「ありがとう、ご馳走様」
溝口部長が涼しい顔で立ち上がる。
食堂内は今日も混雑していて、柳田さんたちも忙しそうだ。
三十分という制限時間を設けなければ回せないのも無理はない。
「ごめんね」と、俺も立ち上がる。
「カレー、美味しかったですか?」
さっき美味しいと言ったはずだよな、と思った。
「うん、すごく。こってりし過ぎていなくて、食べやすかった」
「そうですか」
そう言うと、柳田さんが安心したように、嬉しそうに、表情を緩ませた。
それから、ペコッと頭を下げる。
「ありがとうございました。またのご利用をお待ちしています」
三つ編みが揺れた。
二人に遅れて社食を出ると、溝口部長と谷が何やらヒソヒソと話していた。
「じゃ、俺はもど――」
「――まだいいだろ。食後のコーヒー奢ってやるよ」
部長にグイッと肩を掴まれて、なぜか引きずられるように自販機前のミーティングブースに連行された。
谷はコーヒーを買いに行き、俺は部長に押し込まれるように奥の椅子に座らされる。退路を断つように、部長が隣に座った。
「で? いきなり同居って?」
なんとも楽しそうな、部長の顔。
「柳田さんの住んでるアパートが取り壊しになって、ウィークリーマンションに入るっていうから……」
なぜか言い訳っぽくなってしまう。
「まさか、上司命令とか言ったわけじゃないだろうな?」
まるで、言って欲しいような口ぶり。
「言ってませんよ。心配だからとは言ったけど――」
「――だったら、アパートを探してやればすむだろ」
谷が両手で三つのコーヒーを持って来た。
当然だが熱そうにして、テーブルに置く。
「友達も恋人も家に上げないお前が同居なんて、気分は夫婦だな?」
熱さから解放された両手をぷらぷらと振りながら、谷は俺の正面に座る。
「そんなんじゃ――」
「――好きだとは言ったのか?」
「は?」
思わず上司への言葉遣いを忘れた。
「いや、言ってませんよ。言ったら、同居なんて全力で拒まれるじゃないですか」
「なんでだよ。『嬉しい! 私も是枝部長のことが好きなんです』って展開はないのかよ」
可愛い子ぶった口調に、コーヒーを吹き出しそうになる。
「ないですね。自分のことは妹とでも思ってくれって言われましたから」
「兄と妹なんて、ヤバいな」と言って、溝口部長がカップを口に運ぶ。
「激ヤバだな」と言って、谷もコーヒーを飲む。
「なにがヤバいんですか。つーか、兄でも妹でもないし」
「そういうのが流行りらしいぞ?」
「流行り?」
「そ。親が再婚して、苦手だった上司が義理の兄になり、一緒に暮らすうちに……って展開とか」
「なんですか、それ」
「知らねーよ。うちの奥さんが、そんな小説を読んでた。ちなみに、その上司ってのは実は御曹司だったりするんだよ」
「あきらもそんなようなの読んでましたね」と、谷が頷く。
「いや、全然意味がわかんないんだけど」
「とにかく、だ! どうせ同居に持ち込んだんなら、押しまくれ!」
「そうだ! 押し倒せ!」
「いや、他人事だと思って……」
「バッカだなぁ。同居って時点でとっくにやらかしてんだよ。だったら、なし崩しでも泣き落としでもいいからモノにしろ。そしたら、全部チャラだ」
「なにがですか」
「上司権限で同居させてることだよ。付き合っちまえば、同棲だ。コンプラ違反にはならない」
要するに、そこか。
「……ってかさ、是枝。仕事ではムカつくほど完璧な上に運にも恵まれてるのに、どんな女に告られても全く興味を示さなかったお前が、自分から一緒に暮らそうとする女なんて、この先出会えると思うか!? 俺は、ないと思うね。だから! やなちゃんを逃がすな!!」
「やなちゃん?」
「食堂でそう呼ばれてたろ」
「へぇ、やなちゃん」と、溝口部長が楽しそうに言った。
ビシッと人差し指を俺に向ける。
「是枝。これは似た状況で女を堕としたことがある経験者としてのアドバイスだ。めちゃくちゃなことも尤もらしく言って、押し倒せ。その後のことは、その後に考えろ」
「溝口部長、めちゃくちゃなことを尤もらしく言って彩さんを押し倒したんですか?」
谷が興味津々に身を乗り出して聞く。
つられて俺も身体を傾け、部長との距離を縮める。
「俺はめちゃくちゃなことを尤もらしく言って彩の弱みに付け込んで、押し倒した」
自慢気な部長に、谷も俺も身体を引いた。
「うわ、下衆」
「最低」
「なんで彩さん、堕ちちゃったんですか」
上司であることを忘れて、散々な言い用。
けれど、部長はそんなことは気にする様子もなく、笑った。
「本気で欲しかったら、形振り構ってられないってことだろ」
言ってることもやってることも、決して褒められたことじゃないのに、なぜか格好よく見えるんだから不思議だ。
