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「私は……カーンの座が欲しくて言うておるのではない」
チャガタイは低く吐き捨てた。
焚火の火が揺れる。
その横顔は怒っているようにも、
泣いているようにも見えた。
「父上は優しすぎる」
「だから、あの者はそこにつけ込む」
誰の名も口にしなかった。
だが、この場にいる誰もが理解していた。
――ジュチのことだ。
「あのメルキトの子が」
その言葉だけで、
空気が張りつめる。
「父からすべてを奪おうとしておる」
拳が震えていた。
憎しみだけではない。
長年胸に積もった、
どうしようもない痛みが滲んでいた。
「……あの者がおらねば」
チャガタイは唇を噛む。
「父は他部族に侮られることもなかった」
「母上も……」
そこで言葉が詰まった。
炎の音だけが響く。
「母上も、あのような悲しみを背負って生きることはなかったのだ」
ボルテ。
メルキトに奪われ、
戻ったあとも、
草原中から陰口を叩かれ続けた母。
そしてその象徴のように扱われた長男ジュチ。
チャガタイにとって、
それは“家の傷”そのものだった。
「誰が何と言おうと」
彼は顔を上げた。
その目には決意が宿っていた。
「あの者にだけは」
「カーンの座をくれてやるわけにはいかぬ」
「例え刺し違えてでも」
草原の統一の後――
父はついに、
本格的なチャイ王朝攻略へ乗り出した。
その軍勢は、
もはや一部族の軍ではなかった。
ケレイト、
ナイマン、
モンゴル諸部族を従えた、
草原そのものの軍勢だった。
私は西部軍として、
チャガタイ、オゴタイと共に出陣した。
だが――
軍議の空気は、
戦より重かった。
「そこは迂回すべきだ」
私が地図を指す。
「敵は城壁に頼っておる。補給路を断てばよい」
だがチャガタイは鼻で笑った。
「臆病者の策だな」
天幕の空気が冷える。
「正面から叩き潰せば済む話」
「無駄な損害を出す意味がない」
「損害を恐れるなら草原へ帰れ」
その瞬間、
周囲の将たちが一斉に視線を伏せた。
また始まった――
誰もがそう思っていた。
私はゆっくり立ち上がる。
「我が命は父の命である」
声を抑えた。
抑えねば、
怒鳴り合いになるとわかっていたからだ。
「大ハーンの命に背くなら、処罰する」
チャガタイの目が鋭くなる。
「ほう」
「私を裁くと申すか」
腰の刀へ手がかかった。
周囲の空気が張り詰める。
その時だった。
「まあ待て、二人とも」
オゴタイが割って入った。
酒杯を片手に、
困ったように笑っている。
「敵はチャイ王朝だぞ」
「身内で戦を始めてどうする」
諸将たちは、
ようやく息を吐いた。
スプタイは額を押さえ、
呆れたように天幕の外を見る。
“またか”
そんな顔だった。
父が築いた帝国は、
あまりにも巨大だった。
そして――
その中心には、
すでに消えぬ亀裂が走っていた。
チャガタイは、
私から見ると、
草原の武人そのものだった。
誇り高く、
苛烈で、
掟に厳しい。
その姿は、
どこかジャムカ叔父に似ていた。
父が人を束ね、
草原を変えようとした男なら、
チャガタイは、
草原そのものを守ろうとする男だったのかもしれない。
掟に対しては誰より厳格だった。
略奪の分配。
命令系統。
捕虜の扱い。
軍規を破った者には、
身分に関係なく罰を与えた。
諸将の信頼も厚かった。
……だが。
こと私に対してだけは、
露骨な敵意を隠そうとしなかった。
軍議でも、
狩りでも、
酒宴でも。
必ずどこかで衝突した。
父の前ですら、
それを隠そうとはしなかった。
私は次第に、
疲れ果てていった。
ある夜、
私は天幕の外で、
黙って酒を飲んでいた。
遠くで馬が鳴いている。
草原の夜風は冷たかった。
そこへ、
スプタイがやってきた。
「またチャガタイ殿ですか」
苦笑しながら、
私の隣へ座る。
「……わかるか」
「顔に書いてあります」
私は酒をあおった。
「私は争いたいわけではない」
「だがあいつは、
会えば必ず噛みついてくる」
「まるで私が存在していること自体が
気に入らぬようだ」
しばらく沈黙が続いた。
やがてスプタイは、
静かに口を開く。
「時が解決してくれるのを待ちましょう」
その声は穏やかだった。
「人の心は、
どうにもなりませぬ」
私は思わず笑った。
「スプタイらしくもない言葉だな」
「私も歳を取ったということでしょうか」
スプタイは肩をすくめる。
だがその横顔は、
どこか沈んで見えた。
たぶん彼も、
気づいていたのだ。
