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どうして……
どうして遼と楓ちゃんが……。
膝から崩れ落ちた身体は、冷え切った硬い床へ力なく座り込み、茫然自失のままモニター画面を見つめ続けていた。
眼球は微動だにせず、瞼は瞬きを忘れている。
夫が今、私の目の前で他の女を抱いている――。
その「映像」は、あまりにも現実離れしていて、逃避しようとする意識は、それをただのアダルト映像だと思い込もうとしていた。
「……違う。
あれは遼じゃない。
遼があんなことするはずない。
知らない人よ……」
首を小さく横へ振るたび、乾いた笑みが零れる。
呼吸を忘れていた身体が思い出したように酸素を吸い込んだ、その瞬間。
視界がぐるりと大きく回り始めた。
「うっ……」
吐き気を催すほどの激しい眩暈に襲われ、私は這いつくばるように床へ両手をつく。
「亜紀さん、大丈夫?
……ああ、大丈夫なわけないよね。こんな裏切りを目の当たりにしたら。
可哀想に」
閉ざされていた聴覚へ、不快な声が流れ込んでくる。
「………」
私は伏せていた目をゆっくりと見開き、両手をついたまま床を見つめた。
「今、楓ちゃんって言ったよね。亜紀さんは、あのナースを知ってるの?」
「………」
「もしかして、親しくしてるナース?」
唇をきつく引き結び、冷たい床へ張りつけた指先で床を引っ掻くように、拳を固く握り締めた。
「……あなたもグルなの?」
掠れた声が、喉の奥から絞り出された。
「え? グル?」
「あなたも、あの二人とグルなの?
私にこんなものを見せつけて……
私を馬鹿にしてるのね!」
顔を上げ、私は直江先生を鋭く睨みつけた。
「えぇ!? なんでそうなるのさ。
俺があの二人とグルなわけないでしょ!」
熱い血が一気に首から上へとのぼる。
「じゃあ、どうして私をここへ呼び出せたの?
いつから知ってたの?
いつから、あの二人は関係を持ってたのよ!」
怒りに任せ、語気はさらに荒くなっていく。
「ちょっと待って、待って!
落ち着いて!……と言っても無理だとは思うけど。
とにかく俺の話を聞いてよ」
直江先生は困ったように眉尻を下げ、私の肩へ手を伸ばした。
「私に触らないで!」
牙を剥くように、その手をパシッと振り払う。
「うん、分かった。
分かったから」
直江先生は差し出した手を引っ込め、両手を軽く上げて苦笑した。
「とにかく、俺はあの二人とは当然グルじゃない。
俺だって今日初めて知って驚いてるんだから」
「……偶然、あなたも目撃したってこと?」
「もちろんそうだよ。
夕方にアッペ(虫垂炎)の緊急オペがあったんだけど……その時、俺、オペ室のロッカーに忘れ物をしたことに気づいて戻って来たんだ」
「……そしたら、二人が中にいたってこと?」
「だから待って。そんなに話を急かさないでよ。
順を追って話すからさ」
床へ座り込んだまま動こうとしない私を見つめ、直江先生は困ったように眉尻を下げた。
そして、自分もその場へ腰を下ろし、壁にもたれ掛かる。
大きく息をつくと、再び静かに話し始めた。
「オペ室へ入ろうにも、鍵がない。
オペ室の鍵って、どこにあるか知ってる?」
「……」
「オペ室の鍵は全部で三つある。
一つ目は、緊急オペが決まると最初に対応する待機の外科医が持つ鍵。
二つ目は総合外科部長室。
そして三つ目は、待機のオペ室ナースが管理する看護管理室に置いてある。
鍵が欲しくて部長室と看護管理室へ行ったんだけど、なぜか二か所とも鍵がなかった。
だから誰かがオペ室を使っているんだと思って、そのまま向かったんだ。
そしたら、運良くオペ室へ入っていく亜紀さんの旦那様を見つけたんだよ」
苦虫を噛み潰したような私の表情を見つめ、直江先生は人差し指を立て、にこりと笑った。
その間も、スピーカーからは艶めかしい声が絶え間なく流れ続けている。
私は耐え切れず耳を塞ぐと、モニターの操作パネルへ手を伸ばした。
その動きを見た直江先生は、すぐに立ち上がる。
モニターのスイッチへ触れようとした私の手。
その震える手首を掴み、直江先生は操作パネルの前へ立ち塞がった。
「なに……?
