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その視線には、侮蔑とも好奇心ともつかない不快な感情が混じっていた。
彼女は、俺の隣に立つ彼らが自分にとってどれほどの脅威になり得るのか
あるいは利用価値があるのかを測っているようだった。
そして、ふっと笑うような素振りを見せ、唐突に口を開いた。
「ただ傑の家にお邪魔していた帰りよ。まあ追い出されちゃったんだけど…ねえ楓?今日だけ、泊めてくれないかしら?」
その声は、妙に耳障りで、擦れた鉄板を引きずるような不快な響きがあった。
それは、まるで俺の神経を一本一本
ゆっくりと逆撫でするかのような、そんな忌まわしい声だった。
その一言一言が、俺の脳裏に過去の悪夢を鮮明に呼び覚ます。
耳の奥で、かつての罵声や冷酷な言葉が再生されるような気がして全身が震えた。
「も、もう兄さんにも俺にも関わらないでください。俺は…兄さんのことしか家族として認めてないんですよ。あなたを泊める義理もありません」
俺は精一杯の力を振り絞って言い放った。
声は震えていたけれど、それでもはっきりと伝えることができたと信じたかった。
だが、母親はまるで俺の言葉を聞く気がないかのように
さらにもう一歩、俺たちの空間へと踏み出した。
そして、甘ったるい声音で囁いた。
「あら、つれないのね。私だって寂しいのに」
その声が俺の脳を揺さぶり、過去の悪夢が鮮明に蘇る。
あの頃の苦しみが、まるで昨日のことのように五感を伴って蘇ってくる。
俺は思わず両手で耳を塞ぎたくなったが、隣にいる仁さんの存在が俺を支え
なんとかその場に立っていた。
仁さんの温かい手の感触だけが、俺を現実世界に引き戻し、今にも崩れ落ちそうな精神を繋ぎ止めていた。
そんなとき、瑞希くんが言葉を発した。
「おばさん、あんた楓の母親なの?」
彼の表情は怒りに染まり、その目に宿る光は鋭かった。
瑞希くんの問いかけには、明らかな不快感と、少しの威圧感が含まれていた。
母親は、瑞希くんの問いに一瞬だけ視線を投げるが
すぐに無関心に戻り、俺の方だけを見つめ続ける。
まるで瑞希くんの存在が、彼女の視界にすら入っていないかのようだった。
その露骨な無視が、瑞希くんの怒りをさらに煽った。
「こいつ迷惑してるみたいなんで、この辺で引き取ってもらってもいいすか?」
再度発したその声には明らかな敵意が滲んでいる。
彼の声は低く、そして怒りで微かに震えていた。
瑞希くんの怒りが、肌で感じられるほどだった。
それでも母親は瑞希くんの言葉に一切反応せず
ただ不気味な笑みを浮かべながらゆっくりと口を開いた。
「ふふ、楓ったらいいお友達がいるのね?」
その声は、嘲笑を含んでいるようにも聞こえた。
まるで子供の戯言を聞くかのような軽蔑が、その声の響きに含まれていた。
そして、さらに追い打ちをかけるように、俺に語りかける。
「……にしても楓、あなた、そんなに傑のこと頼して大丈夫なのかしら」
急に意味深なことを言い出す母親に、俺は眉をひそめた。
その言葉の真意が掴めず、不穏な空気に全身が包まれる。
全身の神経が逆撫でされるような、不快な感覚が広がった。
「……どういう意味ですか」
俺がそう問うと、母親はクスクスと笑い、まるで勝ち誇ったような笑みを浮かべた。
その笑みには、底知れない悪意と俺を陥れようとする明確な意図が隠されているように感じられた。
「中学生のころにあなたが拉致監禁されたとき、覚えているでしょう?」
その言葉が、俺の脳裏に氷のような冷たさで響き渡った。
あの悪夢のような出来事。身体が硬直する。
「…っ、そ、それが、なんだって言うんですか」
俺の声は、もはや震えを隠せない。
言葉を発する度に、喉が引き攣るような感覚に襲われた。
「ふふふ…っ、可哀想に。なにも話してもらっていないのね?」
「さっきから何を訳の分からないことを……」
俺の動揺を嘲笑うかのように、母親は言葉を続けた。
「あなたが何年も用してきたお兄ちゃんは、その拉致監禁に手を貸してた、つまり幇助してたってこ
とよ」
瞬間、俺の中で何かが弾けた。
その言葉は、まるで毒を塗られた刃のように俺の心を深く抉っていく。
目の前が真っ白になり、世界から音が消えたようだった。
それまでの街の喧騒も、仁さんたちの息遣いも全てが遠のき
頭の中には母親の言葉だけが、呪文のようにこだまして、全身の血の気が引いていくのが分かった。
兄さんが、俺を…?そんなはずはない。
だって兄さんはいつも俺の側にいて、俺のことを守ってくれていた。
