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旅支度をするナタリーの脇で、お針子のロザリーは、いつも通り、おろおろしていた。
「マダム!マダムが、いらっしゃらない間、私は、どうすれば良いのですか?」
「あー、店を開けて、洋服の仕立てを希望するお客様の相手をする。そして、依頼された、服を作る。それだけのことじゃない。ロザリー、あなたの腕前なら、どんなご婦人でも、仕上がりに納得するわ。実際、そうでしょ?」
ですがですが、と、ロザリーは、一人で店を切り盛りする事に不安を抱いている。
でも、いい加減、慣れてもらわないと……。
ナタリーは、やや、溜め息混じりで、更に、続けた。
「超お金持ちの、新興貴族からの、依頼なのよ。初めての仕事だから、私が行かなきゃ。クレイド伯爵夫人のご紹介じゃ、断れないでしょ?」
「でも、でも、なんです?カルスティーナ公国なんて、聞いたことありませんよ!一体、どこにあるんですか?そんな国」
「多分、地中海沿岸の、あのごちゃごちゃとした国の集まり、か、フランスの国境周辺に散らばっている、小国の一つじゃないかしら?」
えー、そんな、大雑把な。と、ロザリーは、呆れている。
けれど、そう言うしかナタリーには、出来なかった。
これは、高級婦人服の仕立て屋のマダム、ではない、裏の仕事なのだから──。
何時ものように、突然、依頼は、舞い込んで来た。
先をピンと上にはねあげた、口髭──、カイゼル髭の男、が、カフェのカウンターで、カプチーノを嗜んでいる、ナタリーに声をかけて来る。
「マダム、お一人で?」
それが、ナタリーへ、仕事を依頼する合図なのだ。
二人は意気投合し、近場の公園を散策しながら、互いの事を語り合う。と、男女の出会いに見せかけた、ランデブーで、ナタリーは、依頼の内容を知らされる。
今回は、公国の皇太子の花嫁役。
式は挙げたが、花嫁は、男の元へ、逃げた。逃亡中の花嫁を連れ戻す間、皇太子妃の身代わりを勤める。それが、ナタリーに与えられたものだった。
「あらまっ、皇太子の相手ならぱ、それなりの家柄の娘でしょ?また、大胆な事をしでかしたわね」
「まあ、それで、君も、食って行けるのだから、良い話じゃあないか」
カイゼル髭は、いやらしいほど、空々しく口角をあげると、ナタリーを見る。
詳細は、ここまで、ということか。あとは、国家機密という、ナタリー含め、庶民は踏み込む事を許されない事柄があるのだろう。
そう、高級婦人服の仕立て屋なるものは、単なる、隠れ蓑。ナタリーの本当の顔は、王国貴族相手の、困り事処理屋なのだ。
と、言ってしまえば、実にお気楽なものに写るが、時は、19世紀前半、ここ、欧州《ヨーロッパ》では、王国、公国、侯国等々、名も知らぬような小国が、あまた存在していた。そして、イタリア半島を筆頭に、覇権を手中にする主要大国の餌食とならぬよう、戦々恐々とした時が流れていた。
いつ、どこで、領土拡充の為に、一発触発の事態が起こるか、わからない。
その為、小国側も、スキャンダルや、些細な行き違いを機に、大国につけこまれる事を恐れていた。
例えば、招待を受けた舞踏会に、妃が体調不良で主席出来ない。無論、長年、臥せっている妃を狙っての招待という、陰謀なのだが、ここで、しくじってしまうと、国を取られる。
そこで、体面維持という名目で、ナタリーへ代行妃の声がかかるのだ。
依頼を受けた、ナタリーは、妃《きさき》の顔をして、王の隣に寄り添う──、とは、これまた、表向きの話で、そのまま王に気に入られ、愛人となって、国の内側から崩して行く。
すべては、前にいる、カイゼル髭の指示だった。
「さて、傾国のナタリーの腕前を、見せて頂こうか」
この一言で、ナタリーの諜報員《スパイ》並みの仕事が始まるのだ。
