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「ウォーウォーイェーイェー」
カーステレオから流れる人気アイドルグループ、PK24の曲を元気よく口ずさみ、後藤田道明は車を走らせていた。友人の大樹と、金沢で開催されたPK24のコンサートを観て、心浮き浮きな興奮状態だ。
PK24は、可愛らしさ満点の少女たちで、それにも増して、踊りだすと大人の女の魅力を見せてくれる。男たちにとって、この新鮮なエロチックさは、かけがえのない生きる張り合いをもたらせてくれる。
金沢市まで、一時間半かけてコンサート会場へ行き、日ごろの鬱憤を晴らした。帰りは、行きより早く感じた。時間的にはさほど変わらなかったが、浮わついた気分が時間をも早く感じさせるのだろう。
「だいぶ遅くなったな」
もうすぐ夜の十一時になる。
後藤田道明は、運転しながら車の時計を指して、「近道するか!」と、田所大樹が嫌がるのは分かっていたが、敢えて促した。道明は、明日も仕事なので、少しでも早い方がと思い立ったのだ。
大樹は、PK24の弾けるような今日のコンサートを思い浮かべて、首をくねくねさせて、「あの道はー、不気味だからな~」と、リズムに乗せて歌ってみせた。
「明日は大樹も仕事だろう」
「そうだよ~」
相変わらずノリノリで、首をくねくねさせた。
大樹の返事を待たずに、国道から横道に逸れて、道明はその道へと入り込んだ。
「相変わらず暗がりだな」
大樹は、止めとこも言わずに、道明のするがままに身を任せた……とは、ちょっと大袈裟だが、その道は薄気味悪いだけで、近道には間違いなかった。
逸れた道から、農道と言われている狭い道に入り込んだ。国道を走る車のヘッドライトも、殆ど見えなくなってきた。
“脇に落ちるなよ”と、自分に言い聞かせる。
ぐっと狭く離合は出来ない、周りは畑だらけの道。ここを抜けると地元の針谷町に、少なくともニ十分は早く到着できる。実際に計ったことはないが、昼間は地元ドライバーがかなり利用している。
軽い上り坂で、林の中に入り込む。周りには数軒の農家があるが、飛び飛びでポツリポツリ灯りが灯る程度で、本当に人が住んでいるのかという寂しい感覚に陥る。
林の中に入ると、まったく灯火はない。車のライトが道を明るく照らすだけで、くねくねした道からたまに林の中を照らすくらいだ。奥行きは暗がりでまったく見えないが、道明はところどころで、奥の方から動物の目が光るのを一瞬だけ捉えた。不気味さを感じる。車のアクセルを踏むだけで、その光は消えていく。暗がりを通行する時には、たまにあり得ることなので、深くまでは考えないようにした。
「不気味だな、ここは……」
さっきまでノリノリだった大樹は、助手席の窓から林の奥を覗き込んだ。
「これさ~、外歩いたら怖いだろうな~」
わざとらしく震える声を出した。
「それに髪の長い女性でも立ってたら、どうなるだろうな?」
「ふっ、卒倒するだろうぜ」
道明は、含み笑いをして大樹を見た。
大樹は、相変わらず窓から林の中を見ていたが、手だけを道明の方に挙げて、五本の指で手招きしながら、「おい、おい」と、呼びかけてきた。
「どうした?」
こんな場所で何かを見たような素振りをされると、ひんやりとしたものが背筋を流れ、ピクピクっと身体全体が反応した。
「林の向こうから……なんか靄がかかってきてるぜ」
道明は、早くこの薄気味悪さから退散したかったが、アクセルを緩めてスピードを落とした。こんなところで脱輪でもさせたら、それこそ大変だ。車をゆっくり走らせ、十メートル先くらいか、大樹が見ているウィンドウから外を見た。
「本当だ、霧じゃないよな……。なんか、おっかねぇな」
道明は、ゴクリと喉仏を動かした。
「やだねぇー、早く抜け出そう」
大樹は、ウィンドウに吸い付くように外を見つめたままだ。
「早く行こうぜ」
気忙しく急かした。
「はははっ、怖くなったか」
道明は、笑いながら大樹をからかったが身震いを感じた。それでも、PK24の曲のお陰で明るさは保て、狼狽えることはなかった。
漸く大樹は前を向いて、PK24を口ずさみだしたが、メロディーの一番も進まないうちに、「あっ!」と、声を出した。人差し指で指した先には、四つ足で歩く後ろ姿が見えた。
「犬か?」
道明は、すぐさま声が出た。林間の、人ひとり入れそうな道らしき細い隙間を、一匹の犬のような動物がトントンと、跳ねるように林の奥に入っていくのが、はっきり見えた。
「ん? 犬か」
大樹が目で追っている間に、奇妙な四つ足の動物は見えなくなり、靄の中に消えて行った。
車は低速を保っていたが、道明はアクセルを踏み込んだ。ゾクッゾクッとした。
「あれ、犬か?」
大樹は、見た目だけは犬らしき動物で、違う種類だと思った。
「ん?」
道明はゾクッとした身震いを、軽快なPK24の曲で拭ってから言った。
「俺はキツネに見えた」
「やっぱりな……」
「えっ、大樹までそう見えたか!」
「おまえもキツネに見えたか?」
道明は聞き返した。
大樹は、両手の人差し指を立てて両耳に当て、「あの耳、尖ってたぞ」と、思い返した。
「確かに……」
道明は頷いた。
「それに、あの歩き方見たか?」
今度は、大樹が頷いた。
「飛び跳ねるような感じだった」
二人は少しの間、不安が頭を掠めて押し黙った。
「靄が酷くなってきたな」
沈黙を嫌っていた大樹の意が通じたように、声を出さずにいられない状況が目の前に表れた。靄が運転する道明の目の前まで表れてきた。走っている道にも、ところどころで靄が増してきた。
「急いでるんだけど、なかなか抜けないんだよな、この道」
道明は、ほんの少し前からおかしいと感じていた。大樹は道明の顔を見て、不安心を察する表情をした。
「なんか、やばくない……。さっきから同じところ廻ってる感じがするんだけど?」
道明はドキッとした。
「やっぱり同じとこ廻ってる、おまえもそう感じるか……」
大樹は、広がってくる靄を見つめながら頷いた。
「あれっ!」
大樹は、道明の鼓動が高鳴るほどの叫び声を上げ、指でフロントガラスの先を指した。道明は、血の気が引くのを感じた。大樹が指で指した先は、さっきキツネ擬きが入り込んで行った林間の細い道だ。
「ええっー、脇道なんかに入り込んだ覚えはないぞ!」
道明は真面目顔をした。
「確かに」
大樹も納得した表情を見せた。
「抓まれてるのか?」
「まさか、キツネにか?」
「そうだよ、小さい頃、聞いたことないか」
大樹は小さい頃、おばあちゃんと一緒に寝た時に聞かされた、キツネが人を化かす話を思い出した。
「そう言えば、ここら辺りに、キツネを祀っている神社があるってのを聞いたことがあるな」
道明も、記憶の奥に隠れていた、おばあちゃんが語った昔話を、子供の頃に恐々聞いていたことを、瞬間的に思い出した。二人はゴクリと生唾を呑み込んだ。
