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鼓膜が揺れた。
意識の遠くから重く唸るような音が届いた。それが近づいては遠のく、この繰り返しで波の音だとようやく気がついた。
そこからカッとなる暑さで痛む肌の刺激を感じて、目を開かずとも自分が浜辺にいることに気がついた。
私……そう。私は”私”と自分の事を呼んでいたことを思い出した。
私は……裸だった。浜辺でこんな恥ずかしい姿で居たから、肌も少し赤くなっているんだということに気がついた。
ここが何処かなんて関係ない。それ以前に、私が私である何かが何もない。
私は……女で……それは柔らかな肌の沈み方ですぐに分かる。身体的にも、精神的にも、そうである。としか言いようがなかった。
じゃ、私は何者なのか、私が私と証明出来るものはなんであるか。と言われれば、何も言えない。
それはきっと何も思い出せないから、私だった記憶が欠けているからなんだ……と否応なく知らしめているからだ。
目に映ったのは嫌というほど澄み渡る青空と、目を殺すほどの眩い太陽だった。その眩さは深く濃い青の水平線に散りばめられて、煌めきを放っていた。
我ながら、こんな事になっているのに詩的なことを考えているのは、そういった言葉に触れるのが趣向としてあったのか、はたまた何もないからこそ純粋な目で見ているのか……いや、どれも違う。
きっと、空虚だから自分自身を冷静に見てしまっているんだということに気がついた。
あぁ、私はこんなしゃべりかたなんだ。
少しづつ、わかってきた。
それよりも、誰もいない事だけはわかったし、こんな格好だから、それだけはちょっとだけよかった。
何となく、誰もいないこの浜辺を、海岸線を歩くことにした。
すぐそこに木漏れ日のない森があって、そっちを歩くのが怖かったし、何より、帰りたいって思った。
帰り道なんてわかんないけど、だって、怖いじゃん。何もわかんないのが、怖いよ。怖いから逃げ出したい、早くここから抜け出したいって思うの、私だけじゃない。……きっと。
太陽の眩しさで熱くなってたり、砂で沈む感覚が足に伝わる。裸足だからなのか、これが歩くということなのか、とても歩きづらかった。
分からないことが沢山ある。その言葉だけがずっと頭で乱反射して痛いけど、汗でベタつく肌の感じから、気が動転してるだけじゃなくて、暑さにやられてる感じなんだろうな。
ここまで歩いて思ったけど、あんまり進んでないし、怖いという気持ちがありつつも冷静だなって自分でも思う。
けど、歩き続けるしかない。
分からないまま進むって怖いんだな。
どれくらい歩いただろう。もうわかんないや。
わかるのは私が犬みたいに浅く息をしてるのと、膝関節が抜けてるみたいな感覚と、空が夕闇を帯びてきていることくらいで、何も変わんないこと。
何も変わんないのかもちゃんとは分かってない。だって、目が霞んできてるってことしか分からないから。汗が止まって逆に気持ち悪いくらいだし、話し相手が私自身しかいないところとか、すごく笑える。
なんか、疲れた。やっぱ笑えないかもね、私はここまでなんだ……きっと。
意味もなくここにいて、時間だけが止まることを知らなくて、体はそれに奪われていく。きっと人生ってこういうことなんだなって神様が教えてくれてるんだよ。
寂しいなぁ、怖いなぁ、私の声なんて、気持ちなんてどこにも届かずに消えてしまうのは。
なのに私の体は心から切り離されたように歩き続ける。まるで、それが私の求めてる事のようにね。
もういいじゃん、終わりにしようよ。なんて思っても、動くことをやめない。
私は、なんで歩いてるんだろう?もうわかんないよ……。
なんか軽い音が聞こえるし……って思ったけど、これは幻聴なのか?もう少しじっくり聞いてみようかなって思って聞き耳を立てる。
さざ波の重く鼓膜を揺らすような音とは違う微かな軽い音、まるで水が流れるような音が聞こえた気がする。
まぶたを擦って、よく目を凝らして遠くを見つめてみると海岸線の終わりが見えた。
多分、いや、よくわかんないけど、川かも知れない。ここから見えるんだから、きっと大きな川かもしれない。目が冴えわたるような気がして、私はとにかく、足に羽が生えたように走った。
喉を引き裂くように荒く息をして、肘を子供が調子に乗って揺らしたブランコみたいに振って、ただ走った。
そしたらあっという間に辿り着いたし、案の定、いや、想定外の大河が海と交わっていた。
やっぱり嘘じゃなかった。
あと、やっぱり私は何事も詩的に、大袈裟に、感じるんだなって思った。
