ドタドタと、髭モジャの足音が、廊下にこだましていた。
「あー、いっちゃった。って!橘様!髭モジャ、どこへ行ったのですか?!もしや、調理場《くりや》の新《あらた》の所へ?!」
それじゃ、自分の行き先がなくなってしまうと、紗奈《さな》は橘へ訴えた。
「まさか。さっき、新に仕返しするつもりだろうと言ってたから、新は、紗奈、あなたへ譲ってくれたんじゃないかしら?」
「えー!橘様、行き先知らないんですか、というか、気にならないんですか?」
「ええ、あの人は、元は検非違使。こうゆうことは、一番得意だから、やらせておけば良いのよ」
橘の、あっけらかんとした物言いに、常春と紗奈は顔を見合わせた。
と──。
「開けてくださーい」
タマの声がする。
「あっ!帰って来たんだ!」
紗奈が、房《へや》の引き戸を開けてやると、丸顔の若人姿の、タマがいた。
「あーもー、鍾馗《しょうき》様ったら、いざというとき、役に立たないんだから!」
小言を言いながら、どっこいしょっと、かけ声と共に、背負っている、鍾馗を床に下ろした。
「まあー、タマ、ごめんなさい、そうなのよ、うちの鍾馗は、いざというとき、役に立たなくて。それより、これは?」
すっかり、伸びている、鍾馗の姿に、橘は、ここまで、背負って重かったろう、申し訳ないと、タマに詫びた。
「あっ、それは、大丈夫です。タマは、タマだから、重くないんです。ただ、タマが喋ったら、鍾馗様、倒れちゃって!」
仕方なく、人の姿になって、背負って来たのだと、タマは言った。
「でも、よく、鍾馗の居場所がわかったわね?私が知らせようとしたら、出ていくんですもの」
「えっと、タマは、犬なので、鼻が効くんです」
言うと、クンと鼻を鳴らす。
「それより……」
口ごもる、若人タマに、皆は、頚を傾げた。
「タマは、犬形なので、人の形が窮屈で、犬に戻ってもいいですか?上野様?」
指名され、紗奈は、へっ、と、声を挙げた。
「だって、上野様は、犬が苦手だから、また、タマを放り投げたら、たまんないよ」
「いや、あれは、タマというか、犬が、腕のなかに、いたから、つい……」
じゃ、戻らせて、もらいますよ!と、若人タマは言うと、ふっと姿を消した。
「あー、どなたか、タマを拾ってくださーい!」
床では、犬の形をした紙が、ぱたぱたと、揺らいでいた。
「兄様!頼みます!」
「え??な、なんだい、これ!この紙切れ!!」
始めて見た、常春《つねはる》は、目を丸くする。
「これが、タマ、なんですよ。晴康《はるやす》様が、用意したみたいなんですが、よくわからなくて」
「晴康が?」
うん、わかった。と、友の名前を聞いた、常春は、少しせつなげな顔をして、タマである、紙切れを拾い上げ挙げた。
と、わん!と、大きな鳴き声を発して、タマが現れた。
「すみません、犬に、戻る時、しくじる事が多いのですー」
どこか、はずかしそうに、犬に戻ったタマは、常春の腕の中で言った。
「で、タマ?うちの鍾馗、顔がびしょ濡れなんだけど?」
「えっと、橘様、鍾馗様ったら、うーん、と、唸って、お倒れになって。困ったなあと、思って、タマ、起きてもらおうと……」
そこまでいって、タマは、常春の腕にしがみついた。
「いえませんよー」
「言えないって、タマ、お前、言わなきゃ、分からんだろ。それに、なんで、私の袖にしがみつく」
常春に、責められて、だって、と、タマは、さらに、口を閉ざした。
「……タマ、もしかして!」
紗奈は、寝かされている、鍾馗の顔と、母である、橘の顔を交互に見た。
「え?!まさか?紗奈……」
「その、まさかですよ!橘様!!」
とたんに、女二人は、けたけた笑う。
「あー!笑わなくっても!だって、起きないから、仕方ないので、タマ、ちょっと、チョロチョロっと」
きゃー!やだー!と、紗奈も、橘も、腹を抱える勢いで笑い続けている。
解らないのは、常春で、
「あの!どうゆうことですか!」
と、笑い転げる二人に問うた。
「ふふふ!鍾馗!起きなさいな!お前の顔に、タマが、粗相をしたわよ!」
「あー!橘様ったら!いっちゃったー!」
「えーーー!タマが!粗相!!」
常春も、理解したようで、思わず、タマを放り投げた。
そして──、ゴン、という音と共に、タマの、わーんという泣き声が、響き渡った。
「ひどいよ!常春様まで!」
投げられ、床に頭をぶつけたと、タマが大泣きする声に、気を失っていた、鍾馗が反応し、ムクッと起き上がった。