道明は、靄で道が見えなくなったせいでアクセルを緩めた。
「俺たち帰れるか?」
本当に不安になったようで、道明まで伝染するような言葉遣いをしてきた。辺りは、だんだん竹林に変化してきた。車のライトが照らすところだけ道は見えるが、横はまったく見えない。車だけじゃなくて、道明たちも雲の上にいる感覚を受ける。
「なんだよ、空飛んでんぞ!」
冗談っぽく聞こえたが、大樹の顔は真面目だった。
「最悪、引き返そう」
道明は、平然と言ったつもりだったが、顔は引き攣った。
「引き返すって、どこで方向転換すんだ?」
とても方向転換できるような場所はなさそうだし、なんと言ってもこの靄だ。
“無理だろう……”が、大樹の今の心境だ。より一層と不安が募った。道明が、落ち着くように息をいっぱい吸い込んで、吐き出そうとした時、大樹がまた鼓動が高まるような声を出した。
「うわっー!」
「な、なんだよ!」
道明は、心臓が止まるんじゃないかと思うくらい驚いた。また大樹が、フロントから先を指差した。竹林の間にキツネが倒れていた。
「えっ!」
道明はブレーキを踏んで、通り過ぎた竹林を振り向いて見た。竹林の隙間から、キツネが倒れて寝込んでいるのが見える。
「首が動いたぞ。怪我してんのか?」
大樹と目線を合わせ、頷き、考えていることは同じだろうと、「ちょっと降りてみるか」と、言ってみた。
「えっ、この気味の悪いところで降りんのか!」
気味悪いところであるというのは一致していたが、思ったことは違っていた。
「小さいぞ、あれ子供だぞ」
道明は、子ギツネが苦しんでいるのが妙に気になって、可哀そうだという心持ちが強くなった。
車を止め、サイドブレーキをしっかり引き、ハザードランプを点滅させた。こんなところに車が来るとは思えないが、用心のためだ。気味の悪さを考えてしまうと、降りることができない。
道明は勢いでドアを開けた。静けさの中、“カチャ”とドアが開く音が、何百メートル先まで響く。地面は山道そのままで、でこぼこで石が散乱していて、踏み足を滑らせる。
懐中電灯を持って二人とも車から降り、子ギツネの方へ行こうとした時、ふと気づいた。
靄が消えていた。
大樹と目を合わせた。お互い、声を発することはなかった。
〈不思議だ。あれだけ靄が出ていたのに、竹林の奥の方すら翳んでいない。こんなに早く褪めるか?〉
きっと大樹も思っているだろうと、声をかけようと思ったが、怖さが一層増しそうで躊躇した。
竹林の、ほんの数メートル先のところに、子ギツネは横たわっていた。道明と大地は、狭い竹林の間を通り子ギツネに近づいた。
「ワォー、これはいかん、血が出ている」
子ギツネは、“クンクン”と、顔を持ち上げ、道明たちを見つめた。目は潤んでいるように見える。
「助けて! って言ってるのかな?」
大樹は、痛さに嘆く子ギツネの顔を見て、周りの薄気味悪さも忘れて優しさを見せた。
子ギツネの後ろ足は、人間が仕掛けた鉄製輪状の罠に挟まって、出血が酷かった。
「ひでぇーことしやがるな」
道明は、足に挟まった輪っぱの罠を両手で開こうとしたが、堅すぎてビクともしない。
「こりゃ、埒があかねぇーや」
大樹は何もしてないが、道明の代わりに言い、バールか何かあるかと車の方を見た。
「んーっと、ジャッキのバールがあるな」
道明は考え込んだ後、思い出したように言い、懐中電灯で車を照らした。
「リアを開けて、ジャッキのバールを取ってきてくれ!」と言われた大樹は、「えっ、俺が!」と周りを見たが、足に挟まった輪っぱを懸命に開こうとして、道明の額の血管が浮き出ているのを見て、「分かった」と、踵を返して急いで車に向かった。
暗い林の中、車のハザードが眩しく光っていたが、竹林の先端部の葉でほとんど隠れていた。子ギツネが倒れている場所は、微かに月明りが差す程度の暗がりで、周りは見えないに等しい。不思議なことに、二人が傷ついた子ギツネのところに現れると、竹林の先端の葉が風で靡き、倒れ込んでいる子ギツネの位置を夜空の明かりが照らしてくれた。
不思議な出来事だが、二人は周りの不気味さに堪えるのと、子ギツネを助けるのに必死で、そんなことは気づきもしない。
「もうちょっと待ってろ、助けてやるからな」
クンクン鳴く子ギツネに、道明は優しく語りかけた。
大樹は、車のリアを開けバールを取り出す時に、ビニール袋に入っている救急セットが目に入った。
〈子ギツネに効くかな……〉
そう思い、バールと一緒に持って行こうと取り出した。周りを一瞬見渡し、虫の鳴き声さえ聞こえない不気味さに不安を増幅させられ、早く道明の元へと焦った。おかげで、散らばっている小石に足を取られ、前のめりに転げてしまった。
「痛ぇ!」
「どうした?」
道明の声が、暗闇を突き刺すように聞こえた。
大樹は痛さを堪え、「ちょっと転けちまった……」と言った。その声は、自分の声か? と思うほど、闇夜に透き通った。
「持ってきたぞ」
ほんに近い距離なのに、ハァハァと息遣い荒く、大樹は息を切らした。
「なんでそんなに息切らしてんだ?」
「いろんなことが重なってな」
道明は何のことか分からなかった。
とりあえず、子ギツネの足を挟んでいる輪っぱにバールを差し込んで、梃子を利用して引っ張り開けた。
「開いた開いた!」
大樹が喜んだ。
「大樹! 早くキツネを出せ」
大樹は、クンクン鳴く子ギツネを罠から引き出した。
「ふぅー」と、道明は息を吹き出して、バールを引っこ抜いた。パチン! と輪っぱが、音を立てて閉じた。
「この勢いじゃ、骨が折れてるかもな?」
「この罠、尖ってなかったのが幸いだな」
そう言いながら、道明は子ギツネの頭を撫でた。
「とにかく良かったな、コンコン」
撫でながら道明はホッとして、ニコリとして子ギツネの潤んだ目を見つめた。
「うん、良かった」
大樹も一緒に喜んだ。
「そうだ、傷の手当てをしなきゃ。道明の車のリアに救急セットがあったから、ついでに持ってきた」
「そうよそうよ、救急セット。一週間前に会社で救急法の講習会があったんだ。その時、救急セットもらったんだ。でかしたぞ大樹!」
「ははっ、別に大したことじゃないけどね。第一、道明のもんだからな」
大樹は、謙遜にもならない笑顔を見せた。
「このままじゃ傷口から感染して、病気になっちゃうぞ」
大樹の言うのはもっともだ。
「消毒してあげよう」
救急セットから消毒液を取り出して、傷口に塗ることにした。
「大樹、痛がるだろうから、ちょっとコンコンを押さえておいてくれ」
道明たちは、子ギツネのことを自然にコンコンと呼ぶようになった。
子ギツネを助けてあげることに集中しているせいか、周りの不気味さの蟠りと、びびりの塊は溶かされている。
道明は、傷口に消毒液を垂らした。
「クンクン、クンクン」と、子ギツネはバタついたが、大樹は子ギツネの高い鼻の辺りを撫で、道明は、「大丈夫だ、大丈夫だ」と、子ギツネを宥めた。