だけど、こんなことに気づかなかった自分自身に気づいて呆れた。
下を見たら断崖絶壁どころの話じゃない。流れに削られて反り返ってるし、振り返ると急な上り坂だったし、何を浮かれたらこんなことになるのかよく分からない。興奮でどうにかなってた。
だけどまぁ、川沿いを歩けばなんとかなる。
そう思って一歩を踏み出すと、軽い痛覚が足裏から脳へ伝播してきた。何かに刺さったような痛み、というか小石やらなにやらで血が滲んでいた。
それでも我慢すれば、崖の終わりには着く。と思って、もう一歩踏み出そうとした時だった。
変な匂いがした。なんというか、油の腐ったような匂いだと思う。
昔、誰かが何日もお風呂に入り損ねた時の匂いに何だか似ている気がする。
誰ってなんだろう。とにかく嗅いだことのある匂い。でも待ってほしい、少なくとも人から臭った匂いなのはわかったんだから、この匂いはもしかして……いや、やっぱり鼻がおかしくなっていたのかもしれない。
臭いの元をたどるようにしてを振り返ると、喉に焼けるような刺激が伝って口から零れ落ちた。
少なくとも気持ち悪いことだけはわかる。
ほんとに、鼻がおかしかった。酸っぱさや青臭さ、腐乱した食べ物のような匂い……まるでごった煮の闇鍋のような強い臭気が鼻腔を刺激して止まなかった。
そいつは、私よりもずっと小さかった。
夕日に照りつけられた脂ぎった光沢と赤紫が斑点のように今にも破裂しそうなほど化膿して黒ずんだ肌。
ギョロっとした黄ばんだ丸い目。
飽くなき飢えが目に見えるほどやせ細った胸と丸くなったお腹。
嘴みたいに曲がった鼻に唇のないナイフのような歯を、いやらしく露出させたしまりの悪い口。
全てが不快。気持ち悪い。
よく見れば見るほど汚くて胃酸がまた喉を焼く。
そいつは考えられないくらい大きな鼻をヒクヒクと震え、荒い鼻息を私に向けると、締まりの悪い口が笑った。そいつの腰巻が膨らみ、その頂上が染みを作っているのが目に入ってしまった。
その瞬間、私は重力に逆らえなかった。
帰りたい、帰りたいよ。かえりたいかえりたいかえりたいかえりたい!
あっ、私、走ってるんだ。
わかんないけど、走ってるんだ。
なんか聞こえるけど、走ってるんだ。
なんか足元に転がってくるけど、赤い足跡を作ってるけど、走ってるんだ。
気持ち悪いのが後ろにいる気がするけど、走ってるんだ。
何で……?
……なんか、急に気持ち悪いのが死んで、私の周りに人が何人かいて、誰かに震える手で抱きしめられてるのは……何で?
抱きしめてくれてる人は、すごく優しそうな顔をしてる。
声は私くらいなのかな。高くも低くもない、だけど混じりあって少し出づらそうな、そんな優しい声。
何言ってるのかはわかんない。
わかんないけど、心地よかった。
私は……。
ドンッて大きく揺れて、びっくりして跳ね起きた。
すると慌てた様子のさっきの人が目に映った。
あ、私、寝てたんだ。
なにか声をかけてくれたんだけど、何を言ってるのかが分からない。
あの感覚は嘘じゃなかった。私はこの人の話してる言葉が分からないんだ。
でも、あの感覚が嘘じゃないなら、私はあの気持ち悪いのに襲われそうになったと思ったらまた胸が焼けそうで、不快感が背筋をくすぐり、気持ち悪さで嘔吐と嗚咽が同時にやってきた。
気持ち悪い。
あの人が私の背中を撫でようと伸ばした腕を払い除けた。あの人の優しそうな顔や震える手を思い出せばわかる。だけど、あいつに追いかけられたことを思い出して、それどころじゃない。
あの人のしっかりと生え揃った眉は心配と悲しさで曲がっていた。
「気持ち悪い……」
そう呟く私は本当に性格が悪い。
だけど、あの人は憂いに満ちた目で私を見ていた。
その瞳にうつる私は、口元に吐瀉物を垂らして、ケープに身を包む、酷く怯えた少女の姿だった。
気持ち悪いのは私だった。
「ごめんなさい」
深呼吸をしてからそういうと、何故かあの人は優しい声で話しかけてきた。
やっぱり、何を言ってるのか、分からないけど、年相応にちょっと掠れた声で必死になにか伝えようとしているのが、ちょっと可愛かった。
「だから、何言ってるかわかんないって」
私はあの人に、彼に向き直った。
なんとなくだけど、彼は私と同じくらいの少年なんじゃないかなって思う。声の感じから声変わりの途中な気がした。
改めて見ると非常に端正で、だけど幼さの方が強い中性的な顔立ちで、宝石みたいに綺麗な淡い青色の髪と目をしていた。
彼はくしゃくしゃの笑みを浮かべる。
見慣れない衣装だけど、綺麗で清潔、華美って言うほどでは無いけど少し華やか。