どんな時も、俺の味方でいてくれた。
あの時も、助けに来てくれたのは兄さんだったじゃないか。
俺を救い出してくれたのは、誰でもない優しい兄さんだったはずだ。
固まって何も言えなくなった俺に、母親はさらに続ける。
「あのとき、電話したら傑はすぐ来てくれたんでしょう?リプスロに脅されて出来の悪い弟を売ったはいいものの、罪悪感があったのねぇ、きっと見張っていたんだわ」
その言葉が俺の頭の中を駆け巡る。
理解が追いつかない。
目の前の光景が歪んで見えた。
彼女の言葉は、俺の過去と現在を繋ぐ細い糸を
根元から断ち切るうとしているようだった。
「……はは、嘘、だよ…そんなわけ、ない」
低く唸るような声が喉の奥から絞り出された。
その声は、もはや俺自身の声とは思えないほど乾いて、掠れていた。
気がつくと手は震えていた。
手のひらにじわりと汗が滲む。
全身から熱が引いていくのが分かった。
心臓の鼓動が、恐怖と混乱で激しく波打つ。
「俺の兄さんがそんなことするわけが……っ!」
信じられない、信じたくない、現実じゃないよ
だが、母親の言葉が、俺の心に深く深く刺さる。
その言葉が、俺の心の中で膨れ上がり全身を支配しようとしていた。
「残念ねえ…可哀想な楓」
「デタラメを、言わないでください……っ、悪い冗談にも、程がある…」
俺は兄さんとの思い出を必死に思い返していた。
幼い頃から、いつも俺の隣にいた兄さん。
勉強もスポーツもできてみんなの人気者で
母親に人格否定、22差別をされて虐げられてきた。
そんな俺を見捨てないで、いつも気にかけてくれた兄さん。
俺が困っていると、すぐに手を差し伸べてくれた。
あの温かい眼差し
安心させてくれる声
あの頃の記憶が走馬灯のように蘇る。
温かく、優しく、時には厳しくも
常に俺を導いてくれた兄の姿が鮮明に脳裏に焼き付いている。
だけどあの日、助けに来てくれた兄さんは、確かに俺の電話に応えてくれたのだ。
それが、罪悪感から見張っていた結果だと言うの
か?
その疑念が、俺の心を蝕んでいく。
過去の美しい思い出が、母親の言葉によって歪んだ色を帯び始める。
母親は相も変わらず不気味な微笑みを浮かべながら
「まあ、本人から聞けばいいわ。きっと、あなたにそう聞かれれば青ざめるでしょうから…ふふっ」
とだけ言い残して、夜の闇に吸い込まれるように消えていった。
まるで最初からそこには何もいなかったかのように、彼女の存在は跡形もなく
瞬く間に消え去った。
その場には、ただ冷たい夜風と、俺の震える息遣いだけが残された。
俺は、その場に立ち尽くしていた。
足が震えているのがわかる。
膝がガクガクと震え、今にも崩れ落ちそうだった。
さっきまで酔っていたはずなのに、頭の中は急速に冴えわたって
兄さんが俺を売ったという衝撃的な話が鉛のように重くのしかかる。
その事実が、脳内で何度も反響し、俺の思考を麻痺させる。
俺の信頼の象徴であった兄が、実は裏切り者だったという可能性が、俺の心を深い闇へと引きずり込もうとしていた。
「………っ」
言葉が出ない。全身が連れたように動かない。
「…くん……楓くん!」
仁さんの声が、遠く、ぼんやりと聞こえた。
その声にハッとして、俺は我に返った。
仁さんは俺の肩を掴み、必死に呼び掛けてくれていたようだ。
心配そうに俺を覗き込むさんの視線が、俺の心を揺さぶる。
将暉さんも瑞希くんも、固唾を飲んで俺を見つめていた。
「楓くん、大丈夫か?」
「えっ?だ、大丈夫……です…」
俺は弱々しくそう返したけれど、とても平気なはずがなかった。
体中の震えが止まらない。
どうしようもなく動揺している。
脳内では、母親の言葉と兄さんとの思い出が、激しくぶつかり合っていた。
(兄さんが俺を…)
信じられなくて混乱する。
そんなはずは…と思う一方で、母親の言葉がまるで呪いのように頭を離れない。
あの日、救いに来てくれたのは助けに来てくれたんじゃなくて罪悪感に苛まれて……?
その疑念が、俺の心を蝕んでいく。
頼していた兄の裏切りを想像するだけで、全身の血が凍るようだった。
「楓くん……」
仁さんの声が、再び遠く聞こえた。
その心配そうな声が、俺の心をさらに締め付ける。
しかし俺は一人になりたくて、この混乱を一人で抱え込みたかった。
誰にも見られたくなかった。
「すみません、うちの人が。早く帰りましょっか」
俺は無理に笑って誤魔化した。
その笑顔は、きっとひきつっていたに違いない。
それでも俺は、誰にも心配を掛けたくなくて
その場から一刻も早く立ち去りたかったんだ。