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鐘の音が、世界を揺らした。正午を告げる律儀な響きではない。祈りの時間を知らせる厳かな合図でもない。誰かが激情に任せた警鐘だった。
ライトリム村中央の小さな礼拝堂。その古びた鐘が吐き出す青銅の音色は、水分を失い始めた大気の中へ、不穏な波紋となって吸い込まれていく。
「ああ……」
畑で土を弄っていた老女の手が、ふと止まる。その双眸に宿ったのは、穏やかな諦念などではなかった。
「また、おいでなすったね」
誰がーーと問う必要などなかった。村人たちは一斉に顔を上げる。申し合わせたように、視線が森の奥へと縫い留められる。
そこにはまだ、鳥の影ひとつ見えない。だが、彼らの鼻腔はすでに嗅ぎ取っていた。王都から漂ってくる、鉄と油と、鼻持ちならない統制の匂いを。肌で理解している。胸の奥に熱い澱のようなものが沈んでいく。それは恐怖ではない。自分たちの安寧を脅かす異物への、純粋な嫌悪だ。
「聖女様を……」
誰かの唇から、吐息と共に言葉が漏れる。
「また私たちから遠ざけようというのか」
別の声がさざ波のように重なる。村の中央へ人々が流れ始める。走る者はいないが、その足取りは重く、地面を踏みしめる音には明確な拒絶の意志が混じっていた。
広場の隅では、若い男たちが倉庫の戸を乱暴に開け放っていた。自警団だ。彼らが引っ張り出したのは、手入れされた農具だけではない。錆びを落とした古びた槍、厚手の革で作った胸当て、刃を研ぎ澄ませた鉈。
カチャリ、と硬い音が鳴る。慣れない手つきで装備を整える彼らの目は、獲物を守ろうとする獣のように血走っていた。
「騎士様が来るんだろう?」
男が一人、唾を吐き捨てるように呟く。
「前にも来たじゃないか。偉そうに法を説いて、結局は何もできなかったくせに」
「そうだ。あいつらは奪うだけだ。税も、平穏も、そして聖女様も」
疑心と敵意が、乾いた薪に火がついたように燃え広がる。彼らはソラスに依存していた。彼女がいなければ生きていけないほどに、その奇跡に溺れていた。だからこそ、その源泉を独占しようとする外部の干渉が許せなかった。
――渡さない。
――あの方は、我々のものだ。
その歪んだ独占欲が、”守る”という目的の皮を被って膨れ上がる。
村長が礼拝堂の石段に立った。彼は深く息を吸い込み、肺を満たす緊張した空気を味わう。かつての温厚な顔つきは消え、そこには狂信的な指導者の色が濃く滲んでいた。
「皆」
声は、低く、腹の底に響いた。
「森の向こうから、騎士団が来ている。我らが聖女様を“管理”しようとする、王都の手先だ」
ざわめきが、怒号に近い色を帯びて広がる。
「だが、今回は違う。我々はただ祈って待つだけの子羊ではない」
村長の視線が、遥か頭上、森を見下ろす尖塔へと向けられた。そこへ向ける眼差しだけは、とろけるように甘く、深い。
「我々には聖女様がおられる。そして聖女様には、我々が必要だ」
その宣言に、誰もが深く頷いた。武器を握る手に力がこもる。鍬を構える者、石を拾う者。捧げられる決意は、無垢で、そして身勝手だ。
「お守りするんだ」
「指一本触れさせるものか」
「聖女様は、私たちが守る。……そうすれば、あの方はまた微笑んでくださる」
――見返り。
その言葉だけが、欲望の棘となって空気に混じった。だが、誰もその卑しさに気づかないふりをする。ソラスを守れば、ソラスは自分たちを見捨てない。この甘やかな共犯関係こそが、彼らの正義だった。
ゴォン、と、礼拝堂の鐘がもう一度鳴った。それは明確な合図だ。村人たちは示し合わせたように道の両脇へと分かれ、強固な壁となって整列を始める。それは客人を迎える道ではない。侵入者を阻むための、肉の防壁。
彼らは睨みつける。まだ姿の見えない、森の奥の静寂へ向けて。
⬛︎
鬱蒼とした森を抜けた瞬間、肌を刺す空気が変わった。柔らかい腐葉土の匂いが、乾いた土と日向の匂いへと切り替わる。同時に、白耀剣の騎士たちは、全員が同じ肌感覚で”それ”を理解していた。歓迎されていない、と。
視界が開け、低い屋根の連なりと、収穫を待つ麦畑が広がる。のどかな田園風景であるはずのそこには、異様な緊張が満ちていた。
道の両脇を人垣が埋め尽くしている。前回と同じ光景だが、その中身は決定的に変質していた。
最前列に並ぶ男たちの手には、農具ではないものが握られている。赤錆を落とし、刃を研ぎ直した古びた槍。柄を革で補強した鉈。何人かは、剥ぎ合わせた革の胸当てや、鍋蓋を加工した粗末な盾で身を固めている。
