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旗印の下に白耀剣が発ってから太陽が一度沈み、また昇った。舗装された街道を外れ、森の深淵へと続く旧道へと足を踏み入れていく。馬二頭が身体を擦り合わせるようにして、ようやく通れるほどの狭い道幅だ。かつては行商人の往来もあったのだろうが、今は轍も古く風化し、踏み固められた土は白く乾いてひび割れている。だが、その乾きとは裏腹に、肌に触れる空気の質が少しずつ変質していた。 分厚い外套の下で、ラヴィニアは、首筋に冷たいものが這うのを感じた。季節はまだ熱を残している。木漏れ日も眩しい。それなのに、背中を流れる汗が急速に冷えていくような、生理的な悪寒が止まらない。
――静かすぎる。
森であれば当然あるはずの喧騒がない。鳥のさえずりも、草むらで鳴く虫の音も、風が葉を揺らす音さえも。すべてが何かに吸い取られたかのように消滅している。響くのは、硬い蹄が土を叩く音と、騎士たちの呼吸音だけ。その音だけが、不自然なほど大きく世界に響き渡っていた。
「……隊長」
ラヴィニアは馬を寄せ、声を潜めて呼びかけた。
「風向きが、おかしいです」
アルベルトは、前を見据えたまま短く頷く。
「ああ。気づいている」
彼は手綱を僅かに引き、進行速度を緩めた。それに合わせて後続も自然と詰まり、密集する。
その時だった。
キィン、と。
微かだが、鼓膜の奥を刺すような金属音が鳴った。ラヴィニアは自身の腰元を見る。白耀剣の直剣が、鞘の中で独りでに震えていた。それは武者震いなどではない。磁石に引かれる鉄粉のように、見えない力に共鳴しているのだ。
次の瞬間、前方の隊員が上擦った声を上げる。
「盾が――反応しています!」
彼が掲げた円盾。その表面に張られた対魔術用の特殊膜が、波紋を広げていた。雨粒ひとつ落ちていない。物理的な衝撃など、何ひとつ受けていない。それでも膜は絶えず震え、何もない空間から押し寄せる”波”を可視化している。
「全隊、停止!」
アルベルトの鋭い号令が飛ぶ。蹄の音が止むと、森には完全な沈黙が落ちてきた。それは静寂ではなく、真空に近い重圧だった。
ラヴィニアは馬を降り、剣の柄に手をかける。抜かない。だが、親指で鍔を弾き、いつでも刀身を走らせる準備をする。
地面を凝視する。
下草は倒れていない。土に乱れもない。
つまり――物理的な伏兵は、どこにもいない。それなのに、空気が鉛のように重い。水深深くへと沈んでいくような圧迫感が、胸の内側にじわじわと浸食してくる。
「……魔力反応、感知」
後方の隊員が乾いた喉を鳴らした。
「方角は――前……いえ、上空?」
ラヴィニアは反射的に視線を上げた。頭上を覆う木々の梢が、ざわざわと揺れている。
風はない。
揺らされているのだ。
葉と葉の隙間、枝と枝の間にある空間そのものが、歪み、収縮と膨張を繰り返している。まるで、森全体が巨大な肺となって、ゆっくりと呼吸しているかのように。
盾の膜が、淡い燐光を帯びる。剣の刻印が、熱を持って肌を焼く。白耀剣の装備が、この場に満ちる異常な濃度に対し、過剰なまでに誠実に反応していた。
ラヴィニアは、戦慄と共に理解した。これは、攻撃ではない。威嚇ですらない。――ただ、あそこに”在る”だけ。その事実だけで、世界がここまで歪んでいる。
「隊長」
彼女の声は、意識しなければ震えそうだった。
「……まだ、村には入っていません。境界までは距離があるはずです」
「分かっている」
アルベルトの表情は、石像のように硬い。
葡萄色の瞳が、見えない彼方を見据えている。
「だが、我々はすでに踏み込んでいる。彼女の領域の内側に」
その言葉が冷たい風となって、隊の中を走り抜けた。誰かが息を呑み、誰かが革手袋の中で濡れた指を握りしめる。
森が息を止める。侵入者を検分するかのように。そして、次の瞬間。遠くで、枯れ枝が一本、パキリと折れた。乾いた、小さな音。それだけだ。だが、この張り詰めた世界では、それが合図として十分すぎた。