「マダムー!本当に行っちゃうんですか?!」
ロザリーの、グズリ声で、ナタリーは、はっとした。護身用の小銃《ピストル》にナイフを、まだ、出してない。が、ロザリーがいる以上、徐《おもむろ》に、旅行鞄へ移すことはできない。
「あら、店番は?ロザリー、しっかりしてちょうだいな!留守をまかせられないわ」
「あー!だったら行かないでくださいー!」
「もう、ぐずぐず言わないで、とにかく、仕事に戻りなさい」
ナタリーは、ロザリーを部屋から追い出すと、荷物の最終チェックに入った。
鏡台に置いてある、上げ底仕様の宝石箱から、小銃を取り出し、文机の上に置く、ぺーバーナイフに見せかけたナイフを取ると、旅行鞄の底に仕舞いこんだ。
次に、カイゼル髭から受け取ったばかりの汽車のチケットに目を通し、出発時間を確かめると、手提げバックの中に入れた。
余り時間はなかった。乗り遅れてしまうと、全ての段取りが、狂ってしまう。何時もの事とはいえ、どうして、もっと早く、依頼してこないのかと、腹立たしさと戦いながら、荷物を持って部屋を出る。
あとは、辻馬車が拾えるか、だが、どうせ、カイゼル髭が、馬車が通りかかる様にしているはずだ。
そして、ナタリーは、ロザリーの叫びを振り切り、図ったように、通りかかった辻馬車を拾うと、駅へと、向かった。
ナタリーは、ホームに停車する汽車に乗り込み、チケット通りのコンパートメントに入ると、荷物置き用の棚に置き忘れているかのように置かれてある、鞄を取った。この中に、今回の仕事の詳細資料が、用意されてある。
だが、鞄には、新聞が一紙入っているだけだった。
一面に、カルスティーナ公国皇太子ご成婚、そして、新婚旅行《ハネムーン》には、皇太子自らの運転で、最新の自動車を使って、諸外国を、お忍びで巡ると、まあ、ゴシップ記事的な事が、書かれている。
そもそも、このお忍びって、なんなんだ?
ここまで、公開されていては、既に公務だろうと、ナタリーは、思う。
さて、記事には、皇太子夫婦の、公式肖像画が乗せられており、写真でないところは、所詮、名も知らぬ小国と、知らしめているように思えた。
が、おかげで、皇太子妃の姿は、はっきりしない。ナタリーが、妃であると言えば、即、納得してもらえる状態といえるだろう。
相手の皇太子は、黒髪。髭は無しの中肉中背。これといって、目に留まる外見的特徴も無し。要は、凡庸──。
まっ、その方が、扱いやすい。が、自動車は、運転できるようだ。意外と、新し物好き、つまり、好奇心旺盛。退屈させない、話術が必要になるかもしれない。
ナタリーは、煮詰まった感を覚えつつ、とりあえずは、妃の身代わりを勤めるだけで、今のところ、どうこうしろとは、言われていない事に気が付いた。
「そうそう、隣で笑って手を降っていれば良いのよ」
ナタリーは、自分に言い聞かせる。それだけでも、相手方にとっては、助かる話だろうと。
これだけ、大々的に、発表されているのに、妃は失踪中。完全に、こちらが優位、人助けレベルではないかと思った所で、汽車が動き始めた。
──目的の、名も知らぬ駅に降り立つナタリーは、例の新聞を手に持っている。汽車の中で、仕事用、とも言える、黒のドレスと、顔を被うヴェール、喪服姿に着替え、迎えを待っていた。
一見、目立つ姿だが、迎え、という点からすれば、実に、目印になる格好で、ここ、の、様に余所者が降りれば目立つ場所であっても、皆、勝手に葬儀の参列に訪れたのだろうと、解釈してくれる。
少しばかり、記憶に残りやすいという、危険と隣り合わせではあるが、案外、使い勝手の良い衣装なのだ。
そして、マダム、と、御者に声をかけられる。
「ホテルには、夕刊も置いてありますよ」
と、御者は、ナタリーの持つ新聞に目をやった。