「ウゥーウゥー」
きっと泣き声だろう。消炎剤を傷口に吹き付ける。コンコンの泣き声は、親に届け! とばかりに闇夜に響く。
「我慢しろ、コンコン」
ガーゼを軽く当て、包帯まで捲いてあげた。
「よし、これでいいぞコンコン」
子ギツネは小首を捻って、“うんうん”と、返事をしたように見えた。ホッとした気持ちが強くて、道明たちにはそう見えたのだろう。
「でも、このままじゃ歩けないよな」
大樹は何かする訳でもなく、相変わらずタメ口っぽく道明に指示するように語る。
「そうだな、歩けないと野垂れ死ぬな」
道明は、大樹の言うことにすぐ反応する。
「その辺に木切れがある。それを足に当てて固定させよう!」
「ギブスみたいなものか」
「そうだな、当て木は講習会で習ったからな。よし、その小木を当てよう」
先っぽに尖った鉄が付いた、緊急時にフロントガラスを割るための、携帯用のカッターナイフがいつも車に備えつけてある。道明が、それを急いで取りに行き、小木を平に削った。
「よし、これで固定しよう」と、大樹にコンコンの足を軽く持ってもらい、折れた足に当て木をし、更に包帯で巻き付け固定させた。
「よし、コンコン、これが精一杯だ」
道明は高い鼻を撫でて、「しっかり生きろよ」と、励ました。
「キツネを励ますなんて、この世で俺たちだけだろうな」
大樹は道明を見て、思いもよらない出逢いに嬉しそうに笑った。
「そうだな」
道明もホッとしたような安堵感を見せた。
「よし、立たせよう」
道明がそう言ったが、大樹の返事が返ってこない。道明はコンコンを撫でながら、立ちつくす大樹を見た。唖然として一点を見つめる大樹の視線の先を辿るように目線を移すと、氷を呑み込んだようにヒヤリとした。
「おい……」
金縛りか、大樹は返事が返せない。
「おい!」と、強く言うと我に返った。
「あれ見ろ……」
大樹は、先を見つめたまま漸く言葉を発した。
「あぁ、見てる」
視線の先には、闇夜に光る何十もの目が見える。
「親ギツネか? 襲われるぞ。キツネが人間襲うか?」
大樹は独り言で対弁して、ひとり頷いた。
「たぶん、子ギツネを助けに来たんだろう」
「でも、数が多すぎるな」
暗闇の中、何匹いるか分からないが、ハッキリと光り輝く目は気味が悪くなるほどの数だ。
“十匹はいるのでは”との感覚を覚える。
「これがオオカミだったら、俺たちの身体はないだろうな」
「ないとか不吉なことを言うなよ……」
道明も、それを聞いた時は血の気が抜ける思いだった。
「大樹、とにかくコンコンを起こし立たせよう。よし、コンコン立つんだ!」
「ウン、クン」
たぶん、痛がっているのだろう。道明は親ギツネが襲ってこないか、手が震えそうなくらい心配だった。
「コンコンを虐めてるように見てないかな。怪我させたとかさ。罠を俺たちが仕掛けたとか……」
大樹がすべて、道明の思いを代弁してくれた。
「だから立たせて、親ギツネの方へ行かせるんだよ」
「そうだな」
大樹は怖さのあまり、道明の傍に寄り添い、一緒にコンコンを抱え上げた。クンクンと鳴いてはいたが、少しつんのめっただけで立つことは出来た。
道明たちは、支える手をコンコンから離さず、ゆっくりとコンコンの歩を進ませた。コンコンはぎこちなく前足を出して、怪我をしてない方の後ろ足を前に出した。固定した足を引きずるように出したが、自分から前に進もうとした。
道明たちは支えていた両手を、コンコンが歩んでいく方向にゆっくり差し出し、「がんばれよ」と、声をかけた。
コンコンは、ぎこちなく歩きだした。
「いいぞ、いいぞ!」
道明は、周りの不気味さと怖さを忘れて、思わず微笑んだ。
「その調子だ」
道明は軽く手を叩いた。
「あの子、強くなるぞ」
大樹も嬉しくなったのだろう。そう言った直後、目をキョロキョロさせ始めて、震えるような声を出した。
「おい」
道明も大樹に言われ、周りを見渡し、光る目のあまりの数に度肝を抜かれた。
〈いつの間に増えたんだ……〉
コンコンを治療する前は、十匹程度と思っていたが、周り一面に、キツネの影がうろうろしているのを肌で感じた。竹藪の奥の方まで、目の光が無数に見える。
「なんかヤバくない」
怖さを通り超した、大樹のやけくそじみた言い方に聞こえた。
「確かに……。あんまり留まるのは感心しないな」
「ゆくり退散しようか……」と、ひそひそと語り立ち上がった。
「走った方が良くない?」
大樹から急かされたが、「走ったらコンコンがびっくりするかも?」と、そっちの気遣いの方を思った。
「そうだよな、走ると逆に追いかけて来るかもな。獣は特にそうだとテレビで言ってたな」
お互い考えることは違ったが、答えは一致した。
「よし、車にゆっくり戻ろう」
大樹から、スローペースで歩を進めだした。大樹は捨て鉢のような台詞を吐いていたが、歩く姿は恐々な霊気が漂って見える。
コンコンは固定した足を引きずるように、落ちた葉っぱを踏みつけながら、親? キツネの元へ、シャリシャリと音を立てて、必死で歩いていくのが分かった。
大樹と一緒に葉っぱの上を歩く足音は、シャリンシャリンと甲高く、二人を見つめるキツネたちを刺激しそうで焦りがピークに達した。
前を行く大樹が走り出しそうで、道明は、「大丈夫、コンコンは親元に行けそうだ。ゆっくりだ大樹!」と、宥めた。
走り出しそうだった大樹は、それを聞いて安心してゆっくり車の助手席に辿り着いた。
道明は、運転席のノブに手をかけた時、思いきって振り返り竹林の中を見た。あれだけ光っていたキツネの目は、何処にも見えなかった。
“ふぅー”と息を吹き出して、安堵したのか、耳を澄ましてコンコンの足音を聞こうと集中したが、まったくの無だった。
大樹は、早く早くと手招きしている。
道明は周りを見渡しても、恐れおののく恐怖感はまったく感じなかった。むしろ、清々しさを感じた。
運転席に座ると、「早く出ようぜ!」と、大樹は相変わらずのせっかちさだが、「大丈夫だ、キツネたちは一匹もいない」と道明が言うと、大樹は不思議な顔に変化した。
「なんで……?」
「分からん……」
道明は呆気なく答えた。
車を走らせ、「遅くなったな。急ごう」と、時計を見ると、日付が変わって零時を過ぎている。
「朝起きれっかな」
大樹は、いつもの剽軽ぶりを見せた。五分も経たずに大通りの国道に出ることができた。
「なんか、さっきまでの、迷ってぐるぐる廻ってたのが嘘のようだな。化かされたんだろうな……」
道明は、微笑んだ。やっと家に近づいた。
「キツネにやられたな。ははっ!」
「そうだろうな!」
大樹は笑った後、言葉を忘れて凍りついた。
突然黙った大樹をチラッと見て、「どうした? 気分屋だな」と、呆れて言った。
「道明よ、おまえ、さっき何時って言った?」
「ハァー?」
呆れが宙返りした。
「零時過ぎ……」
そう言って口が止まった。
“まさか!”