自警団だ。
彼らの視線は、冷たく、重い。怯えや戸惑いは消え失せ、代わりに明確な敵意と、排除の意思だけがそこにあった。値踏みではない。彼らはすでに、騎士たちを排除すべき侵略者と定めていた。
隊の先頭で、アルベルトは手綱を引き、静かに馬を止めた。
「――全隊、停止」
ほとんど抑揚のない、しかしよく通る命令。一糸乱れぬ動きで蹄の音が止み、鎧の擦れる金属音だけが一つに収束して消える。
その直後だった。自警団の男たちが、ジャリ、と示し合わせたように足を踏み鳴らす。威嚇だ。村人の何人かが顔をしかめ、喉を鳴らす。
「……またか」
誰かが、はっきりと呟いた。
「前と同じだな。話をしに来たって顔じゃない」
「武器を持ってるぞ。やっぱり奪いに来たんだ」
囁き声が群れのように広がる。アルベルトは、兜の下から冷徹に視線を走らせた。自警団の装備は貧弱だ。陣形も素人。武器の持ち方も腰が入っていない。白耀剣がその気になれば、瞬きする間に蹴散らして制圧できる。
だが、彼らは一歩も退かない。日に焼けた皺深い顔に宿るのは、狂信に近い光だ。前回、騎士に囲まれた屈辱。尖塔を監視され、土足で生活を踏み荒らされた記憶。それが、恐怖を上回る怒りとなって彼らに武器を取らせていた。
アルベルトは静かに馬を降りた。ブーツが土を踏む乾いた音が、周囲の静寂を際立たせる。それは礼儀でもなければ、交渉のテーブルに着くためでもなく、制圧行動における慈悲なき初動だ。
それを肌で感じ取ったのか、自警団の男たちが一斉に槍を構え直す。切っ先が揺れている。恐怖で震えているのではない。殺意で震えているのだ。彼は表情を変えず、ただゆっくりと、手袋を締め直した。
「聖律騎士団”白耀剣”」
アルベルトの声は、低く、深く、そして石の街の空気を纏っている。喧騒を切り裂くような大きさではない。だが、それは鋼のように場を支配する硬質な響きがあった。
「王都の命により、現時刻をもって、この村および周辺地域を一時的な管轄下に置く」
言葉が質量を持って落ちた。同時に、誰かが舌打ちをした。乾いた音が、静寂に亀裂を入れる。
「一時的、ね」
「前もそう言ったじゃないか」
「俺たちの村だ。王都の好きにはさせない!」
副隊長のラヴィニアは、外套の下で柄に手をかけたまま、わずかに眉を顰めた。彼女の左腕に展開された不可視の防壁――対魔術障壁の膜が、水面のようにさざ波を立てている。
魔法ではない。村人たちが放つ、強烈な拒絶の感情。そのあまりの強度が、対魔装備を誤作動させるほどに空気を歪めているのだ。
「対象は、尖塔に住まう者――個体名、ソラス」
その名が告げられた瞬間。空気が、はっきりと破裂しそうなほど張り詰めた。
「聖女様に、何の用だ!」
自警団のリーダー格らしき男が、声を荒らげた。それは単なる怒りではない。信仰にも似た、大切な光を奪われまいとする必死の咆哮だ。
「前は魔女だの何だの言って、結局何もできなかったくせに」
「帰れ! ここは、あの方が守っている!」
男たちが一歩、足を踏み出す。切っ先の揃わない槍の穂先が、騎士たちの鼻先数メートルのところまで迫る。しかしアルベルトは眉一つ動かさない。その沈黙は、怯みでも譲歩でもなかった。
「本件は、話し合いの場ではない」
冷徹な事実の提示。その一言で、村人の表情が凍りついたように硬直する。
「我々は、対象を”特級異端隔離対象”第一種として指定している」
長く、無機質な単語の羅列。その言葉の法的な意味を、村人全員が理解できたわけではない。だが、それが”ソラスを永遠に連れ去る”ことと同義であることは、誰の耳にも痛いほどに届いた。
「……また、奪うのか」
年配の男が、呻くように言った。握りしめた鉈が震えている。
「税も、麦も……今度は我らの救いまで奪うか」
ラヴィニアは肌が粟立つのを感じた。ここにはもう、王国への信頼など欠片もない。あるのは”聖女”への絶対的な依存と、”騎士”という略奪者への憎悪に近い感情だけ。
「抵抗は推奨しない」
アルベルトは感情を排して淡々と告げる。
「村人に危害を加える意図はない。だが、命令の遂行は最優先事項だ」
――制圧は、決定事項。交渉の余地はないと、はっきりと示された。
「ふざけるなッ!」
自警団の男が、激情に任せて一歩、大きく踏み出した。恐怖を怒りでねじ伏せ、震える手で槍を突き出そうとする。
その瞬間。
ごうッ、と風が吹いた。
