暗くなって帰ると、家の空気はいつも「待っていた」みたいに沈んでいた。
静かすぎる廊下。テレビの音が、遠くで形ばかりに流れている。
鍵のない部屋に入る前に、遥は靴下を脱いでおく。
布団の上に落ちた砂粒一つが、あとで「態度」として責められるからだ。
リュックは押入れの端、教科書は見えない位置に。目につくものが“気に食わない”という理由で燃やされたことが、過去にある。
部屋の隅、照明の影になったところに晃司が立っていた。
何も言わず、ただそこにいて、遥が部屋に入るのを見ていた。
息が止まる。
ドアを閉める音さえ、妙に大きく響いた。
「……学校、楽しいか?」
その声に、遥は顔を上げられない。
問いではない。“答えを持たない”言葉だった。
返事をしないと、腕をつかまれる。
力が入る。引き寄せられ、壁に背を打ちつけられた。
「おまえさ、最近ちょっと黙りすぎ。何か隠してんだろ。俺からじゃなくて、“他のやつ”に、話してんじゃね?」
(話してない。誰にも、何も)
言いたいのに、喉が閉じる。
喉の奥に残っているのは、いつか噛み殺した呻きと、吐けなかった助けの名だけ。
晃司の手が首元に触れる。
暴力というより、“慣れた接触”。
すでにそれは、遥にとって痛みではなく、ただの“所有の確認作業”になっていた。
「こないだの夜も、誰かに連絡してたろ。スマホ見せろ。なあ、言えよ。
それとも、“誰かと寝た”って話したかったのか? 俺がどんなことしてんのか、誰かに聞いてもらいたいか?」
唇の端が切れていたのに、晃司はそこをわざと撫でた。
指先に少し血がついたのを見て、笑う。
それが、“痛みを楽しむ”笑いじゃないところに、遥はいつも底知れぬ寒気を感じた。
淡々と、手慣れた支配。
好きとか嫌いとかではない。“ここにある肉体”に対する当然の権利のように。
遥は押し倒されながら、心のどこかがすでに冷えていた。
苦しさも、悔しさも、もう叫ぶ感情ではない。
それはすでに、「今日もここにいた」という既成事実として、体に刻まれていく。
息が浅くなる。
天井の染みを見つめながら、遥は心の中で、何かをひとつ折る。
(これは、代償だ。俺が、日下部に触れたから)
(俺が、“あんな目”を向けられて、まっすぐに何かを感じてしまったから──)
(この痛みで、均衡が取れる。これで、俺は“誰かを壊さずに済む”)
晃司の手が、首筋からシャツの下へ滑り込んでくる。
指先の冷たさが、過去と現在を何度も往復させる。
誰にも届かない場所。
声も、感情も、存在さえも奪われる夜。
それでも遥は、ひとつだけまだ残しているものがあった。
日下部の、沈黙。
「壊れてない」と言い続ける目。
その記憶だけが、晃司に触れられてもまだ失われずにいた。
──だから、余計に苦しかった。
守りたいと思ってしまったから。
触れてはいけないと知っているのに、それでも、あの目を壊したくないと、願ってしまったから。
その“願い”こそが、
遥にとって、最も許されない欲望だった。