二人とも、車の時計を確かめるように見つめた。
「十一時前、十時五十分! ハァ――!」
道明は仰天した。
「さっき車に乗る時、零時過ぎてたよな」
「あぁ、俺もはっきり覚えてるよ。近道に入る前と同じ時間だぞ……」
大樹の答えに、道明の頭はこんがらがって来た。車は、道明の驚きでふらふらしている。
道明は、腕時計を見て確かめた。
〈十時五十二分、間違いない〉
道明は思い出した。
「確かに、さっき車を発進する時、腕時計を見た。零時は過ぎていた。間違いない」
大樹に自信満々に、さらには自分にも言い聞かせるように、道明は声を出した。
もうすぐ大樹の家に辿り着く。何が何だか、頭の中はからからに渇いた。
「キツネに抓まれたな」
道明の結論に、大樹の渇いた頭から出たのは、「やっぱり、抓まれたんだな」という言葉だった。
二人は考えることも出来ず、笑うしかなかった。
「後藤田君! 何ボォーとしてるんだ!」
上司の国立昭雄に、一喝浴びせられた。
「あっ、はい、すいません」
道明は、ボォーとしていた訳じゃなくて、コックン、コックンと居眠りをしていた。
「まったく、しっかりしてよ」
女型で、実に嫌らしい言い方をしてくる。道明が一番の虐められ役だ。若い新米の道明が、国立の“竹屋の火事”の的になっている。
銀行の窓口で居眠りをする道明も、どんなものかの趣があるが、昨日はあの出来事で眠れなかった。コンコンに出会したとか、キツネに囲まれたとかいうことじゃなくて、あの“消えた時間”のことを考えると、眠れなくなったのだ。タイムスリップとかの絵物語ではなく、どう考えても解せない不思議な出来事だ。キツネのことを考えた。そんな浮世の物語が、本当にあるんだろうか?
道明は現実的な男だ。幽霊も信じないし、テレビでよくある超能力とやらにも興味はない。マジックの一言で済ます。だが……、今回ばかりはマジックじゃ済まされない。現実的な男が、現実に不思議な体験をしたのだ。どう考えても結論は出なかった。
コンサート会場を出た時間、行きも帰りも時間的には変わりはない。車に乗っていれば、合間に時計を見る。間違いはない! 記憶に霞もないほどハッキリしている。キツネに抓まれた、まさか? そんなことを考えていると、頭の中が冴えわたって、眠りについたのは夜が明けそうなころだった。
「後藤田! まだボォーとしてんのか。給料払えないな」
銀行に来ているお客様には、聞こえない程度で皮肉られた。
「はい、すいません」
定例の詫び言葉だが、〈おまえさんに金もらってないよ!〉が、心裏の呟きだ。
必死に眠たい目を開き、パソコンを見つめ電卓を弾く。傍で見ている女子行員は笑いもしない。硬い雰囲気だが、同期入社の綾野愛菜が、書類を運ぶ途中に声をかけてきた。
「後藤田君、大丈夫?」
傍に来た綾野が、微笑みながら立ち止まった。道明は、ぼんやりしたまま、上目遣いで綾野愛菜を見た。
スリムで知的な雰囲気を出している綾野は、真面目な道明に好意を抱いていた。銀行では、受付女性の後ろでサポート役をやって、お金の調達、お客様の調査事務処理を担当している。
「あぁ、大丈夫だよ」
道明は小声で返した。
綾野はにこやかな顔で、「そう」と言いながら席に戻った。
歳のころ六十後半かと思われるおばあちゃんが、綾野の前の受付で、現金を引き出す手続きをしていた。
道明は瞼が潰れそうになって、一瞬、記憶が遠のきそうになった時、白い法衣を着て、背丈まである鈴が付いた杖を片手に、仁王立ちしたキツネの仮面をつけた男? が、目の前にぼんやり現れた。
「……あんた、誰?」
ぼんやりとしたスローで、周りは動いている。
「よく聞けよ」
仮面をつけた男の声は、離れた位置にいながら、耳元で語っているように響いた。
「あのおばあさん、詐欺に遭っている。すぐに止めろ」
「えっ」と、同時に机に頭をぶつけ目を覚ました。
それに気づいた課長の国立が、「後藤田!」と発する前に、道明はサッと立ち上がった。あまりの寝起きの良さにびっくりだが、歩は素早く進み、「綾野さん」と、気早に声をかけた。
「これ!」
綾野が精算しているお金を指した。突然声をかけられた綾野は、「何ごと?」と、お金を指しながら早歩きで来る道明を、髪を振り乱して振り返った。
「ちょっと、あのおばあちゃん詐欺に遭ってる」
最近、チラチラ聞き出した“オレオレ詐欺だ”と、忠告した。
「えっ……」
綾野は、まさかと疑いを持ったが、それを見ていた副支店長で預金課課長の高山満が、「何ごとだ!」と、声をかけてきた。
道明と綾野は見合ったが、“どうするの?”という顔を綾野にされた。
「あのおばあさん、オレオレ詐欺に遭ってると思います」
高山課長は、流し目で道明を見た。
「自信あるか?」
「間違いないと思います」
「後藤田君、思いますじゃ困るんだよ」
「どうもすいません、副支店長!」
国立課長が駆けつけて、ゴマすりならぬおべんちゃらを使ってきた。
「後藤田は引っ込んでろ」
道明はそれを無視して、「本当だったら、銀行の名誉に関わります」と、言い放った。
〈どの口が言うんだろう?〉
ポンポンと出る一言一句、自分が思った時には口から出ている。
〈自分か……?〉
一瞬そう思うと、白衣姿のキツネが頭を過った。
〈抓まれたか?〉
「よし、確かめてみろ。相手はお客様だ、慎重にな。綾野さん、後藤田君と一緒にやってください」
「はい」
綾野愛菜は元気に返事をして、道明はにこりと力強く頷いた。国立課長に一矢報いた。そんなところだが、道明はどうでもよかった。
〈おばあちゃんを助けなきゃ!〉
持ち前のほっとけない精神が溢れ出てきた。
「おばあちゃん、このお金、お孫さんにお渡しになるんですか?」
おばあちゃんは、びっくりした表情で、「なんで知ってるんですか?」と、聞き返してきた。
結局あとは、綾野愛菜が丁寧に話を伺い、確認すると、お孫さんはそんな連絡はしていないとのことで、警察へ連絡。そのまま騙されたふりをして、犯人の一人を逮捕した。
次の日、“某銀行針谷支店、オレオレ詐欺見破る”のお手柄として、全国版ニュースで報道された。勇気ある行員の行動は、全国金融機関に勤める従業員に、躊躇されていた勇気ある行動を起こさせる手本となり、次々とオレオレ詐欺を防ぐ結果となった。信用度アップで、針谷支店の業績は向上していったのだ。
道明は家に帰り、母親に、「ばあちゃんとこ行ってくる」と伝え、同じ針谷町に住む父方の祖母の家へと急いだ。
ばあちゃんは、道明が住むマンションから、車で十分程度のところで農業を営んでいる。江戸時代から続いている、農村の主みたいなものだと、道明は理解している。
小さい頃から、ここら辺りに遊びに来て泊まりこんだ。ばあちゃんと一緒に寝たことは数えきれない。
