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「………どうだ?」
「まだ何も見えない」
ソウルビジョンを落とした典晶は、静まりかえった室内プールを見渡した。
午後九時。採光窓から差し込んでくる月光が、波紋一つ立たない静かな水面に反射している。まるで静止画のような空間。湿った空気は塩素の匂いを含み停滞している。
人気のないプールに初めて近づいたが、少し異様な感じがする。身近にある海も、川も、湖も必ず流れがあってそこに生命が息づいている。だが、プールは違う。それも室内プールは風の影響も受けないため、水面は死んだように凪いでいる。こちらが何らかのアクションを起こさない限り、さざ波一つ、波紋一つ起きない。
目の前には死んだ水が広がっているのだ。
水泳部が終わって一時間後、典晶は昼間開けておいた男子トイレの窓からそっと忍び込んだ。宿直の教師が見回りに来るだろうが、隠れてやり過ごせる場所は無数に存在している。
バックからイナリを出した典晶は、文也と一緒にベンチに腰を下ろして水面を見つめていた。
狭いバックから解放されたイナリが、水を得た魚のようにパタパタと動き回る。水面に鼻を近づけてスンスンと匂いを嗅ぐイナリに、典晶は声を掛ける。
「イナリ、プールの水は飲むなよ」
典晶に釘を刺され、イナリはこちらへ駆けて来る。途中、採光窓から差し込んだ月光に触れたイナリの体が輝きだした。光が収束し、広がり、人の形を形成していく。
「わ! 馬鹿!」
腰を浮かせた典晶。呆然と変身を見つめる文也の前に立ち塞がった典晶は、足元に置かれているバックをイナリに向かって蹴り上げた。すでに、イナリは生まれたばかりの姿になっていた。
「イナリ! ジャージが入ってるから、それを着ろ! 文也! 後ろを向け、後ろを!」
典晶と文也はプールに背を向ける。
「ああ~、思春期の青少年にはちとキツイな~……」
「ワリィ。もうちょっと宝魂石が集まるまで、色々と我慢してくれ」
衣擦れの音が静かなプールに響き渡る。健全な高校生二人。イヤでも背後でイナリの着替えを想像してしまう。特に、典晶はイナリの全裸を目の当たりにしているから、リアルにその光景が想像できた。
目頭を押さえて溜息をつく。
この結婚騒動。断る切欠を作る為に宝魂石探しを始めたが、蓋を開けるとそこにあったのは美しいイナリの姿。それも、自分を愛しているという。恋人もいなければ好きな人もいない典晶の心は、イナリの方へ大きく天秤が揺れてしまう。
(俺は目立たず平凡でノーマルなはずだ。獣ッ子萌えとか、モノノケ萌えとか、断じてそう言うのじゃない)
深呼吸して気を静めている典晶の背中に、ワイングラスを指先で弾いたような、美しい声が響いた。
「待たせたな」
振り返ると、そこには月光を浴びたイナリが立っていた。
「おお~、君がイナリちゃんか……ジャージが似合ってるな」
「美しい女性というのは、何を着ても似合ってしまうものなのだな」
自らのジャージ姿を満足そうに見て頷くイナリ。彼女がこちらに歩こうとするのを、慌てて典晶が止めた。
「イナリ待て! 月光の下から出るな!」
「ああ、そうだったな。この姿にはまだ慣れていなくてな」
コロコロと笑うイナリ。そう何度も変身を繰り返されていては、こちらの身が持たない。
月光の下から出られないイナリの横に腰を下ろした典晶と文也。文也に至っては、超越然とした美しいイナリを見てポーッと頬を染めていた。
「なあイナリ。プールに幽霊はいるのかな?」
学校の怪談はあくまで怪談話だ。必ずしもそれが真実とは限らないし、過去に女子生徒が死んだとしても、幽霊になって彷徨っているとは限らない。
「分からないが、ここには何かしらの霊力のような物は感じるな。もう少し待ってみた方が良いだろう」
イナリは背後を振り返る。その方向には壁があるが、その向こうには静まりかえった校舎がある。
「それよりも気になるのが校舎の気配だ」
「校舎?」
典晶も文也も、イナリにつられて背後を振り返る。