しゃらり。アルベルトが剣を抜いた。露わになった紋様付きの白い刃は、早朝の森の薄暗がりで、自ら発光するかのように冷たく輝いている。
「警戒を維持。進行速度、半分」
命令は努めて冷静だった。しかし、その切っ先は下がらない。自身も剣を構えながら、ラヴィニアは肌で感じ取っていた。
――これは、前触れだ。
あの少女が何か術を行使したわけではない。何もしていないのに、世界がこうなってしまう。その理不尽なまでの影響力こそが、最も危険な兆候であると、白耀剣の全員が骨の髄で理解していた。
森の奥。見えない何かが、じっとこちらを見ている。そこにあるのは敵意ではない。ただ、圧倒的な拒絶。
白耀剣は、再び歩き出す。その一歩一歩が、決して越えてはならぬ一線を踏み越えていると知らぬまま、深淵へと近づいていた。
⬛︎
窓から入り込む風に、ふと指先が冷えた。湿り気が抜け、少しだけ軽くなった空気。それは季節がそっと寝返りを打ったような、どこか寂しい匂いを含んでいる。
ソラスは、明かりも点けずに踊り場に立ち尽くしていた。何もせずとも、石壁は彼女の体温を映すように、淡い光を帯びている。主人の微かな震えさえ、塔は敏感に拾い上げてしまうのだ。
外で、乾いた葉が地面を叩いた。かさり、という爪を立てるような小さな音。その瞬間にソラスの呼吸が止まる。
――来た。
音として届くより早く、胸の奥でぴんと張られていた糸が、誰かに指先で弾かれた。彼女は咄嗟に手すりを掴む。石の冷たさが、じわりと掌に溶け込んでいく。
「……入った」
声にするつもりはなかった。けれど、零れた独り言は風に乗って、塔の奥へと吸い込まれていく。
森の縁。祈りと静寂の境目。
今、そこを異質な足音が踏み越えた。
ソラスは逃げるように瞼を閉じた。見ようとすれば、彼らの心の形まで見えてしまう。感じようとすれば、その歩幅に合わせて自分の鼓動も速くなってしまう。だから、溢れ出しそうな感覚を必死に胸の奥へと押し戻す。
その抵抗に呼応して、塔が深く、低く鳴った。石と石が溜息を吐き出すような、足元から伝わる重い震動。
「だめ……静かにして……」
言葉が階段を駆け上がり、窓辺の埃を優しく舞い上げる。彼女は祈るように両手を石段に沈めた。
――私は、何もしていない。
それなのに、外の森はもうざわめき始めている。葉の擦れ合う音は次第に熱を帯び、まだ青さを残していたはずの葉が、急ぐように色を捨てていく。季節の巡りが、近づく者たちの気配に急かされ、狂わされているのだ。
ソラスは唇を噛んだ。
彼らはまだ、剣を抜いてはいない。尖った殺意も、むせ返るような敵意もない。ただ、ただ真っ直ぐに、職務という名の冷たい水が流れてくるような気配。それが分かるからこそ、いっそ目を逸らしたくなる。
彼女は、縋るように視線を巡らせた。影の溜まる天井の隅。いつも誰かが潜んでいた窓枠のそば。
――いない。
胸の奥が、ひくりと小さな音を立てて痛んだ。いつもならこの沈黙の中、”彼”の気配があったはずなのに。今日はただ、冷たい風が通り過ぎていくばかりだ。
「……まだ、大丈夫だよね」
誰に問いかけるでもなく、彼女はゆっくりと塔の心臓部へと腰を下ろした。一段、また一段。石の重さを確かめるように。
外では、白耀剣の騎士たちが静かに距離を詰めてくる。その足取りが丁寧であればあるほど、ソラスの心は薄く削られ、透明になっていく。
窓からもう一枚、葉が舞い込んできた。それは手のひらに収まるほどの、小さな、鮮やかな山吹色。ソラスはそれを見つめ、細い息を吐く。
――終わりの季節が、すぐそこまで来ている。
それはまだ残酷な姿をしていないけれど、確実に世界の色を塗り替える。彼女は静かに膝を抱え、小さな殻に閉じこもった。今はまだ誰も傷ついていない。誰も泣いていない。けれど、時間は確実に、後戻りできない場所へと向かっているのだ。
尖塔は沈黙を守り、主人の震えを包み込みながら、その接近を静かに受け止めていた。嵐の前の、あまりにも穏やかで、冷え冷えとした静寂の中で。ソラスは黒い石壁にそっと口づけた。