道明が住んでいるマンションがあるところも、周りは山に覆われていて都会から遠く離れているが、ばあちゃんが住んでいる信有里村は、まるで別世界だ。遊びに行くのも、“おっかない”ところだ。周りは山に囲まれ、夜明けは遅く夕暮れは早い。ばあちゃんが住む農家は、蝋燭で暮らしているのかと思ってしまうほど灯りが乏しい。大袈裟すぎるが、すべてが暗がりなのだ。
しかし、道明はこの村が好きだった。隣のおばさんがニコニコして、遊びに来てるからと、わざわざ果物を持ってきてくれる。
行くと必ず、村のみんながばあちゃんの家に集まり、「家に来て飯食ってけ!」とか、気さくに声をかけてくれる。村の衆みんなが、ばあちゃんじいちゃんだった。
ばあちゃんと寝ると、必ず昔話をしてくれた。その中で、キツネが化かす話をしてくれたことを思い出した。もしかして、昔あったこととして、あの農道で起きたことを何か知っているかもしれない。そう思うと、居ても立ってもいられなくなって、銀行から帰ると、即刻に身体が動いた。まだ夕方とはいえ、世間は明るい。
細い道から、周りを山に囲まれた信有里村に入り込んだ。やっぱり暗かった。ばあちゃんの家の前はだだっ広く、車は余裕で駐車できる。今は少ない茅葺き屋根の小屋がある。住んでいる家も、十五年前までは茅葺き屋根だったが、瓦屋根に変わった。なんでも、茅葺きの小屋を残して指定記念物にしたいと、国からの要請があったということで、住む家の方は、瓦葺きにしてくれたそうだ。
家の入口には大戸口があって、昔、じいちゃんたちが元気だった頃は、昼間は開けていたが、じいちゃんが亡くなって開けることはなくなった。ばあちゃんの力じゃ、閉めるのも一苦労だろう。大戸口に付いている“くぐり戸”という入り口から、道明は背を屈めて入る。腰が曲がったばあちゃんには、丁度良い入り口になっている。
「ばあちゃん来たでー」と、声をかけると、奥から、「よう来たのう」と、皺だらけの顔をより一層くしゃくしゃにして、本当に嬉しそうな顔をして、迎えてくれた。
「どうじゃ、元気じゃったか? 最近来んけ、心配しとったぞよ」
「ごめんごめん、銀行が忙しくてな。俺も気になっとった」
ばあちゃんは農業を営み、腰は曲がってしまっているが、空気がよく野菜も豊富な環境の上、早寝早起きで、八十二歳にしては健康そのものだ。
「今日は泊まっていくか」
「いや、今日は話を聞いてもらおうと思うて来たんじゃ」
「そうか……」
ばあちゃんの寂しそうな顔を見て、せっかく喜んでいるのに水を差すようで気が引けた。
「今日は水曜日だから、土曜日に泊まりに来るよ」
「そうかそうか」
思ってもなかったが、ばあちゃんの顔を見て、ついつい土曜日と答えてしまった。
「そうか、みんなに伝えとくからのぅ」と、満面の笑みを浮かべた。
みんなとは、昔から可愛がってもらった集落のじいちゃんばあちゃんで、全員で十人ばっかしの心の触れあいの集まりだ。話は当然合わない。鬱陶しさはあるが、なんたって褒めまくってくれるので、その鬱陶しさも吹き飛ばしてくれる。みんなが道明の銀行に預金してくれた。
ばあちゃんは、畑で取れた野菜や果物をミキサーにかけ、野菜ジュースを作ってくれた。
「旨いぞ~」と言うが、「にげぇー」と言う返事しか出なかった。
「そいかいのぅ」
ケタケタ笑い、喜んでいたと思ったら、突然聞いて来る。
「何の話じゃ?」
「あぁこの前、家に帰るのに近道しようと思って、御坂村の農道を車で走ってたら、キツネに出会したんだ」
「うん、うん、あの御坂村の山道か……」
ばあちゃんも、しっかりと知っていた。
「あの山は、そこの中田の家のもんじゃ」
「もんじゃって? 地主ってことかね」
この村の人は、それぞれ周りの山や畑、田んぼなどの大地主と言っていい。銀行に勤めて、その辺のところは道明も詳しかったが、キツネが出たあの山が、よく可愛がってくれたばあちゃんと同じ、信有里村の中田さんのものとは思いもしなかった。
「へぇー、そうだったの」
「それで、キツネにでも抓まれたか……」
ズバリばあちゃんは聞いて来た。実に話は早い。
「そうなんよ」
それで子ギツネを助けたことから、あの消えた時間、それに、銀行での出来事まで、とんとん拍子に話を聞いてもらえた。実に話しやすかった。親や知り合いに、こんな話をしても、笑い話になればまだ良い方だ。
ばあちゃんは苦いジュースを飲んで、皺皺の唇を結んで、舌打ちのように口を鳴らし、「うまかぁー」と言った後、道明を見つめて言い出した。
「あそこは確か……、狐さまを祀っている神社があるって言いよったな」
「それ、中田の爺さんが言ったの?」
道明は声を弾ました。
「そうじゃ、中田の爺さま、言いよったな。うちは知っちょらんけどな、抓まれた話はよく聞かされたわの」
「どんな風に化かされたか、言いよったか?」
道明もこの信有里村に来ると、自然とこの村の訛りが出てくる。自分でも不思議に思う。
「昔々の話じゃ。旅人があの御坂村の山道を通ると靄が出てきて、同じ道を何回もぐるぐる回ったそうだ。まだまだあるな、この村におっちゃった木塚さんという人の爺さまが、やっぱり抓まれたのを聞いた覚えがあるのう……。それがのう、道明と一緒で怪我したキツネを助けたそうじゃ」
「えっー、聞き応えがありそう!」
道明は、自分と一緒の体験をした人が、ばあちゃんの話の中に出てきたことに、心臓の鼓動と同時に飛び上がりそうになった。囲炉裏の中に足を入れていたが、その上に置かれている食台に膝をぶつけた。
ばあちゃんはそれを見て、「ははっ、大丈夫かいのぅ」と笑った。孫の慌てぶりが可愛くてしょうがないようだ。
「それで? どういう風に化かされたの」
「いや、さっき道明の話を聞いて、ばあちゃんの方がびっくりしたわな。あまりにもよく似通っちょるからな」
「へぇー」
道明は、改めて驚いた。
ふぅーん、ばあちゃんが溜息をついたので、道明は、「疲れたのかい」と気遣った。
「年寄りの言葉の継ぎ目じゃ……」
「あっ、そう」
軽く受け流して、早く聞きたいとばかりに、片耳をばあちゃんに近づけた。
「木塚さんの爺さまというから、明治時代の話ぞ」
道明は、黙ったまま何回も頷いた。
「それがの、その爺さまは、自分の畑で座り込んでうとうとしていたら、天狐様が目の前に現れたそうじゃ。ばあちゃんもその話を聞いた時は、びっくりこいたわ」
「? 天狐? 何ですか、それ!」
道明は、初めて聞く言葉だったので、改めて聞き直した。
「それはの、キツネが千年生きると、その天狐様に成れるそうじゃ」
「ふ~ん……」
道明は、分かったような分からないような微妙な頷きをした。
「その天狐様って、なんか魔法でも使うのかね?」
「う~ん、なんでも、千里の先まで見通すことが出来る力があるそうじゃ」
雲を掴むような話で、道明は頭がこんがらがってきた。
「それで、木塚さんの爺さまはどうしたん」
