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第3話 境界線の教室
朝の校門には、いつもより多くの保護者がいた。
誰も大きな声を出さない。
けれど、静けさの中に、細い針のような視線が混じっていた。
久世ミナトは校門の前で足を止めた。
グレーのパーカーの袖を指先で引き、校舎を見上げる。
窓の向こうに、生徒たちの顔がいくつも並んでいた。
見ている。
見られている。
それだけで、校舎全体が息をひそめているようだった。
隣で綾瀬レイナがスマホを確認していた。
「もう広がってる」
「何が?」
「真柴先生がK宣告を受けた。学校が隠してる。次は生徒かも。そういう投稿」
ミナトは目を細めた。
「早いね」
「学校は速いよ。噂が走る場所だから」
校門の横に立っていた教師が、二人に気づいて頭を下げた。
その顔には安堵より緊張があった。
案内された職員室は、紙の音さえ目立つほど静かだった。
誰も話していないわけではない。
ただ、声を小さくしていた。
言葉が誰かに拾われるのを恐れているようだった。
奥の相談室に、真柴透はいた。
三十七歳。
薄茶のカーディガンに、きちんとしたシャツ。
短く整えた髪。
背筋は伸びているのに、指先だけが膝の上で落ち着かなかった。
「来てくださって、ありがとうございます」
声は普段の授業を思わせるほど穏やかだった。
けれど、目の下に濃い疲れがあった。
ミナトは向かいに座った。
「配信は保存していますか」
「はい。教頭が」
レイナが部屋の隅で端末を開いた。
「内容は?」
真柴は、目を伏せずに言った。
「真柴透さんに[K]を持たせます。それだけです」
「理由は?」
「ありません」
「学校側の反応は」
真柴は少しだけ笑った。
その笑いは、笑いになりきれなかった。
「授業を休むよう言われました」
ミナトは返事をしなかった。
「仕方ないと思います。保護者から電話が何十件も来ているそうです。生徒も不安がっています」
「真柴先生は、どうしたいですか」
真柴は初めて言葉に詰まった。
窓の外で、チャイムが鳴った。
生徒たちの足音が、廊下を流れていく。
「授業をしたいです」
短い言葉だった。
それだけで十分だった。
ミナトはノートを開いた。
「噂を消すことはできません」
真柴はうなずいた。
「分かっています」
「でも、噂に支配されない場所は作れます」
レイナが顔を上げた。
「どうするの」
ミナトは廊下側の窓を見た。
磨かれたガラスに、自分の顔が薄く映っていた。
「噂を禁止しない」
真柴の眉が動いた。
「禁止しない?」
「はい」
「生徒に話させるんですか」
「話させます。ただし、傷つけるためではなく、怖さを言葉にするために」
レイナは腕を組んだ。
「危ない橋だね」
「うん」
ミナトはうなずいた。
「でも、禁止すると、裏で育つ」
真柴は膝の上の手を強く握った。
「私は、その場にいていいんでしょうか」
「いてください」
「怖がられます」
「それでも、いないよりいいです」
真柴は黙った。
その横顔に、教師としての顔と、宣告された人間としての顔が重なっていた。
昼休み。
体育館に全校生徒が集められた。
ざわめきは低く、床を這う虫のように広がっていた。
ミナトは舞台の横に立っていた。
レイナは壁際で記録を取っている。
真柴は舞台下の椅子に座っていた。
生徒の視線が、何度も彼へ向かう。
そのたび、真柴の肩が小さく揺れた。
校長が短く説明をした。
その後、ミナトが前へ出た。
マイクを持つ。
体育館の奥まで、生徒たちの顔が並んでいる。
不安。
好奇心。
興奮。
怖がりながら見たいという目。
ミナトは、それを知っていた。
「久世ミナトです」
声が響く。
「今日は、噂を消しに来たわけではありません」
ざわめきが少し大きくなった。
