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教室の空気は、もう空気ではなかった。
ただ鈍く、ぬるく、重たい液体のように淀んで、遥と日下部の周囲を絡め取っていた。黒板の字を見ているふりをして、ほとんどの視線は教卓からわずかに外れた席――二人のほうに、張りついたままだ。
教室の地獄。それは叫び声でも、暴力でもない。
“演出”だった。
プリントが配られた瞬間に、誰かが遥の机をゆっくりと蹴った。誰かの咳払いに合わせて、また誰かが椅子をわざと大きく引き、その音で遥の声をかき消す。ノートを開けば、中身は破られていたり、汚水を垂らされた紙が差し替えられていた。
「何もしていない」ことが罰になった。息をしているだけで、誰かの“正義”を刺激した。彼が口を開くたび、あからさまに誰かが席を立ち、扉の外へと出ていく。教師も止めない。むしろ「落ち着いたら戻ってこいよ」とさえ言った。
遥は、声を失った。
日下部もまた、沈黙したままその横にいた。表情には出さないが、筆圧が強くなりすぎてペン先が折れた。
だが、それもまた“演出”として加えられていく。二人が同じ空間にいるだけで、どこからともなく「空気が悪くなる」と笑い声が立ち、「また病む」と机の間に避ける空間が作られた。
休み時間、遥が机に突っ伏すと、教室の出入り口がカチリと音を立てて閉まった。
「全員、連れてこいってさ」
女の子の声だった。だが声には、女らしさも人間らしさもなかった。無機質で、まるで何かのプログラムを実行する機械のような抑揚。
「保健室に行って、『状態を説明』してくれって。加害者としてね」
そのとき、日下部が椅子を引いた。
「ふざけんなよ……」
しかし彼の声は教室の空気を割れなかった。誰もが“期待どおりの反応”として、静かに彼を見ていた。担任はもういなかった。正確には、朝から「別件」で不在だった。
遥の手が震えていた。立ち上がる足が、どこか他人のようだった。
罰。それは、彼らが「反省すべき加害者」であるという設定のもと、校内で行われる“公開処刑”だった。
保健室ではなく、第三相談室。そこは教員も常駐しないが、「事情聴取」という名目で、数名の生徒がすでに待機していた。
蓮司はいない。だがすべてが、彼の仕組んだ“舞台”の一部だった。
遥はうなずいた。何も言わず、ただ従った。自己否定と、自己嫌悪と、逃げ道のない疲労感が、そうさせた。
日下部だけが、その背中を見て、唇を噛んでいた。どうすれば助けられるのか――それが、何もわからないままだった。