「その天狐様から、怪我したキツネを助けてくれた御礼として、尾張国の村にある城跡のある場所を示して、『そこに安土桃山時代に織田信長が埋蔵した銭千貫がある。それをおまえに授ける』と言われたそうな」
「それ、明治の頃の話じゃろ。なんで安土桃山時代なの?」
常識離れした話に、とんでもない質問をした気がした。しかしばあちゃんは、孫の質問に真剣に答えてくれる。
「そりゃ千年も生きとるんじゃ、安土桃山時代なんて昨日のことぜよ」
「ははは、そりゃそうだね、はははっ!」
「そうじゃ道明、何でも笑って生きるんじゃ、決して、落ち込んじゃならんぞ。笑って太りんしゃい」
「笑って太れか! 良い言葉だね。ばあちゃん、続けて続けて」
「ははっ、そうやったのぅ」
ばあちゃんは昔から、話の途中に人生について語ってくれる。かったるい時もあったが、今の人生に、大きなインパクトを与えてくれた。
「なんせ、天正時代の話じゃから、本当に織田信長が埋蔵しとっとかは分からんけどのぅ」
「ふ~ん、何から聞いてええか分からんね。それで、その爺さまはどうしたの?」
「尾張に行って、城跡の周辺を掘り返したら、埋蔵金が出てきたそうじゃ」
「へぇー、想像つかないけど……いかほど」
「いかほど、ときたかや。話によると、千貫あったそうだ」
「……? 一貫、いかほどで?」
「分からんね、そんなこと。あぁ、ただ木塚さんの話によると、億万長者になったそうじゃ」
「それ本当の話?」
「分からん……」
ばあちゃんは、あっけらかんと答えた。
「なんせ、昔の話じゃからな」
はははっ、ゲホゲホッ、と笑って痰をからませた。
「大丈夫かね」
道明は心配したが、「いつもの事じゃ」と、軽く躱された。
「土曜日に又来るよ!」と、約束を交わし、信有里村を後にした。
道明は家に帰宅し、「ばあちゃん元気だった」と父親に伝え、自分の部屋へ籠った。田所大樹のことが気になって、電話してみることにした。
〈大樹はどうだったんだろう? もしかして、大樹のところにも、“天狐様”とやらが現れたかもしれない〉
僅かながらではなく、大きな期待を持った。
大樹は薬屋の営業をしている。夜遅く帰って来るようで、連絡が取れたのは次の日の夜九時を過ぎていた。
「大樹、変わったことないか?」
「相変わらず、皮肉たらしく課長に怒られてばっかだ」
仕事の話になると嘆き節が出る。
「ははっ、どこでも課長ってのはシニカルな人間が多いよな」
「醜態さらしてな!」
すぐに大樹が悪態をついて来た。
〈この様子だと、“天狐様”とやらは現れてないな〉
道明はそう思って、こっちから切り出してみた。
「この前、コンコン助けて何か変わったこと起きてないか?」
「あれは何だったんだろう。七不思議やで! なんたって、時間が消えたからな」
「誰かに言ったか」
「いや、言ってないよ。言ったところで誰も信じないさ」
「確かにな。時計見間違えたんだろうで、片付けられるのがオチだ」
「で、変わったことってなんだ」
「何でもないんだが、奇怪な出来事だったからな……」
いつもなら陽気に跳ね返してくる大樹だが、今日は静かだ。
「どうした、大樹?」
「実はな、あの日眠れなかったんだ」
「なんだおまえもか、俺もだ」
道明は、大樹にいつもの元気がないなと感じたが、会社で嫌なことがあると、よくこの雰囲気をもたらすので、別に気にはならなかった。まして、課長に皮肉られたとか言われたら尚更だ。
「おまえ本気にしないだろうが、会社でまどろんでたんだ、そしたらな、瞼に狐さまが現れたんだ」
「夢か?!」
道明は、思わず声が上ずった。一瞬ドキリとして、鳥肌まで立って身震いを感じた。
「俺も、うとうとしていたら、その狐さまとやらが現れたんだよ」
「えっー! 道明もか、うわぁー震えがきた」
「俺もだよ。で、その狐さまはな、天狐様って言うらしい。それで俺に、オレオレ詐欺に遭っている、お客さんの御婆さんを教えてくれたんだ。新聞やニュースを見てないか、うちの銀行で、オレオレ詐欺を防いだって大ニュースだったんだ。ちょっとしたヒーローになったんだぞ!」
「ふ~ん、なんたって毎日忙しくて、ニュースも見てないや」
「まぁ、そんなことどうでもいい。大樹の方は何かあったのか?」
「びっくりするなよ」
「なんだよ、また鳥肌が立った……」
大樹は、そんな道明の言うことにも構わずに言い出した。
「あの課長、河原ってんだが、狐さまに、あの課長どっかにやってくれ! と頼んだんだ、その夢の中でだ。そのあと、聞いて驚くな」
道明は、「あぁ」と、かったるく言い返した。
「河原課長が次の日に、山形の支店に転勤の辞令が出たんだ。ぶったまげたぞ、まさか本当に願いが叶ったんだ。これ、偶然かな?」
道明に問いかけてきた。
道明は携帯電話を片手に、首を知らずのうちに振っていた。重なった奇怪な出来事に、自然と出た仕草なのだ。
「いや大樹、偶然なんかじゃない。現実に俺の夢にも出てきて、オレオレ詐欺を防いだんだ。おまけに、俺を小馬鹿にしてた課長の鼻を明かすことができた。これは偶然とは思えない。ばあちゃんのところに行って、確かめたんだ。小さい頃、昔話でキツネの物語を聞いたことがあったんでな」
「そうだったな、そう言えば道明のばあちゃんは昔話好きだったな」
ははっ、と笑いながら思い出した大樹は、小さい時、道明と一緒に薄気味悪い信有里村に遊びに行って、肝試しをやったことを思い浮かべた。
「今思えば、いい思い出だ。お婆さん何て言ってた?」
「んー、それで、昔話でそっくりなことがあったんだってよ」
「えっー」
大樹は、お婆さんにこの話をしたと聞いた時、もしかして同じことがあったんじゃないかとの空気を感じた。驚いたのは、同じことがあったじゃなく、もしかしてと思ったことだ。
「それで?」と言って、タバコを片手で取り出し銜えて、火をつけた。大樹は、もともとタバコは吸わなかったが、この会社に入って、鬱憤がたまったせいもあって、飲み会の席で口にしたのが始まりだった。ほとんど吸わないタバコだが、興奮でついつい手が出た。一服して吹き出した。咳き込むことはなかったが、すぐに頭がくらくらした。
「大樹、タバコ吸ってんのか?」
通話口から、大樹の吹き出したタバコの臭いが、道明の携帯電話に伝わって来た。勿論あり得ないことだが、雰囲気で臭いを感じた。
「やめとけやめとけ、タバコなんて一つもいいことないぞ」
「あぁー分かってんだけど。お婆さんの話ってのを聞いたら、気が昂って吸わないとおれないよ。これも、あの憎っくき課長のせいだ!」
「人のせいにすんじゃないよ」
道明は、大樹の言い分に呆れの二乗がきた。
「頭がくらくらしてきた」
大樹は、もう一服して、タバコを灰皿で叩きつけるように消した。
「それでお婆さん、何て言ってた?」
大樹はくらくらした頭を振って、改めて聞いてきた。
「そこなんだよ、その天狐様に会った木塚さんって人、尾張の国に行って、織田信長の埋蔵金を掘り当てて、億万長者になったそうだ」