「噂は、消せと言われるほど、別の場所で増えます」
生徒たちは顔を見合わせた。
「だから今日は、ここで話します」
真柴が顔を上げた。
「怖いと思う人は、怖いと言ってください。疑っている人は、何を疑っているのか言ってください。ただし、人を壊す言い方はしないでください」
体育館が静まった。
最初に手を挙げたのは、三枝ナナだった。
肩までの茶色の髪を小さなピンで留めている。
制服の袖を指で握りしめていた。
立ち上がると、声が少し震えた。
「真柴先生が悪いことをしたってことですか」
真柴の顔がこわばった。
ミナトはナナを見た。
「分かりません」
体育館に、息を飲む音が広がった。
「でも、分からないことを、悪いことに変えてはいけません」
ナナは唇を結んだ。
「でも、怖いです」
「うん」
「先生が近くにいるのが怖いって思うのも、悪いことですか」
ミナトは首を振った。
「悪いことじゃない」
ナナの目が少し揺れた。
「でも、その怖さを理由に、先生の人生を壊していいわけじゃない」
体育館の奥で、誰かが小さく咳をした。
ミナトは続けた。
「怖いと思ったら、距離を取ってもいい。質問してもいい。学校に相談してもいい。でも、決めつけて広げる前に、一度止まってほしい」
ナナはゆっくり座った。
次に、別の生徒が手を挙げた。
「もし次が自分だったらどうすればいいですか」
その質問で、体育館の温度が下がった気がした。
ミナトはすぐに答えられなかった。
その沈黙が、生徒たちに伝わる。
「一人で抱えないこと」
ようやく言った。
「それから、記録すること。誰かに話すこと。逃げてもいい。でも、自分を消さないこと」
「消さない?」
「自分はここにいるって、言い続けること」
生徒は座った。
その時、後ろの方で小さな笑いが起きた。
「次、誰だろうな」
たった一言。
けれど、体育館の床に落ちたその言葉は、すぐに広がった。
誰かが振り返る。
誰かがスマホを握る。
誰かが隣の顔を見る。
次。
その言葉が、教室の壁を越えていく。
レイナが壁際で顔をしかめた。
ミナトはマイクを握り直した。
「今の言葉」
笑った生徒が肩をすくめた。
「冗談です」
「冗談でも、Kになります」
生徒の顔から笑いが消えた。
「次を探し始めた瞬間、ここにいる全員が誰かを対象者にできます」
誰も動かない。
「それがKです」
真柴が、ゆっくり立ち上がった。
ミナトはマイクを差し出した。
真柴は少し迷ってから受け取った。
「先生も怖いです」
生徒たちの視線が集まる。
「みんなの前に立つのが、今日はとても怖いです」
体育館の静けさが変わった。
「でも、授業をしたいです。明日も教室に行きたいです。怖いと思う人は、無理に近づかなくていい。質問がある人は聞いてください」
真柴は一度、息を吸った。
「でも、次の誰かを探す場所に、この学校をしたくありません」
ナナが顔を上げた。
その目はまだ不安を残していた。
でも、さっきより少しだけ真柴を見ていた。
集会が終わると、生徒たちは教室へ戻った。
廊下には、小さな声が残った。
怖い。
でも先生、話した。
次って言ったやつ誰。
Kって何。
自分だったら無理。
噂は消えていない。
ただ、形が変わっていた。
放課後。
真柴の教室には、数人の生徒が残っていた。
ナナもいた。
机の上には、小さな紙が置かれている。
怖いこと。
聞きたいこと。
言えなかったこと。
それを書くための紙だった。
ミナトは教室の後ろに立っていた。
窓から夕方の光が入り、机の端を薄く染めている。
真柴は板書盤の前に立った。
チョークを持つ手が震えている。
それでも書いた。
分からないことを、決めつけない。
ナナが紙を握ったまま言った。
「先生」
真柴が振り向く。
「明日の授業、来ますか」
真柴は少しだけ目を細めた。
「行きます」
「じゃあ、私も来ます」
