地下格闘場の瓦礫を蔓が押し上げ
破壊された通路を伝って
地上へと現れた時也の姿は
まるで
修羅場から抜け出してきたとは
思えないほどに、静かで品があった。
その身に纏う着物の裾には
煤がわずかに付き
袖の一部が裂けてはいたが
それすらも
一幅の絵のように見せるほどに
彼は〝整って〟いた。
群がる野次馬達は
破裂音と振動に駆けつけた地元民か
あるいは元観客か──
ごった返す通りの先で
瓦礫を吹き飛ばしながら
地上に抜けたその男を見て
誰もが一斉に息を呑んだ。
「⋯⋯な、何だ⋯⋯!?今の地響き!?」
「お、おい、あれ見ろ⋯⋯あの服⋯⋯
あいつ、さっきの会場の中にいた⋯⋯」
「どうやって⋯どうやって無傷で⋯⋯?」
ざわめきが広がる中
時也は一つ、扇子を袖から取り出した。
紅に染めた竹骨に、薄桃色の絹が貼られた
季節外れの〝桜〟の意匠。
その扇子をゆるりと広げ
まるで品のある貴族のように
首筋に風を送る。
火照った肌に風が滑り
ふわりと髪が揺れた。
そして。
「皆様、どうか⋯もっとお下がりください」
時也の声は、決して大きくはなかった。
だがその瞬間──
空気の流れが⋯⋯変わった。
何も起きていない。
ただ、彼が言葉を発した、それだけ。
それなのに
周囲にいた全ての人間が
本能的に感じ取った。
ーそれ以上近付けば、死ぬ⋯⋯とー
柔らかく、静かに響く声。
その奥に潜む
禍々しさすら含んだ静けさ。
怒ってもいない。
威嚇してもいない。
だというのに
誰もが〝そこにいるべきではない〟と
理解した。
「ひっ⋯⋯」
「⋯⋯あ、あぁ⋯⋯」
一人、また一人と
足を引き摺るように後退する。
誰かがぶつかって転び
別の誰かが押されて走り出す。
やがて
押し合いへと変わり
軽いパニックが街路に広がった。
その中央
時也はただ
微笑みのまま、扇子を優雅に畳んだ。
夜風が、彼の袖を揺らす。
「⋯⋯これで、準備は整いました。
あとは⋯⋯
貴方が存分に破壊してくだされば」
彼の瞳が
静かに揺らいだ地下の空間へと向けられる。
そこにはまだ、もう一人の修羅が在った。
暴れ足りない獣の気配が
真っ直ぐに、地上に届いていた。
静まり返った空気の中。
野次馬たちが半ば逃げるように離れ
時也が一人
崩壊の気配を
見下ろすように立っていたその刹那だった。
「──ッ」
突如として、地面が〝沈む〟音が響いた。
それは
爆発でも、崩落でもなく。
まるで大地が〝喰われる〟ような
異質な沈降音。
時也の足元のすぐ先──
舗装された路面に深く
太い亀裂が走る。
瞬間
轟音と共にその一帯が崩れ落ちた。
街の倉庫区画。
闇に溶け込むように
立ち並んでいた鉄骨の建物が
重力に引かれるまま、奈落へと沈んでいく。
「⋯⋯っ!」
その光景に、周囲の者達が絶句した。
天を衝くように
地の底から生え出るものがあった。
鉄筋を突き破り
コンクリートを喰い破って現れたのは
大樹──
時也の植物操作によって
支柱を侵食し続けた根が
ついに地上へと突き抜けた姿。
幹は太く、艶のある黒い樹皮に包まれ
枝葉は裂けた空に拡がるように
四方八方へと伸びていく。
その姿は
破壊の象徴であると同時に
一つの〝創世〟のような
荘厳さを纏っていた。
そして。
その枝の一つが
大きくうねりながら空を切り裂き
まるで見せつけるように
時也の前方へとせり上がってくる。
その枝に、何かがぶら下がっていた。
「⋯⋯⋯」
枝を掴み
瓦礫と土埃に塗れた身体を引き上げながら
そこにいたのは──
ソーレン。
重力の操作によって
自身を護る障壁を
瓦礫の嵐から維持したまま
蔓のように伸びた大樹の枝に捕まり
悠々と、だが確実に
地上へと這い上がってきていた。
髪に土がつき、肩に傷を負いながらも
その目は獣のように鋭く
まだどこか火照っている。
やがて
足が地面を掴み
着地の衝撃に膝を沈める。
重力が解かれ
空気がほんの僅か、震えた。
その姿を、時也は静かに見つめていた。
一切の驚きもなく。
まるで
それが当然の結末であったかのように。
そして
扇子を閉じ、ゆるりと片手を上げて微笑む。
「⋯⋯お帰りなさい。お疲れ様でした」
その声音は
地下で死線を共に潜り抜けてきた男に
向けたものではなく
日常の帰宅者に向けるような
何気ない、けれど深く通じ合った挨拶。
ソーレンは鼻を鳴らし、額の汗を拭う。
「⋯⋯ふぅ。
ちったぁ気持ち良く暴れられたよ」
そう言って背を伸ばすその姿を
大樹の枝葉がまるで労うように
風に揺れていた。
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艶やかな闇に微笑みを湛え、哀れな報告者を静かに追い詰める。 許しも哀れみもない。ただ、冷たく、優雅に運命を告げる。 ──今夜、彼を覚えている者は誰もいない。