なんとなくだけど、彼は多分、優しい人だけど馬鹿だ。キラキラとした目でずっと話しかけてくる。
なんというか……馬鹿だ。語彙が失われていくのを感じる。すごく柔らかな表情で、だけど明らかに励まそうと張り切った声で話しかけてきているのは、伝わる。
だって今もまだ話しかけてきているから。なんというか、もう何度目になるか分からないけど……馬鹿なんだなって感じる。こっちまで頭が悪くなりそうだったから、少し大きい声で止めようと試みる。
「ちょっと待って!」
すると、彼の肩が一瞬、細かく揺れるのを感じた。それから、申し訳なさそうに眉をひそめて肩を落としているようだった。
なんとなく言いたいことが伝わっていたんだなって思うと、何だかこっちまで申し訳なくなるけど、一旦、ここがどこなのかはっきりさせる必要がある。
私たちは向かい合うようにして座っていた。そして狭くて揺れる、だけどおしりに強い衝撃を感じない。
耳を済ませると滑車の甲高い音と……なるほど、なら自然とこの硬い音は蹄鉄になる訳だ。
私は、馬車に揺られている。
きっと彼は……偉い人?なのかな。よくわかんないけど、そう思うと彼の物分りの良さに育ちの良さを感じざるを得なかった。なんで、こんな所で劣等感が湧いてくるのかは、分からない。
すると、彼は急に壁のヴェールをめくった。淡い光が差し込み、ようやくこの馬車の中が暗かった事を思い出させた。
それから、彼はヴェールを開け放つと、車窓から指さした。私が目で追うと、青い月が優しげにこちらを見ていた。
「シルミエ」
優しい声で私に語りかけてきた。
何度もシルミエ、シルミエとゆっくりとはっきりそう呼んでいた。
「シルミエ?」
そう言い返すと、夜なのに真昼の太陽のような笑顔が私の目に映り、彼は何度も首を縦に振った。
すると次は空に向かって指で円を描いて「アーカリヌ」とこれもゆっくりと言ったから、私も真似してみせるとまた激しく首を縦に振った。
何を喜んでのと思ったけど、あぁ、彼は私に言葉を教えようとしているんだ。
なんというか妙に勘のいい少年は、無駄のない綺麗な仕草で少し背中を曲げて「ヘーナ」と静かに言った。その仕草ですぐにわかった。
だから、私もすぐに答えた。
「ヘーナ」
シルミエは月。アーカリヌは空。ヘーナは挨拶。なんてことはなかった。ただ、私はこの時点で止めておけばよかった。
だって彼、また自分の世界に入っちゃったからね。
気づいたらシルミエはアーカリヌに滲んで消えたし、清々しいほど眩しい空だし、外のお付きらしき人達も苦笑いを浮かべてるし、それでも彼は興奮しながら目に映るもの全てに指さして私に教えようとするし、呆れて声も出なかった。
これだけ熱心に教育してくださる先生もいれば、簡単な言葉はわかる。
「わかった、わかったから!」
またもや彼が肩を落とすと、ようやく蹄の音が静かに響いた。
声にならないため息をつく暇ができてよかった。でなければ、私は自分の舌を噛みちぎってた。
しばらく蹄鉄の音に耳をすませて、車窓から差し込む陽だまりと共に馬車に揺られる時間が続いた。
反動なのか、あるいは元来の性格なのか、やっぱり何も分からないけど、その時間が好きだった。
彼……テルーも何となく察してくれてるのか、柔らかな笑みで窓の外を見ていた。
こうして見るとテルーは絵になる。奇麗で長い睫毛が陽だまりを捉えて奇麗に反射した。潤った唇も、鼻筋も、全部が羨ましい。
私はいつの間にか車窓じゃなくて、彼を見ていた。車窓からの景色は綺麗だけど、少し見飽きたのもある。
だけど、陽だまりみたいな暖かさだった。
テルーが視線をこちらに向けたから、目が合ってしまった。
少し居心地が悪くなった気がして、つい、視線を逸らしてしまった。
「エルメーヌ」
テルーの独り言のような呟きが車内に静かに響いた。
もういいよ。と言おうとしたけど、私の事をその綺麗な瞳で見つめていた。
……アレ、なんで泣いてるんだろう。
「エルメーヌ」
彼に呼ばれる度に、大きな雫が手の甲を濡らした。頬づえをついて歳不相応の悪戯な笑みを浮かべるテルーは、私をそう呼んだ。
エルメーヌ……彼が私に名前をくれた。そう、呼んでくれた。
気づいたら私は椅子から崩れて、彼の膝の間に顔を埋めていた。そんな私を、涙で服を濡らしてしまった私を、彼は優しい手で頭を撫でてくれた。
ようやくわかったことがあった。
私は、なんでもいいから、たとえどんな場所でも、どんな人だったとしても、私である事を誰かに認めてもらいたかったんだ。
帰りたい。出来ることなら、この温かさのあるところに、私は帰りたい。