それだけ言って、ナナは席を立った。
教室を出ていく足音は軽くなかった。
でも、逃げる音ではなかった。
ミナトは胸の奥で、細い息を吐いた。
その時、廊下の向こうから騒ぎが聞こえた。
レイナが走ってくる。
「ミナト」
「どうしたの」
「生徒の間で、次の対象者予想が回ってる」
ミナトは教室を出た。
廊下の端で、数人の生徒がスマホを隠した。
レイナが画面を見せる。
そこには、学校名と一緒に、何人かの教師と生徒の名前が並んでいた。
次にKを持たされそうな人ランキング
ミナトの指が止まった。
受け止める場所を作った。
でも、受け止めきれなかったものが、別の遊びに変わっていた。
真柴が後ろから画面を見た。
顔から血の気が引いていく。
「やめさせないと」
ミナトはうなずいた。
でも、ただ消させるだけでは足りない。
消した瞬間、また裏で育つ。
教室。
廊下。
家。
投稿欄。
非公開のグループ。
Kは、境界線をすり抜ける。
学校と外。
冗談と暴力。
不安と加害。
知りたい気持ちと壊したい気持ち。
その境目は、思っているよりずっと薄い。
ミナトはスマホを閉じた。
「明日、もう一度話します」
レイナが低い声で言った。
「明日まで待つの?」
「今は止める。明日は、仕組みを作る」
「どんな」
ミナトは、教室の中に残った紙を見た。
怖いこと。
聞きたいこと。
言えなかったこと。
「次を探す場所じゃなくて、今の怖さを置ける場所」
真柴は目を伏せた。
「できるでしょうか」
ミナトは答えなかった。
できると言えば、嘘になる。
できないと言えば、終わる。
だから、別の言葉を選んだ。
「やります」
夕方の校舎に、下校の放送が流れた。
生徒たちが帰っていく。
その背中は、どれも普通に見えた。
笑う子。
急ぐ子。
黙って歩く子。
スマホを見る子。
その中の誰かが、次の対象者を探しているかもしれない。
その中の誰かが、明日対象者になるかもしれない。
ミナトは窓の外を見た。
校門の向こうで、保護者たちがまだ待っていた。
疑いは消えない。
消えないなら、どう抱えるかを考えるしかない。
夜。
ミナトのスマホに、ボスの配信通知が届いた。
本日の観察結果
画面を開く。
顔の見えない輪郭が、いつもの場所に座っていた。
「学校は、小さな社会です」
加工された声が流れる。
「そこでは、人は早く学びます」
コメント欄が動く。
「疑い方を」
ミナトは画面を見つめた。
「守り方を」
真柴からメッセージが届く。
明日、授業をします。
続けて、ナナからも届いた。
先生を怖いと思ったこと、明日ちゃんと話します。
ミナトは、その二つの通知を見てから、また配信へ戻った。
ボスは最後に言った。
「では次に、彼らは何を学ぶのでしょう」
配信が切れる。
部屋に静けさが戻る。
ミナトはノートを開いた。
第3話。
教師。
学校。
噂を消すのではなく、受け止める。
生徒たちは次を探し始める。
ペン先が止まる。
少し考えて、もう一行を書いた。
境界線は、誰かが守らなければ、すぐに踏み越えられる。
窓の外で、街の灯りが揺れていた。
K宣告三日目。
教室の中で生まれた小さな噂は、もう学校の外へ歩き始めていた。
コメント
1件
うわあ、ここまで積み上げてきた空気感が一気に加速した感じ……。「次を探す場所じゃなくて、今の怖さを置ける場所」っていうミナトの判断、すごく好きだな。噂を否定しない、でも破壊的な方向には流さない——このバランス感覚がこの作品の強みだと思う。 体育館のシーン、三枝ナナの「怖いって思うのも悪いことですか」って問いかけには胸が詰まった。恐怖と正義の間って本当に薄い境界線で、それを描き切ってるのが丁寧だなあ。それにしても最後のランキング……あれが回り始めた瞬間の絶望感、すごくリアルだった。次の話、どうなっちゃうんだろう。