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第五湯 朝霧露天
朝霧は、富士山をほとんど隠していた。
見えるはずの場所に、
山はなかった。
あるのに、
見えない。
磁馬は露天風呂の入口で立ち止まり、
湯けむりと霧の境目を見ていた。
湯気は下から上がる。
霧は向こうから来る。
二つが混ざると、
景色はやわらかくほどけた。
「いいなあ」
磁馬は小さく言った。
宿の廊下から、
朝香が静かに歩いてきた。
茶色の作務衣。
後ろでまとめた髪。
手には小さな灯り。
「今朝は、かなり霧が深いです」
「富士山、見えないね」
「見えません。でも、あります」
磁馬はうなずいた。
「それを描く」
朝香は少し笑った。
「見えない富士山をですか」
「うん」
磁馬は鞄を確認した。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
露天風呂は静かだった。
湯船の石は濡れていて、
湯面はゆっくり揺れている。
向こうにあるはずの富士山は、
霧の奥に沈んでいた。
磁馬は濡れない場所に腰掛け、
スケッチ帳を開いた。
まず、
見えない山の位置を探す。
宿の屋根。
木の枝。
湯船の端。
霧の濃いところ。
富士山は、
線ではなく、
霧の厚みに隠れている。
磁馬はペンを持った。
描く。
山ではなく、
山が隠れている場所を。
湯けむり。
朝霧。
石の濡れ。
木の枝から落ちる水滴。
静かな湯面。
線は少なくなる。
描こうとすると、
かえって見えなくなる。
磁馬は少し手を止めた。
その時、
背後で小さなあくびが聞こえた。
黄緑の上着を着た少年が、
双眼鏡を持って立っていた。
髪には寝ぐせが残っている。
「富士山、どこ?」
少年は眠そうに言った。
朝香が答える。
「今日は霧の中です」
「せっかく起きたのに」
少年は双眼鏡を目に当てた。
しばらく見て、
すぐに下ろす。
「何も見えない」
磁馬は振り向いた。
「少し見える」
少年は目を丸くした。
「どこが?」
「見えないところが」
「変な人」
「よく言われる」
少年は近づいた。
「名前は?」
「磁馬」
「じば?」
「うん」
「馬みたい」
「よく言われる」
「ぼくは律」
律は磁馬のスケッチ帳をのぞいた。
「これ、富士山?」
「富士山の手前」
「山がないじゃん」
「霧で休んでる」
律は眉を寄せた。
「山って休むの?」
「たぶん」
朝香が少し笑った。
湯気が流れた。
ほんの一瞬、
霧の向こうに大きな輪郭が出た気がした。
律が慌てて双眼鏡を構える。
だが、
また隠れた。
「今、見えた?」
「少し」
磁馬はその一瞬を描いた。
見えた山ではなく、
見えたと思った律の顔を。
双眼鏡を上げる手。
寝ぐせの跳ねた髪。
少し悔しそうな目。
律は不満そうに言った。
「山を描いてよ」
「律も富士山を見てたから」
「ぼくは山じゃない」
「山を見る人も、山の手前」
律はよくわからない顔をした。
でも、
少しだけ黙った。
朝香が露天風呂の縁へ近づき、
湯の温度を確かめた。
「朝の湯は少しぬるめです。長く入れますよ」
磁馬はペンを置いた。
「入る」
湯札を鞄から出そうとして、
手が止まる。
奥にしまいすぎている。
布をほどく。
湯札を取り出す。
その時、
霧を含んだ風が通った。
布がめくれる。
湯札が指先から滑った。
かたん。
湯札は石の上へ落ち、
露天風呂の端へ転がった。
磁馬の顔が止まる。
律が叫ぶ。
「落ちた!」
朝香がすぐに灯りを低くした。
湯札は、
湯けむりと霧の中で見えにくい。
磁馬はしゃがんだ。
「探す」
律もしゃがむ。
「見つかるまで帰らないやつ?」
「うん」
「やっぱり」
朝香は静かに言った。
「足もとに気をつけてください。石が濡れています」
三人で探した。
湯船の端。
石の隙間。
木の柵の下。
霧が濃く、
近くのものまで少しぼやける。
律は双眼鏡を逆に持ち、
近くを見ようとした。
「これ、近くは見えにくい」
「遠くを見るものだから」
朝香が言うと、
律は困った顔をした。
「遠くの富士山も見えないのに」
磁馬は石の間へ手を伸ばした。
ない。
朝香が細い竹ばさみを持ってきた。
「これで寄せます」
灯りを当てる。
湯けむりが少し動く。
その奥で、
小さな木の札が見えた。
「あった」
律が先に見つけた。
湯札は石のくぼみに引っかかっていた。
朝香が竹ばさみでそっと寄せる。
磁馬は両手を出す。
湯札が戻ってきた。
