テラーノベル
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橘靖竜
#切ない
#長編
オン・カンの不安は、現実のものとなった。
父は逃げたのではなかった。
退きながら、待っていたのだ。
ケレイトの本営を探り当てると、
父は夜陰にまぎれてこれを急襲した。
炎が上がり、馬が嘶き、
眠っていた大国は混乱の中で目を覚ました。
そして父は、そのまま三日三晩、本営を包囲した。
草原最強と呼ばれたケレイト族は、ついに膝を折った。
オン・カンとセングンは辛くも逃れた。
だが、もはや彼らに帰る場所はなかった。
オン・カンは国境で、名もなき兵に討たれた。
かつて草原に号令した王の最期にしては、
あまりにも寂しい死だった。
セングンもまた、逃げ延びた先で略奪を行い、
住民の恨みを買って殺された。
父を討とうとした者たちは、父の手ではなく、
草原そのものに裁かれたのだ。
そしてジャムカ。
最後に残された彼は、ナイマン族のタヤン・カンと結び、
最後の抵抗を試みた。
だが、タヤン・カンは戦死。
敗走したジャムカのもとに、
もはや草原を覆す力は残されていなかった。
そして最後には――
彼に従っていた五人の部下までもが、彼を裏切った。
彼らは縄で縛ったジャムカを父のもとへ連れてきた。
「大ハーンへの忠義にございます」
そう言って頭を垂れる。
だが父の目は、氷のように冷えていた。
「……主を売る者を、誰が信用する」
五人はその場で処刑された。
静まり返る天幕。
その中央に、
縄を解かれたジャムカが立っていた。
かつて父と草原を駆けた男。
父が“兄弟”と呼んだ男だった。
二人はしばらく何も言わなかった。
風の音だけが、天幕を揺らしていた。
やがてジャムカが口を開く。
「兄弟――」
かすれた声だった。
「かつてのように、俺に力を貸してくれないだろうか」
父は答えなかった。
ただ静かに、その顔を見つめていた。
「……それはできない」
ジャムカは小さく笑った。
諦めていたのだと思う。
いや、
最初から答えなどわかっていたのかもしれない。
「お前の軍門には下れない」
父は目を閉じる。
ジャムカは続けた。
「俺の願いは一つだ」
「血を流さずに殺してくれ」
「死後、我が魂は、お前の子孫たちを末永く護ることになるだろう」
長い沈黙が落ちた。
焚火の音だけが響く。
父はゆっくりとうなずいた。
「……そうか」
その声は、
世界を手に入れた男のものとは思えぬほど、
静かだった。
春の風が、草原を渡っていた。
果ての見えぬ大地に、無数の天幕が並ぶ。
モンゴリア。
ケレイト。
ジャライル。
ウリャンカイ。
かつて互いに奪い合い、殺し合ってきた部族たちが、
いま、一つの場所に集っていた。
オルン川上流――
フフ・フールに近い河源の地。
そこで、巨大なクリルタイが開かれようとしていた。
朝日が昇る。
空はどこまでも青かった。
人々はざわめきながら、一人の男を待っていた。
やがて遠くから馬蹄の音が響く。
誰かが叫んだ。
「テムジンだ――!」
草原の視線が、一斉にそちらへ向いた。
父はゆっくりと現れた。
飾り立てた王ではない。
いつもの毛皮の衣。
戦場を駆けてきた男の顔だった。
だが、その背に漂うものだけが違っていた。
敗者の時代を終わらせた者だけが持つ、
静かな威圧。
人々は自然と道を開けた。
ムカリ。
ボオルチュ。
ジュベ。
スブタイ。
かつて父と共に泥をすすった者たちが、その後ろに並ぶ。
その中央で、
九脚の白いトゥクが立てられた。
白いヤク尾が風に揺れる。
一本。
また一本。
そして九本。
それはもはや、一部族の旗ではなかった。
草原そのものの旗だった。
古老が進み出る。
しわがれた声が、静かに響いた。
「今日より――」
「諸部族は一つとなる」
「テムジンを、全部族のカーンとして推戴する」
ざわめきが広がる。
