸われていく。
「……なるほど」
エリーが青い髪の先を指でつまみ、目を細めた。視線はダリウスの足の置き方を追っている。
(“深き森”に沈めるのね——)
呼吸の置き方。間合いの詰め方。迷いの消し方。そこに入ってから、敵との距離だけを見る。彼女は一目でそれを拾った。
「戻れ!! ダリウス!!」
オットーの声が飛んだ。
ダリウスの足が止まる。反転し、オットーの背中——分厚い盾の陰へ滑り込む。砂が跳ね、剣先が一度だけ揺れる。
「……はぁ、はぁ……もう三十秒か?」
剣を杖代わりに突き立て、肩で息をしながら問う。喉の奥が熱い。
「いや、二十秒だ。数が多い、慎重に行こうぜ」
オットーは短く返しながら、前方から飛び込んでくる槍と爪を盾の軌道だけで弾き返していく。盾が打たれるたび、鈍い衝撃が腕を伝って胸まで響く。
そのやり取りに、エリーの眉がぴくりと動いた。目だけが細くなる。
(……えっ!? なんで止めたの? なんで息切れしてるの?)
彼女の感覚では、今の距離と時間はまだ動ける。まだ攻められる。そういう“余白”の位置だ。だが目の前の人間たちは、そこを限界として扱っているらしい。
オットーの盾も、彼女の目には異様だった。厚さ、重さ、練り込まれた強度。長命種の戦士が百年単位で積み上げる類の代物を、人の子が当たり前の顔で振り回している。
(人の子で、その盾をあそこまで……狂っているわね。
一つのスキルに、人生を全部賭けた顔をしてる)
マーメイドの一体が後方で両手を掲げる。海水がふわりと浮き、光が螺旋を描き始めた。
「後方を狙ってくるぞ! オットー、下がる!」
ダリウスの声が飛ぶ。
「任せろ!!」
オットーが後退へ体重を移そうとした——その瞬間、膝の奥で何かが弾けた。
「ぐぅぅぅ……っ!」
顔が歪む。盾の縁が一瞬だけ下がり、足が止まる。
「痛風か!? 俺の肩につかまれ!!」
ダリウスが横へ回り込み、肩を差し出す。手がオットーの腕に触れ、すぐ支えに変わる。
「わりぃな、リーダー……!」
「問題ない。俺がお前を、お前が俺を支えるんだ!」
短い言葉。息が混じる。互いの体温が伝わる距離で、それ以上は言わない。
(……今、“痛風”って言わなかった?)
エリーは耳を疑った。視線がオットーの膝へ落ち、すぐにダリウスの肩へ移る。
(聞き間違いよね。そうよね。あれだけ動ける盾役が、まさか……)
彼女は後方へ視線を流した。
ミラが慣れた手つきで光の紋様を空に描き、結界を張り直している。指先が震えていない。呼吸も崩れていない。小柄な身体の中心がぶれない。
その少し前に、エドガーが一歩出た。
きらり、と虫眼鏡を掲げる。海風で前髪が揺れるのに、角度が崩れない。
「フィオナ……ルーイン…………エドゥ」
詠唱は遅い。だが、途切れない。彼は虫眼鏡を構えたまま、わざとらしく前髪をかき上げる。
(んん!? 虫眼鏡!!?? しかも詠唱、遅っ!!
どういうこと? なんであんな堂々と“虫眼鏡構えポーズ”をキメていられるのよ!?)
エリーの常識が足元でぐらつく。
エドガーは気にしない。最後の一節を落とし、声を切る。
「——下がってください!」
短く告げて一歩踏み出す。
「《穿炎連鎖》——!」
赤い魔方陣が重なった。空気がきしゃあ、と鳴り、足元から細い炎の線が無数に走る。砂浜を這い、敵の足下に絡みつき、次の瞬間、槍のように立ち上がった。
刺さった炎が連鎖的に爆ぜる。内側から熱が膨らみ、サハギンもマーメイドも光と灰になって弾け飛ぶ。熱風が一度だけ頬を撫で、焦げた匂いが残った。
(……本当に、“完全再現”するのね)
エリーは虫眼鏡を下ろしたエドガーの横顔を見つめ、喉の奥で小さく息をついた。短命の人間が、それをこの速度で積み上げている。その事実が、胸の奥に引っかかる。
砂浜に短い沈黙が落ちた。
ダリウスは剣を突き立てて肩で息をし、額の汗を手の甲で拭う。オットーは汗まみれのまま盾を支え続け、膝をさすりつつ腰を落とす。エドガーはわずかにふらつきながら、虫眼鏡を布で拭いている。ミラはオットーの膝に手をかざし、光の加護で淡々と「文明病」を癒していた。
「……どうだ、俺たちの実力は?」
ダリウスが荒い息の合間に問う。胸の上下は大きいが、目線は逸れない。
「…………」
エリーは答えない。
「まぁ俺のシールドバッシュを見れば、そうなるよな」
オットーが胸を叩いて笑う。笑いは強引で、息がついてこない。
「魔法の完全再現をその目で見られたのです。驚くのも、無理はありませんよ」
エドガーが得意げに付け足す。
エリーはその二人を一度だけ見て、踵を返した。
「帰るわよ」
「え?」
四人の声が揃った。
ダリウスの目が丸くなり、オットーの手が宙で止まり、エドガーは虫眼鏡を持ったまま固まる。ミラだけが、なんとなく「そうなる」と分かった顔で口を引き結んだ。
「い、今の見て、帰るのか?」
オットーが聞き返す。
「言いたいことは、一旦セーフエリアに戻ってからよ。このまま行けば、次の階で誰かが死ぬわ」
エリーはそれ以上を言わない。視線を海へ移し、砂の上の焦げ跡を確かめる。
「まずは——そこの食材を解体しましょう」
彼女が顎で示した先に、焼け焦げた残骸が転がっている。
ミラの顔がぐにゃりと引きつった。
(やっぱり……食べるんだ……)
「どうしたの?」
エリーが振り返る。
「い、いや……食べるんだと思って……」
ミラの声が小さくなる。
「当たり前じゃない」
エリーはきっぱりと言い切る。
「命のやり取りをしたのよ。負けた方は食べられ、勝者の血肉になる。
——自然の摂理でしょう?」
ミラは口を開きかけ、閉じた。喉が動き、唾が鳴る。
「で、でも……なんか、その……」
「なるほど」
エリーの声が少しだけ硬くなる。
「じゃあ、あなたたち人の子はどうなの? 害意のない、可愛い家畜を一方的に殺して食べている。
どちらが残酷か——今日は一晩、よく考えなさい」
「……っ」
ミラは俯いた。頬が熱くなる。自分の手の中のフォークの感触まで、急に重い。
(さっきまでサハギンのムニエルを“おいしいお魚”って笑って食べてたの、私じゃん……)
ダリウスもオットーもエドガーも、言葉が出ないまま顔を見合わせる。返す理屈はある。だが今は、それを並べる元気も余裕もない。
「と、とりあえず、戻るか……」
「……ああ」
「解体は、まぁ……私がやっておきましょう」
息を切らせ、痛む膝や脇腹をさすりながら、五人はぞろぞろと三十二階層へ引き返していく。
背後で、海は静かに波を打っていた。
#ハッピーエンド
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