「……意味分かんねー」
道明も興奮して、どうして尾張に行ったかの説明なしに、結論を先に言ってしまった。
「まず、その天狐様って誰だ?」
「そうか、俺だけ分かったってしょうがないな。はははっ」
自分に呆れ入った。
大樹は受話器の向こうで、宙に浮いている気分だった。道明の言うことと、くらくらする面持ちで、瞼をパタパタさせた。
「すまんすまん!」
道明は、片手を顔の前に突き出して、謝る格好をした。
「それで」
大樹は、首をくねくねさせて、改めて聞いてきた。
「その天狐様って誰だ?」
「それは、ばあちゃんが言うには、千年生きたキツネらしい」
「千年! おいおいキツネが千年生きられんのか……」
大樹の呆れた声だ。
「だから、これは昔話なんだ」
「しかし、本当にその木塚さんって人いたんだろう?」
不可思議な話に、大樹は口を尖らす。
「確かにいたらしい」
「じゃ、本当かも知れないんだな」
「ん~、とも言うな」
「なんだそりゃ」
「しかし、現実に俺たちは体験して、不思議な力を与えてもらったことは事実だ」
大樹はしばらく考えて、確かに間違いないことだ! と、ふわふわした思考能力を振り払い、時空を飛び越える話に、しっかりと記憶を辿った。
まともな青年二人が、「時間が消えた」、「天狐様が現れた」、なんてマジメ顔で吐露したら、気味悪がって誰もついてこなくなる。誰にも喋れない。唯一、道明のお婆さんだけ、この不可解な出来事を理解してくれて、解決してくれそうだ。
「お婆さんの言う尾張の国って、今の愛知県だろう。織田信長って、安土桃山時代だろ……。その木塚さん、埋蔵金を掘り当てたのはいつの話だ?」
大樹は、道明が興奮して結論しか言わなかった、“意味分かんねぇ―”の事柄を成り立たせて言った。
「ばあちゃんもハッキリ分からんって言ったが、どうも明治時代だろうって言ってたな」
「ふ~ん、道明のばあちゃんは作り話はしないだろうから、これほど確かなものはないだろう」
「どうしたもんかな……」
答えらしきものは出せない。まして、今から何か起きるかもという不安な気持ちを払拭できる手立てもない! と言って、藁にも縋るほどの怖いものでもない。
道明は、ばあちゃんから昔話を聞いた時に、〈もう一度、御坂村の山道に行ってみたい〉と、内心思った。こうだ! という決定的な理由はないが、あの靄がかかった神秘的な世界に、なぜか惹かれるのだ。怖いもの見たさではないが、あり得ない経験をもう一度、というところだ。もう一つ、コンコンが気になった。一人で行く勇気は湧かなかった。勿論、大樹を連れ立ってのことだ。
「なあ大樹、もう一度行こうか」
「行こうか……、だよな」
「なんだ、大樹もか」
「あぁ、怖い気持ちもあるが、なぜか、このままにしとくのも気がかりってとこだな」
意外だった。こんな面倒なことを進んでやるタイプではない。それが、自分から行こうなんて、やっぱ奇怪だ。
「よし! それじゃ金曜日の夜に行ってみよう」
「次の日は休みがいいからな。また、会社でウトウトするのは自信あるもんな」
「ははっ、なんとも滑稽な話だ」
「そうだな、なんかドキドキするな。時空を超えるしな。なんとも人に言えん物語だ」
金曜日の夜、仕事を終えたのは夜の七時を過ぎていた。ファミレスで食事をとりながら時空談議だ。
「道明、もしキツネの世界に連れ込まれて、帰れなくなったらどうする」
大樹は、好物のナポリタンスパゲティをフォークで巻きながら問いかけてきた。
「分からん……」
「今の世界とはおさらばだぞ。身震いするな」
「ははっ、あるかもな。宇宙人にさらわれたという人も、結構いるもんな」
「えっー、あれはまやかしだろう」
「俺もそう思うけど……」
そう言って道明は、天とじ丼のカボチャをむしゃむしゃと頬張った。
「でも俺たちも、今回のキツネ物語を世間に話してみろ、そう思われるぞ」
「でも本当のことだ」
「だ、か、ら、世間は認めてくれないんだ」
「どうしたらいいのかな? 信じてもらうには」
大樹は唇を噛み締め、「証拠を撮りゃいいんだ。スマホで!」と言った。
「ええっー、それこそキツネの怒りに触れて帰れんようになるで」
「ん~、やっぱ駄目だよな」
「当たり前だろう! 千里の先まで見通せるんだぞ、それだけじゃない。俺たちに不思議な力を与えたんだ!」
「それだよ!」
大樹の目は、輝くように澄みきってきた。
「その木塚さんだったっけ、億万長者だろう。もしかしたら、俺たちにも……あるかもよ」
大樹はそう言って、ニヤリとした。
「気味悪いな、その顔」
道明は、阿呆くさい顔を見せた。邪悪な精神は、すぐに読まれてしまう。
「人間だ、欲望は隠せないぜ」
大樹は、人間は欲と共に生きてる、そう言いたいのだ。
道明は、大樹の言うことはもっともだと思った。
〈天狐様って、そんな事とっくにお見通しだろう。欲望か……、これがないと人間成長しないしな。欲は、人間の醜い部分をさらけ出す。俺たちはどう見られるのか?〉
道明と大樹の複雑な心境だが、実際に御坂村の農道を車で走ったところで、あの奇怪な出来事にまた出会すとは限らないのだ。想像は膨らむばかりだ。
「よっしゃ! 行こうか」
わくわくするような、ドギマギするような複雑な心境と、何処かにある怖いもの見たさの好奇心。道明には、それらが入り混じった人間の本性が表れたように感じた。
「前と同じがいいだろう」と、道明の車で行くことにした。
あの時と同じように、PK24の曲を聴きながら出発した。あの時と同じようにと言いながら、それはどうあれ、PK24の曲は聴くだろうが……。
今回は、この前と逆からの道のりだ。コンコンと出会った場所を、反対側からだと見つけられるか不安はあったが、とりあえず往復すればなんとか発見できるだろう、という安易さもある。確実な方法も見当たらない。とりあえず車を走らせることにした。
「さぁ、御坂村の農道に入るで……」
国道から山道に入り、御坂村に向かった。入り口の細い道に入っただけで、幽霊でも出そうな暗がりで、人がこんなところを通るのかと思うほど、右も左も高い木と茂みで、獣の住処には持ってこいだ。
「何回か通ったが、凄いとこやな」
大樹はこの前より、遥かにビビっている。PK24の歌を口ずさむことさえも忘れている。
「大樹!」
道明が呼ぶと、今目覚めたようにハッとして、こっちを見た。
「大丈夫かよ」
道明は至って冷静だった。あの一瞬に現れた天狐は、とても我々に何かするように思えなかった。白いキツネの面を被ったような顔で、目の奥は赤く、人様を寄せ付けない不気味さを漂わせていたが、恐怖心に駆られることはなかった。
〈なんか、催眠術でもかけられた様相だな。ここに入ると、極端に世界が曇ってしまう。実に不気味だ〉
今日は、大樹のPK24とのハモる歌声は聞こえない。
「怖気づいてたら、天狐様も寄り付かないぞ」