「是枝。堕とし方なんて法に触れてなきゃ何でもありだ。お互いにいい大人なんだから、最終的には自分の決断だろ」
「ま、確かにな。離れられなくしちまえば、勝ちだな」
「俺より谷の方がよっぽど下衆っぽいよな」
「一緒にしないでくださいよ!」
まったく、他人事だと思って言いたい放題……。
ちょうど良く冷めたコーヒーを喉に流し込み、ほうっと肩の力を抜く。
「ま、あれだ。勘違いされないようにだけ、気をつけろ」
「勘違い?」
「真面目そうな子だからな。一緒に暮らしていて恋愛関係になったのなら、当然結婚するもんだなんて思われる可能性だってあるだろ」
「確かに」と、谷が頷く。
「結婚……」
柳田さんへの感情にも戸惑っている現状で、結婚という二文字がやけに縁遠い、馴染みのない言葉に聞こえた。
「結婚」
だが、こうして口に出してみて、思った。
結婚なんて……。
溝口部長がフッと笑う。
「是枝は、あれこれ考えるより、ヤルことヤッてデキ婚とかの方がいいのかもな」
穏やかな表情に似合わない過激なことを言って、部長がカップを空にした。
「失くしてから取り戻すのは、堕とすより難しいぞ。じゃ、先行くわ」
「あ、コーヒーご馳走様でした」
「おう。頑張れよ」
紙コップのコーヒーよりも、ビールを飲みながらの方が似つかわしい話題もものともせず、部長は背筋を伸ばして仕事に戻って行った。
「部長が釧路に行く時、奥さんと別れたんだって」
「え?」
谷が前屈みになって、小声で言った。
「千堂課長のお膳立てて彩さんが釧路に出張に行って、よりを戻したって」
「へぇ……」
「その後も結婚までは色々あったらしいけど、だからこそ、今は彩さんのことめちゃくちゃ大事にしてるし、幸せなんだろうな」
失くしてから取り戻すのは大変だ、とは経験者としての言葉だろうか。
午後一で人事部から雇用条件等確認書を受け取り、谷に渡した。
中村部長に事情を話したら、俺に一任すると言ってくれた。
もちろん、最終的には人事部長と総務部長の面接があるのだが、総務部長に関してはお飾りだ。
つまり、谷の奥さんの返事一つ。
その旨も、谷には伝えた。
そして、肝心の奥さんからの返事は、その夜に届いた。
「社食を見てみたいってことなんだけど」
ちょうど、食事を終えたばかりで、柳田さんはキッチンにいた。
今日の晩御飯は、社食の和定食メニューが盛りだくさんだった。
なぜかはわからないが、今日はカレーやうどん、そばなどが多く売れ、定食が残ったという。
残り物、といえば聞こえは悪いが、品数は多いしどれも美味い。
申し訳なさそうな柳田さんにそれを伝えると、「美味しさには自信があります!」と箸をぎゅっと握って言った。
それから、「明日の朝ご飯はパンにしましょうか」とも。
「そうですね。職場を見ていただいてからの判断でいいと思います」
「都合のいい時間とかある?」
「いえ。いつでも構いません。九時以降は準備に入っていますので、そこからでも構いませんし、忙しい時間帯の様子を見ていただくのでも構いません。特に連絡も必要ありません。お名前を伺っておりますので、私が責任をもって対応させていただきます」
眼鏡の奥の彼女の瞳が、きらりと光る。
社食から清掃に移りたいと言っているのは、五十代半ばの女性で、近々娘さんが出産するから、二週間の有休の後は、旦那さんのいない昼間は世話をしたいらしい。
清掃業務の方でも事情を考慮して、その人を長時間拘束することのないようにシフトを組むらしい。
「じゃ、そう伝えておくよ」
谷に柳田さんの意向を送ると、眉の太い猫が親指を立てて『了解!』と言っているスタンプが送られてきた。
俺はソファの背に肘を立て、頬杖をついてキッチンを眺めた。
柳田さんは食器を洗っている。
同居を始めて四日だが、俺的には驚くほど彼女との暮らしに馴染んでいた。
食事以外の時間を共有することはないが、煩わしく思うこともなく、気まずさもない。
それは、彼女が俺にそう思わせないように気を遣ってくれているからだと思う。
朝は俺が起きると彼女は身支度を済ませてキッチンに立っていて、温かい食事が食べられる。
夜は俺が風呂を済ませるのを待つ。
柳田さんの部屋は俺の部屋より風呂に近いから、風呂上がりの姿すら見たことがない。
風呂上がりに軽く一杯でも、なんて距離を縮める作戦を練っていた俺だが、それは初日に断られていた。
というわけで、一緒に暮らしていても、俺は彼女のパジャマ姿もスッピンも、三つ編みを解いた姿も見たことがない。
これでは、本当に家政婦を雇っただけ。
溝口部長と谷の言葉を真に受けるわけではないが、何かアクションを起こさなければ、とは思う。
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