それは、森の奥――尖塔の方角から吹き抜けた。夏の名残をすべて削ぎ落としたような、乾いた、そして芯まで凍えるような冷たい風。
キィィィン、と。
白耀剣の装備が、一斉に高周波の共鳴音を上げた。盾の膜が燐光を放ち、剣が鞘の中で低く唸る。魔力ではない。もっと原始的で、圧倒的な”意思”の奔流。自警団の男たちの足が、見えない圧力に縫い止められたように止まった。
ラヴィニアは、背筋に冷たい指で触れられたような感覚を覚え、息を呑んだ。
――聞いている。
――見ている。
姿は見えない。だが、あの高い塔の上から、その視線は確実にここに届いている。村人から視線を外し、アルベルトだけがゆっくりと尖塔を見上げた。遠い空の下、黒煉瓦の塔が墓標のように静かに聳え立っている。
「……進行を再開し、対象を制圧する」
村人に向けた言葉ではない。恐怖に飲まれかけた部下たちへの、実力行使の命令だった。鎧が鳴り、騎士たちは一糸乱れぬ動きで隊形を維持し、ゆっくりと、だが巨大な白い鉄塊となって歩き出す。それは研ぎ澄まされた刃よりも早く、深く、村人たちの心臓に突き刺さった。
「――制圧?」
誰かが、掠れた声で聞き返した。聞き間違いであってほしい。そんな祈りのような問いだった。
「今、制圧って言ったか!?」
「聖女様を、制圧だと?」
ざわめきが波紋のように広がり、やがて爆発的な熱を帯びた。瞬く間に怒号へと塗り替えられる。
「ふざけるな!」
「あの子が何をしたって言うんだ!」
「疫病からも、獣からも、俺たちを守ってくれたのはあの方だぞ!」
罵声が礫となって降り注ぐ。
それに対し白耀剣の反応は冷徹だった。ガシャン、と硬質な音が響く。隊列がわずかに締まり、盾の位置が隙間なく揃う。剣の重心が、いつでも抜ける位置へと落ちる。アルベルトが追撃の言葉を発そうとした、その寸前――副隊長のラヴィニアが、焦燥に駆られたように一歩前へ出た。
「落ち着いてください!」
若く、鈴のような言葉が場を打つ。
「”制圧”とは、討伐や処刑ではありません!」
彼女は必死だった。法を説けば、理屈を話せば、民は理解すると信じていた。だが、その一言は火に油を注ぐ結果にしかならなかった。
「言葉遊びをするな!」
「同じだろ! 奪うことには変わりねえ!」
ラヴィニアは歯を食いしばり、声を張り上げる。
「王国法第四章、異端処遇条項――および、検断法に基づく正式な保護手続きです!」
胸元の銀の徽章を秩序の象徴として示しつつ。
「特級異端隔離対象に指定された場合、対象は排除されるのではなく、国の管理下で――」
「聞きたくないッ!!」
怒号が、理屈を叩き落とした。
「そんな法があるから! あんたらは今まで、何人も守れなかったんだろうが!」
痛烈な叫びに、ラヴィニアの言葉が詰まる。その隙を突くようにして、自警団がにじり寄った。 彼らの顔にあるのは、死をも辞さない覚悟だ。
「もう、話は終わりだ」
年嵩の男が、血走った目で一歩前に出る。
「前回もあんたらは法を盾にした。結果は?」
「……」
「我らの村は疑われ、聖女様は塔に閉じ込められ、ずっと見張られた」
男がその場で地面の土を蹴る。
「法が俺たちを守ったことなんて、一度もねえんだよ」
ラヴィニアは息を呑んだ。それは、騎士としての誇りを根本から否定される言葉だった。それでも彼女は柄に手をかけずに、両手を広げた。
「それでも……ここで剣を抜けば、反逆罪になります!」
「抜いてるのは、そっちだろ!」
誰かが叫んだ。その瞬間、極限の緊張に耐えかねた自警団の若者が、反射的に槍を突き出した。――ほんの数センチの威嚇動作。だが、練度の高い騎士たちにとって、それは十分すぎる”開戦の合図”だった。
「盾、前へ!」
誰かの号令が響く。
「待てッ――!」
ラヴィニアが振り返るも、すでに遅い。複数の金属音が重なり、鋭い殺気が膨れ上がる。盾が壁として押し出され、数名の騎士の剣が鯉口を切り、半分だけ抜かれた。それは攻撃ではない。だが、防御の域を超えた、明確な”殺傷準備”だった。
空気が軋む。村人の誰かが恐怖に後ずさり、別の誰かが足元の石を掴んだ。――次に動いた者が、全てを壊す。鉄灰色の乙女は叫ぼうとした。止める言葉を、命令を、あるいは神への祈りを。
その瞬間。
キィィィィィィン――。
白耀剣全員の装備が、これまで無いほど、鼓膜を裂くような共鳴音を一斉に上げた。
「な……ッ!?」
魔力反応。
それも、桁外れの質量。
方角は、木々の奥。
あの白い尖塔の主――ソラスが、これ以上の争いを許さないと告げる、静かで巨大な威嚇だった。