誰も異を唱えなかった。
もう理解していたのだ。
この男に逆らう時代は終わったと。
いや――
この男が、草原そのものになったのだと。
父はしばらく黙っていた。
風が吹く。
白いトゥクが揺れる。
やがて父はゆっくりと前へ進み、
空を見上げた。
青かった。
どこまでも。
父は低く言った。
「我らは争い続けてきた」
「奪い、殺し、裏切り、憎み合ってきた」
静寂。
誰一人、声を発さない。
「だが今日より」
「草原は一つとなる」
その言葉が、
風に乗って草原へ広がっていく。
古老は高らかに宣言した。
「ジンギス・カーン――!」
その瞬間、
無数の戦士たちが、一斉に声を上げた。
地鳴りのような歓声だった。
空を震わせ、
大地を揺らし、
オルン川の流れさえ飲み込むほどの咆哮。
その日、
草原は終わった。
そして世界が始まった。
私は父を見上げていた。
ジンギス・カーン。
歴史上、誰一人として成し得なかった、
草原部族の統一を果たした男。
かつて追われる側だった父は、
今や草原すべての頂点に立っていた。
歓声が響いている。
白いトゥクが風に揺れる。
誰もが父を見ていた。
だが私は、
別の光景を思い出していた。
――あの夜。
バルジュチ湖のほとり。
敗残兵にも満たぬ人数で、
草の上に倒れ込みながら、
父が夜空を見上げていた時のことを。
「星がきれいだ」
父はぽつりと呟いた。
「この空がどこまでも続くように」
「大地もどこまでも続くのであろうな」
焚火の火が、
父の横顔を赤く照らしていた。
私は黙って聞いていた。
父は笑う。
少年のような顔だった。
「ジュチ――」
「どこまでも駆けてみるか」
あの時の父は、
すべてを失っていた。
部族も、
土地も、
誇りも。
明日、生きている保証さえなかった。
それなのに。
まるで世界の果てを見てきた男のように、
父は未来を語った。
幾たび敗れても。
裏切られても。
見捨てられても。
父だけは、
一度も“終わり”を信じていなかった。
そして気づけば、
父の口にした言葉は、
すべて現実となっていた。
草原は統一された。
敵は膝を屈した。
白いトゥクは天へ掲げられ、
無数の部族が父の名を叫んでいる。
私は歓声の中で、
ただ父を見つめていた。
――この人は、
本当に世界の果てまで行くのかもしれない。
そう思った。
ジンギス・カーンは、
草原をただ“支配”したのではない。
草原そのものを作り変えた。
帝国の中央には、
カーン直営の領民集団が置かれた。
その左右――
帝国の両翼を支えるのは、
高原統一の功臣たちだった。
左翼にはムカリ。
右翼にはボオルチュ。
父が最も苦しかった時代から従い続けた、
草原最強の両腕。
さらに東方には、
父の弟たち――
ジョチ・カサル、
カチウン、
テムゲ・オッチギン。
西方には、
父の息子たち――
ジョチ、
チャガタイ、
オゴデイ。
広大な遊牧領民集団が、それぞれに分け与えられた。
それは褒美であると同時に、
帝国そのものだった。
人々は歓喜した。
草原に平和が訪れたのだと。
長く続いた部族同士の争いが終わったのだと。
だが私は、
父の目を見て理解していた。
父は終わったとは思っていない。
むしろ――
始まったのだ。
帝国は巨大だった。
あまりにも巨大すぎた。
草原だけでは支えきれぬほどに。
無数の馬。
増え続ける民。
戦いによって結びついた諸部族。
彼らを養うには、
さらに多くの土地と富が必要だった。
止まれば、
帝国は内側から食い潰される。
だから父は進むしかなかった。
東へ。
西へ。
果てのない空の向こうへ。
新しく生まれた帝国は、
その瞬間から、
侵略を運命づけられていた。
そして父は、
まるで最初から知っていたかのように、
静かに世界を見ていた。
第一部 完
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