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店に入り、高原が名乗るとすぐに窓際のテーブルまで案内された。
いつの間に予約を入れたのかと不思議に思ったが、社長も来るのだとすれば、それもそうかと納得する。
足元に置かれた籠にバッグを入れてから、私は高原に訊ねた。
「社長は何時頃いらっしゃるんですか?」
ひと呼吸程の間をおいてから、彼はぼそっと言った。
「……いや、来ない」
「急においでになれなくなったのでしょうか?」
単純な疑問である。
答えを待つ私から目をそらし、高原はふうっと息を吐き出した。
「すまない。嘘なんだ」
「えっ?」
予想していなかった答えに驚き、私は思わず前のめりになる。
「嘘?社長はいらっしゃらないんですか?」
「あぁ、もとから親父が来る予定はなかった」
高原は表情を変えずに淡々と言う。
「そんな……」
初めから社長が来る予定がなかったのであれば、高原が取った行動の意味が分からない。状況を整理しようとしてはっとする。もしも大木がこのことを知ったらと、ひどく憂鬱になる。
「何かの折に、社長がうちの会社の者の前でその話に触れるようなことがあったら、私、ものすごくまずいのですが」
「親父には、君を待っている間に電話した。口裏を合わせるように頼んでおいたから心配しなくても大丈夫だ。あの人は君を相当気に入ってるみたいだから」
「でも、そんなことを社長にお願いしただなんて……」
「親父には貸しがあるからいいんだ。むしろ早瀬さんのためだって言えば、親父は喜んで協力する。でもそんなに気になるなら、この後本当に親父に会いに行っても構わない。そうなるとたぶん、帰りにくくなるだろうけど」
「帰りにくくなる?」
高原は面白がってでもいるような顔で私を見た。
「早瀬さんは親父のお気に入りなんだろ?君を連れて行ったら、親父はきっと大喜びだろう。しつこく引き留めるかもしれないな」
その可能性がゼロのようには思えない。私はこめかみを指で押さえながら、高原に言った。
「……とりあえずは、分かりました。でも、どうしてこんなことを?社長まで巻き込むようなことをして」
「それは」
高原はメニューを開きながら言う。
「早瀬さんが、お腹を空かせてまで仕事を頑張っていたようだったから、だな」
「え?」
「別室に移動する前に、君、少しだけ俺から離れた時があっただろう?その時、女性二人の話が聞こえてね。小声で話していたつもりだったんだろうけど、俺、耳がいいんだよ。その会話から、君が昼休みを取らずにずっと仕事をしていたことを知ったんだ。なんとなくだけど、彼女たちの話しぶりからその理由も推測できた。だから、余計なお世話だとは思ったけれど、君を誘ったんだ」
「えぇと……?」
高原の言葉に頭が混乱しかける。
「それだけのために、社長の名前を出したんですか?」
「それが一番もっともらしく聞こえる理由になると思ったからな」
「どうしてそんなこと……」
「見かねたんだよ」
「何を?」
「早瀬さん、自分で気づいていなかったのか?ひどく疲れたような顔をしていたぞ。あれでよく人前に出られたものだ」
そんなにひどい顔をしていたのだろうかと気になって、私は慌てて自分の顔に手を当てた。
高原がにやりと笑う。
「安心していい。今はあの時ほどひどくはない」
まったくいちいち嫌味な人だと不愉快になる。しかしその気持ちを押さえ私は訊ねた。
「でもどうしてですか?私のことを気にかけて頂かなくても良かったのに」
一度言葉を切り、眉根を寄せて付け加える。
「だってあの飲み会の日の高原さんは、私のことなんか嫌いだっていう態度でした。気を遣われたって、正直今さら感しかないのですが」
嫌味には嫌味でと思って言ったつもりだった。それなのに高原は急に真顔になり、ふいっと目を逸らした。
「あの時は……緊張してたんだよ」
あまりにも彼に似つかわしくない言葉に驚き、丁寧語を使うことを忘れる。
「緊張?あなたが?だから最初から最後までずっとあんな態度だったって言うの?」
「それは……」
彼は目を泳がせる。うっかり口を滑らせてしまった、とでもいうような顔つきだ。
そこへ店員がやって来た。
「ご注文はお決まりでしょうか?」
高原が私に訊ねる。
「好き嫌いはある?」
「……いえ、特にはありませんが」
「それじゃあ、このお任せパスタコースを二つ。デザートは食後に」
「かしこまりました」
店員の後ろ姿を見送り、私は高原に顔を向けた。
「あの、コースって……」
「勝手に注文して悪かった。だけどそうしないと、早瀬さんは飲み物くらいしか頼まないんじゃないかと思ったから。とりあえず食べられるだけ食べればいい。残したって構わない。もったいないって言うんなら、残った分は俺が食べてやる」
御曹司に残り物を食べさせるなど、そんな失礼なことをできるわけがない。
「いえっ、大丈夫です。全部頂きます」
私が背筋を伸ばして答えるのを見て、高原は愉快そうに笑った。
今日何度目の笑顔だろうか。彼が笑う度に、私はいちいち落ち着かない気分になった。
料理が運ばれてきた。立ち上る湯気と一緒にいい匂いが流れてくる。途端に猛烈な空腹感に襲われて、私はごくりと唾を飲んだ。
「どうぞ。腹、減ってたんだろ?」
「えぇ、とても。では、いただきます」
私は早速フォークを手にした。目の前にあるのは大好きなカルボナーラ。ベーコンが大きめにカットされていた。噛みしめるようにしながら食べ進めていく。その満足感は、クッキーを数枚食べただけの時と比較にならない。
パスタの量が半分ほどにまで減った頃だった。
「うまい?」
高原の声にはっとする。食べることに集中していて、彼が目の前にいることを忘れてしまっていた。わざわざ私のことを気にかけて、ここに連れてきてくれたことを思い出し、ひと言も喋らずに食べてばかりいたのは失礼だったかと少しだけ反省する。
「とても美味しいです。ここのお店って、なんでも美味しいんですよね」
「そうなのか。……あ」
彼の手が伸びてきたかと思ったら、私の下唇を親指でそっとなぞった。
驚いて私は体を引いた。頬が熱くなる。
「な、何するんですか!」
「何って、ソースがついてた」
高原がにっと笑ってその指を私に向ける。
確かによく見ると、そこにはたった今ふき取ったと思われるパスタソースがついていた。
勘違いした自分を恥ずかしく思う。しかし、わざわざ紛らわしい拭い方をする彼も悪いと苛立つ。
私が眉間にしわを寄せていることなど気にした様子もない。彼は指についたソースを舌先でぺろりとなめ取った。
「なっ……!」
絶句している私と皿に交互に目をやってから、彼は憎たらしいくらい涼しい顔で言った。
「まだ残ってるぞ」