この争いは、
いつか帝国そのものを裂く――と。
父は、チャイ王朝への侵攻を終えると、
矢を西へ放った。
ジュベには、ナイマンの残党を追わせた。
スプタイには、メルキトの残党を追わせた。
二人は遠く西へ進み、
やがてオラズムの国境で合流する手はずであった。
そして父は、私のもとへ一人の男を遣わした。
ボロクル。
かつて戦場で重傷を負ったオゴタイを救い、
父が家族同然に信じた功臣である。
なぜ、その男を私につけたのか。
最初、私はそれを、
父の配慮だと思った。
チャガタイとの不和に心を痛め、
私のそばに、信じられる者を置いてくれたのだと。
逃げ込んだ先は、オラズム領。
そして私は、
その討伐の総大将を命じられた。
その時だけは、
草原が私を拒んでいないような気がした。
父はまだ、
私を長男として見てくれている。
そう、信じた。
オラズムの王、
アラーウッディーン・ムハンマドは、
父が来なかったことを好機と見た。
現れたのが、
その息子である私だったからだ。
草原を震わせたジンギス・カーンではない。
若く、
兄弟不和を抱える長男。
崩せると考えたのだろう。
両軍は、カラ・クレの地で対峙した。
我が軍は、
中央を私が率い、
左右をジュベとスプタイが固める。
対するオラズム軍もまた、
大きく翼を広げるように陣を敷いた。
まるで巨大な鳥が、
草原を覆うかのようだった。
私は使者を送った。
「我らの目的は、オラズムに逃げ込んだ草原部族の残党のみ」
「そちらと戦う意思はない」
だが――
向こうは、そうは受け取らなかった。
次の瞬間、
空が黒く染まった。
無数の矢。
それは真っ直ぐ、
チャガタイの陣へ降り注いだ。
戦が始まった。
「チャガタイに伝えよ」
「両翼が整うまで引け、と」
私は即座に命じた。
ここへ至るまでの長駆で、
ジュベの軍も、スプタイの軍も疲弊していた。
正面から激突する形は避けたかった。
だが――
チャガタイは命令を無視した。
中央の敵陣へ向け、
そのまま突撃したのである。
「坊ちゃん」
ボロクルが低く言う。
「……わかっている」
私は奥歯を噛んだ。
「罠だ」
敵中央が、
あまりにも脆すぎた。
「右翼に王子軍がおります」
「誰か!」
「チャガタイに、今一度退けと伝えよ!」
だが遅かった。
オラズム王子、
ジャラールッディーン・メングベルディー の右翼軍が、
突如として方向を変えた。
まるで獲物に飛びかかる狼のように、
チャガタイ軍の側面へ襲いかかる。
「いけませんな」
ボロクルは、まるで昔から何度も見てきた光景のように呟いた。
そして静かに馬首を巡らせる。
「救援に参ります」
その声に、
焦りはなかった。
「坊ちゃん、引きなせえ」
ボロクルが馬を寄せながら叫ぶ。
「右翼が反転してきました」
「退路を失う前に、早く!」
だがチャガタイは、敵陣を見据えたまま答えた。
「馬鹿を申すな」
「この中軍の脆さよ」
敵中央は崩れかけていた。
その奥。
砂煙の向こうに、
豪奢な軍旗が見える。
「あれに見えるは――」
私は目を細めた。
「オラズムの王ではないか」
アラーウッディーン・ムハンマド 。
草原の西方に君臨する大国の王。
「ボラクル、ともにあの首を貰いに行こうぞ」
その瞬間だった。
背後から伝令が駆け込む。
「左翼敵軍、反転!」
「こちらへ向かっております!」
ボロクルは舌打ちした。
やはり来た。
敵は中央を餌に、
こちらを深く誘い込んでいたのだ。
「誰かある!」
ボロクルは即座に命じた。
「チャガタイ殿をお守りしろ!」
「全軍、引くぞ!」
軍が反転を始める。
その間にも、
左右からオラズム軍が迫ってくるのが見えた。
辛うじて、
包囲が閉じる前だった。
やがて、チャガタイ軍が無事離脱したとの報せが届く。
私はようやく息を吐いた。
だが――
次に届いた報せは、
それより遥かに重かった。
ボロクル戦死。
その言葉に、
私は隣のオゴタイと顔を見合わせた。
オゴタイの顔から血の気が引いていく。
かつて戦場で命を救われた恩人だった。
「……父上には、なんと」
掠れた声で、オゴタイが言う。
私はしばらく答えられなかった。
必要のない戦闘。
兄弟喧嘩の果ての命令無視で
父の功臣を死なせてしまった
草原創世以来の功臣。
父の家族同然の男。
その死を、
誰が告げるのか。
やがて私は、静かに口を開いた。
「私から報告する」
私はうなだれるしかなかった
橘靖竜
#切ない
#長編
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