テラーノベル
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逃げようとした足は感覚を失ったようにもつれ、よろめいた身体は背後の扉へ激しく右肩を打ちつけた。
「いっ……!」
肩を走る鋭い痛みに顔を歪め、そのまま項垂れるように扉へ身体を預ける。
「亜紀さん、大丈夫!?」
驚いた直江先生が駆け寄ってくる。
『遼一さん……私を殺して……
私を、あなただけのものにして……』
……え?……
私を……殺して?……
生気を失ったまま顔を上げ、私はモニター画面を見つめた。
その映像が視界に飛び込んだ瞬間、さらに大きな衝撃が私を襲う。
肩で荒く息をし、恍惚とした表情を浮かべる彼女。
その細い首には、それを締め上げるように夫の両手が絡みついていた。
「……遼?
何をしてるの……?」
信じ難い光景を凝視したまま、震える声が漏れる。
その間にも、夫の長い指は彼女の首へ深く食い込み、甘く漏れていた声は呼吸とともに押し潰されていく。
「やっ……やめて!
遼っ! 何してるの!?
やめてーっ!」
私は操作パネルへ飛びつき、届くはずもない悲鳴を張り上げた。
その直後。
彼女の身体がびくりと痙攣し、白目を剥く。
楓ちゃん……?
大きく見開いた目も、開いたままの口も動かない。
全身から血の気が引き、身体は激しく震え始めた。
「そんな……
楓ちゃん……
いやぁ――っ!」
今まで味わったことのない恐怖に全身を震わせ、私は頭を抱え、その場へしゃがみ込む。
「そんな……
楓ちゃんが……
楓ちゃんが……」
頭皮が痛むほど髪を掴み、身体を縮めたまま、私は彼女の名前を呼び続けた。
「亜紀さん、大丈夫。
彼女は無事だよ」
直江先生はそう言うと、うずくまる私の両肩を正面から強く掴んだ。
「……生きてる?」
「そう。生きてるよ。
あれは本当に殺そうとしたわけじゃない。
ほら……」
直江先生は私の顔を覗き込み、”モニターを見て”と促すように顎を小さくしゃくった。
「……」
私は放心したまま、ゆっくりと伏せていた顔を上げた。
視線の先には、激しく揺れていた腰の動きを止め、気怠そうに彼女へ覆い被さる夫の背中があった。
そして、その荒い呼吸をする肩越しに見える彼女の顔――。
天井へ視線を向けたまま、露わになった身体は小刻みに痙攣を繰り返している。
肩がゆっくりと上下し、確かに呼吸をしているのが見て取れた。
「あらら。二人とも昇天しちゃったみたいだね」
茫然と立ち尽くす私の横で、直江先生は吹き出すように笑った。
何が起きているのか分からない。
状況が、まったく理解できない。
「……え?」
身体を強張らせたまま、私はゆっくりと直江先生へ視線を向けた。
直江先生は私の顔を見て再び含み笑いを浮かべると、
「ああ、ごめん。
まさか、こんな”プレイ”まで見せてもらえるとは思ってなかったからさ。一瞬、俺も焦ったよ」
そう言って私の肩を軽く叩き、ゆっくりと腰を上げた。
「……プレイ?」
「そう、プレイ。
見事なサディズムとマゾヒズムだった。
亜紀さんも、ご主人とあんなことするの?」
「……なに?
何の話をしてるの?」
「……そうだよね。
亜紀さんがするわけないか」
恐怖に怯えた私の表情を見て苦笑すると、
「世の中には、少し変わった性癖を持つ人たちがいるんだよ」
そう言って大きく息を吐き、椅子へどさりと腰を下ろした。
「SとかMとか言うけど、人間のほとんどは、その両方の性質を持っている。
ただ、どちらを表に出した時に、より強い興奮を得られるかの違いなんだ。
その性質に目覚めるか、一生目覚めないままで終わるかは、相手次第。
この娘は……亜紀さんのご主人によって、その扉を開かれてしまったのかもしれないね」
そう言って画面の方へ椅子をくるりと回し、重なり合う二人の姿を満足そうに眺めた。
あの小さな身体を締め上げていた夫の姿が、脳裏に焼き付いて離れない。
スピーカーから流れ続ける夫の息づかい。
他の女の身体で快感を得て、他の女の体内へ欲望を放った夫の息づかい……。
「あなたが何を言ってるのか分からない……。
あんなの……あんな遼……私は知らないわ……」
耳を塞ぎ、涙で掠れた声を漏らす。
「亜紀さん。それは、あなたが妻だからだよ。
男には、伴侶には隠しておきたい欲望があるのさ」
「………」
「自分の妻は、欲望の玩具にはしない。
男の征服欲を満たすための玩具にはしないんだ。
大丈夫だよ、亜紀さん。ご主人にとって、あの娘はただの『玩具』さ。
本当に大切な相手なら、こんな大胆な真似はしないよ」
愛おしそうに夫の背中へ腕を回す彼女を眺めながら、直江先生は嘲るように喉を鳴らした。
「……玩具……」
妻には知り得ない欲望を満たすための……。
男の征服欲を満たすためだけの玩具……。
耳を塞いだまま、身体は微動だにしない。
私の視線だけが、床の継ぎ目を虚ろに見つめていた。
「そう。玩具は、飽きたらいつか捨てられる。
こんな警戒心のない関係なんて長くは続かないさ。
ほら、亜紀さん。立って。
そろそろ引き上げないと、二人がオペ室から出てくるよ」
直江先生は椅子から立ち上がり、私へ手を差し伸べた。
私はその大きな手を睨みつけたまま、黙り込む。
「このままここにいたらまずいでしょ?
ここで鉢合わせをご希望なら、俺も最後まで付き合いますけど?」
直江先生は大きくため息をつき、悪戯っぽく笑った。
「……どうして?」
「えっ? 何が?」
「どうして私にこんなものを見せたのよ……。
どうして呼び出したりしたのよ……」
差し伸べられた彼の手を見つめたまま、憎しみを押し殺した声を絞り出す。
「こんなの……耐えられない……。
これから私はどうしたらいいのよ……。
知りたくない……。
受け止められない真実だってあるのよ……」
悲しいのか。
悔しいのか。
もう、自分でも分からない。
絶望に生気を奪われた瞳から、大粒の涙がぽたり、ぽたりと零れ落ちる。
「……亜紀さん、勘違いしないで。
俺はあなたの敵じゃない。味方だよ。
怯えなくても大丈夫。俺があなたを導いてあげる。
このまま、ただの修羅場で終わらせるなんてもったいない。
亜紀さんの復讐劇――
俺が最高のシナリオを描いてあげる」
直江先生は静かにそう囁くと、差し伸べた手で私の頬にそっと触れた。
瑠璃マリコ
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桃下結衣
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コメント
1件
いやもう……冒頭から亜紀さんの衝撃と絶望がひしひしと伝わってきて、胸が締め付けられたわ。モニター越しにあの瞬間を目の当たりにしちゃう展開、読んでるこっちまで息が止まった。直江先生の「プレイ」発言も、冷静すぎて逆に怖い。でも「玩具」って言葉で締めくくったあの嘲り方、彼の本性がチラ見えしてゾッとした。亜紀さんの「知りたくない」って泣き声が、今も耳に残ってる……。続き、めっちゃ気になる🔥