濡れていたが、
割れてはいない。
「見つかった」
磁馬は深く息を吐いた。
律も安心したように笑った。
「富士山より先に見つかった」
「うん」
朝香が湯札を布で拭いた。
「こちらは、よく見えましたね」
磁馬は湯札を鞄の奥へしまい直した。
一つ。
二つ。
三つ。
今度は落ちない。
湯に入ると、
朝の冷えがゆっくりほどけた。
霧はまだ濃い。
富士山は見えない。
でも、
湯に浸かっていると、
見えないことが少し気にならなくなった。
湯面が揺れる。
霧が流れる。
遠くの鳥の声も、
かなり薄い。
律は湯の外で双眼鏡を持ったまま、
まだ富士山を待っていた。
「出てこない」
「待つ湯だね」
磁馬が言った。
「待つ温泉?」
「うん」
「温泉って、入るものじゃないの」
「待つこともある」
律は少し考えた。
朝香が言った。
「霧が晴れる朝もあります。でも晴れない朝もあります」
「晴れないと損した気分」
律が言う。
磁馬は霧を見た。
「見えない朝も、朝」
律は何も言わなかった。
湯から上がったあと、
磁馬はまたスケッチ帳を開いた。
朝霧露天。
湯けむり。
霧。
見えない富士山。
湯札を探す三人。
双眼鏡を持つ律。
灯りを持つ朝香。
湯面に落ちる水滴。
描き進めると、
絵の中で霧だけが少しずつ動いた。
富士山は、
完全には見えない。
けれど、
時々、
線の奥に大きな気配が出る。
見えそうで、
見えない。
見えないまま、
そこにある。
律が絵をのぞいた。
「これ、山があるってわかる」
「うん」
「でも見えない」
「うん」
「変なのに、ちょっといい」
磁馬は笑った。
「よかった」
朝香も絵を見た。
「霧の日の露天ですね」
「うん」
「見えない日を描いてくれる人は少ないです」
「見えない日も、泊まった日だから」
朝香は静かにうなずいた。
朝食の時間になった。
温かいご飯。
味噌汁。
焼き魚。
小さな漬物。
磁馬はよく食べた。
律も眠そうな顔のまま、
ご飯を食べている。
「結局、富士山あんまり見えなかった」
「また来ればいい」
磁馬が言うと、
律は箸を止めた。
「また早起き?」
「うん」
「大変」
「でも、次は見えるかも」
「また見えないかも」
「それもある」
律は少し笑った。
「それでも来るの?」
「たぶん」
「たぶんか」
食後、
磁馬は小さな紙を二枚出した。
一枚は朝香へ。
朝霧の露天で、
灯りを持つ姿。
茶色の作務衣。
霧に包まれた湯船。
もう一枚は律へ。
双眼鏡を持ち、
見えない富士山を待つ姿。
黄緑の上着。
寝ぐせの残る髪。
朝香の絵では、
霧がほんの少し流れていた。
律の絵では、
富士山は見えない。
けれど、
双眼鏡の先に、
大きな山の気配だけがあった。
律はじっと見た。
「山、ないのにある」
「うん」
「これ、いい」
磁馬はうなずいた。
「待ったから」
朝香は絵を受け取り、
大事そうに胸の前で持った。
「霧の日に飾ります」
磁馬は鞄を確認した。
スケッチ帳。
ペンケース。
小銭袋。
訳機。
湯札。
ある。
一つ。
二つ。
三つ。
全部ある。
宿を出るころ、
霧はまだ残っていた。
富士山は最後まで、
はっきりとは見えなかった。
けれど磁馬は、
何度も振り返った。
見えない山がある場所。
湯気と霧が混ざる朝。
湯札を探した石のそば。
律が手を振る。
朝香も静かに頭を下げる。
磁馬は手を振り返した。
鞄の中で、
朝霧露天の絵が静かに時間を進めていた。
霧が流れる。
湯気が上がる。
湯札が落ちる。
見つかる。
律が双眼鏡を構える。
朝香が灯りを持つ。
そして、
富士山はほとんど見えないまま、
絵の奥にずっと立っていた。
見えないものは、
なくなったわけではない。
磁馬はそう思いながら、
霧の残る道を歩いていった。
羽海汐遠
10,941
翠
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コメント
1件
うわあ、このエピソード、すごく好きです…🥀 「見えない富士山を描く」っていう磁馬さんの視点が、もうそれだけで胸にきました。見えないからこそ、そこにあるって信じる感じ、すごくわかる気がする。 湯札が落ちて三人で探すシーン、ほっこりした。律くんの「富士山より先に見つかった」ってセリフ、ちょっと笑っちゃったけど、ああいう日常の小さな発見が、旅の思い出になるんだよね。 最後の「見えないものは、なくなったわけではない」って言葉、じんわり沁みました。霧の朝の静けさが、ずっと心に残る話でした🌙