なんなの?……
もう止めて……
こんなの見たくない……
この声を消してよ!」
掴まれた手を引こうとしても、びくともしない。
もう片方の手で耳を塞ぎながら、私は悲鳴にも似た声を上げた。
「駄目だよ、亜紀さん。
まだ話は終わってない。このまま聞いて」
直江先生は薄く笑い、操作パネルを背中へ隠した。
「話なら聞くから!
だから手を離して!」
私は耳を塞いでいた手を離し、捕らえられた手を振りほどこうと、彼の手の甲へ爪を立てた。
浮き上がった太い血管へ、爪がギリギリと食い込んでいく。
「ご主人の後を追って、こっそりオペ室へ入ったんだ。
その直後、このナースも入って来た。
……俺が中にいるとも知らずにね」
直江先生は、まるで痛みなど感じていないかのように、淡々と言葉を続けた。
「……どうして、その時に遼へ声を掛けなかったのよ。
こっそりだなんて……
あなたが声を掛けていれば、こんなことには……」
「こんなことにはならなかったって?
俺が、この二人の関係を作ったとでも言いたいの?」
私の言葉を遮り、直江先生は赤く充血した私の瞳を真っ直ぐ見据えた。
「それは……」
私は震える唇を噛み締め、「八つ当たり」になるだけの言葉を飲み込んだ。
「おそらく、外科部長室で保管している鍵も、ご主人が持ってるんだろう。
看護管理室の鍵はこのナースが……ああ、今夜の第一コール待機ナースはこの娘かもしれないね。それなら危険は回避できる。
それにしても、真夜中のオペ室を逢瀬に使うとはねぇ」
この上なく悲痛に顔を歪める私をよそに、直江先生はくくっと喉を鳴らした。
「……狂ってる……」
腹の底から、憎しみに満ちた声が漏れる。
「狂ってる?
俺が?
それとも、この二人?」
「……」
「外科医にとってオペ室は、自分の野心を解き放てる場所なんだ。
緊張感の中にある興奮。頭が冴え、闘争心に満ち溢れる。
その舞台に女を磔にし、快感の悲鳴を上げさせ、屈伏させる支配欲。
そして、人命救助という神聖な場所を汚すというタブー。
これは最高の興奮が得られるだろうなぁ……。
俺にも分かるな、その欲望」
耳を疑うような、あまりにも無情な言葉。
神聖な場所を汚すタブー……。
オペ台に女性を磔にし、快感で屈伏させる支配欲……。
それが、最高の興奮……?
何を言ってるの……この人は。
頭がくらくらする。
頭へ上った血が、一気に足元へ流れ落ちていくようだった。
「亜紀さん?」
直江先生が、抵抗する力を失った私の顔を覗き込んだ、その時――
『愛してる……遼一さん。
私をあなたのものに……お願い……』
モニターから、艶めいた声が流れ込む。
その声で私の意識は一気に現実へ引き戻された。
目を見開いた私は、彼を突き飛ばす勢いで、掴まれていた手を強く引いた。
コメント
1件
いや、まじで直江先生が何者なのか気になりすぎる……! 最初はただの協力的な同僚かと思いきや、オペ室を「支配欲を解き放つ場所」とか言い出すヤバさよ。亜紀さんの心情が手に取るように伝わってきて、この裏切りと困惑の渦中に放り込まれる感じ、読み手としても息が詰まるわ。続きマジで早く読みたい!