青ざめるまでの恐怖心はないようだが、大樹は発表会の前に気後れする子供に見える。
「ビビってたら、天狐様は現れないぞ」
「……。道明は、なんでそんなに落ち着いていられるんだ」
「別に落ち着いてないさ。怖いくらいさ」
道明は車を走らせながら、内心、鳥肌が立ちそうな怖さはあった。周りは、この前走った時より、遥かに不気味さが漂っているように感じた。しかし、大樹と違うところが一つあった。コンコンが気になってしょうがなかったのだ。とにかく生きていてくれたら……の気持ちがいっぱいで、怖さを覆い被せるほど強かった。
「俺は、コンコンに会いたいんだ。無事かどうか気になってしょうがない」
「そういえば、コンコンから始まったようなもんだからな」
大樹は、その程度の微かな記憶だったようだ。
「俺は天狐の赤い目が気になってしょうがない。あの天狐様ってのが現れた時、何が欲しいって言おうか考えてるんだ」
「えー、なんだそれ!」
道明はびっくりした。
「だって、木塚さんって億万長者になったんだろう」
「ふ~ん、そういうことか」
道明は、大樹の考えることも理解できた。
〈俺もコンコンのことがなかったら、同じことを考えるだろうな……〉
そう思った。それが人間だ。大樹は間違っちゃいない。
「もし天狐様が現れても、その辺のところは御見通しだろう。まだ現れるかどうか分からないのに、俺たちもおめでたいな」
「そうだな、ははっ。第一、考えてみりゃ、天狐様って夢の中だからな」
ははは、道明も笑いが出た。勝手な思い込みに呆れて、笑いが込み上げてきた。そう思い出すと、気が落ち着いてきた。
アクセルを踏み、くねくねした道にハンドルを取られながら、不安な気持ちはよそに、すんなりと進んだ。
「もうすぐ出口だな。今日はやけに早いな。この前とは時間が余りにも違い過ぎるな」
民家の灯りが、ところどころに見え始めた。
「速えー、時速百キロ出したんじゃ」
大樹は、冗談っぽく道明に言った。
「出てたかな?」
道明は大樹に笑いながら、流し目で冗談口をたたいた。
「ハハハ、この山道で出せないよ」
道明は改めて言い返した。
「よし、国道に出る前で引き返そう」
「そうだな、前にキツネに出会った方向なら可能性はあるかもな」
道明は、すぐ近くにポツンとある農家の空き地を借りて、方向転換を行った。
大樹は、助手席のウィンドウを開け、ステレオのボリュームを落とし夜空を眺めた。
「こりゃー、天狐様は現れそうもないな」
空に輝くばかりの星が広がっていた。
道明も車を切り返しながら、運転席からフロントガラス越しに夜空を眺めた。
「本当だな、現実的だな。今日は無理かもな、またにしよう」
そう道明は答えて、舌打ちをした。
〈コンコンに会えないか……〉
少し残念そうに、来た道を帰ることにした。
アクセルを踏んで、山道に入った。暗がりで、あの時見た恐々とした雰囲気は感じなかった。
「この辺か!」
大樹が、生い茂った竹藪の微かな隙間を指差した。
「いや、こんなところじゃなかった気がする」
道明は、この前の闇夜とまったく違う道のように感じた。大樹は安心したのか、PK24の曲を口ずさみだした。道明も、曲に合わせ軽快にハンドルを握って闇夜の道を走った。
しばらく走ったが、道明は首を捻りだした。
「また始まったぞ……」
「えっー、何て言った」
大樹は、道明の異様な顔つきに驚いてボリュームを絞った。
「何だよ、何か言ったか」
「また同じ道を走ってる……」
二人は一気に震えがきた。
「まさか……」
大樹は声まで震えた。
「ほら、あそこの竹藪の間に見える小道、あれさっきも見た」
まさかのまさかだ。
「あんなの、この山道になんぼでもあるだろう」
「いや、今何時だ?」
「九時過ぎだな」
大樹は、車と自分の時計とを見比べた。
「九時十分過ぎだな」
何回も見合わせ、間違いない! と、唇をピクピクさせた。
「げぇ! 靄が出てきた」
大樹の声に、道明はハンドルを強く握りしめた。さっきまで抜けきっていた脱力感は吹っ飛んだ。
大樹は助手席の窓を指して、「おい、どんどん広がって来たぞ! この前より遥かに速いぞ」と、興奮気味に言った。
「これはまた凄いぞ‼ なんだ!」
道明の言葉が繋がらない。
「車が浮いているんじゃないか」
大樹はあり得ないことを言い出した。
「どうなるんだ!」
靄がフロントガラスまで舞ってきた。
「危ないぞ!」
大樹は、道明の腕を両手で掴んだ。
「前に突っ込むぞ!」
「止まってんだ! これじゃ走れないだろう」
道明は、焦って言葉を吐いた。
「大樹、痛いよ!」
掴まれた腕を見て、大樹に声をかけた。
「えっー」
道明は目を疑った。
〈気絶してる……〉
大きな声を出した。
「えっーー!」
しっかり目を剥いて大樹を眺めた。
〈寝てる、鼻息、イビキ。こんな時にどうなってんだ〉
「うわぁー、なんか、えっ!」
フロントガラスから外を見た。靄がいっぱい広がって、道も竹藪もまったく見えなくなった。恐怖心を煽るどころか、思いっきり欠伸が出た。目が潰れそうだ……。そのまま眠りについた。
「コンコン、どうだ調子は?」
目の前に現れたコンコンは、挨拶するように道明を見て、クンクンと泣き声を上げた。
「そうか、良くなったか」
足に包帯を巻いたままだったが、ぴょんぴょんと跳ねて寄って来た。笑ったように見える。
「良かったな」と、頭と鼻の上を撫でた。
周りは、ぼんやりとした藪で囲まれていた。
〈なんで、こんなところに?〉
頭はボォーとして、宙に浮いているようだ。靄が全体を覆ってきた。
コンコンは大丈夫か? と手をやると、いなくなった。
「なんだよ、これ!」
突然声が聞こえた。横を見ると、大樹が一緒に座っていた。
「今コンコンが来てたろう。元気になってたな」
「……俺は今来たんだ」
「そうなのか?」
〈どういうことだ?〉
道明は、靄で覆われ、雲の上にいるようだ。怖さは感じない。緊張感も感じない。感じるものをどこかに飛ばされている。首を動かすのもスローモーションなのだ。
「俺たち、宙に浮いているか」
大樹は飄々と言う。
「かもな……」
道明も慌てる様子もない。目の前まで広がった靄は、気味の悪ささえ感じない。注射でもされて、感覚を麻痺させられたようだ。
瞼を閉じてゆっくり開けると、一挙に靄は消え去り、突然、赤い鳥居が表れた。また瞬きをすると、靄が鳥居の土台を隠しつつ、朱色の鳥居が連なって現れた。
「おい大樹! 凄いもんが現れたぞ」
横にいる大樹に興奮して声をかけた。
返事はない。
「おい」と、呼びかけて大樹を見た。
「えっー」
こくりこくりしている。
〈呆れるな、この大事な時に寝るか? それにしても、この鳥居何なんだろう? この鳥居、どう見ても天に続いているぞ〉
「起きろ!」と、大樹に声をかけ、揺さぶって起こそうと手を動かそうとしたが、どういう訳か手が動かない。
〈これって、俺は魂だけか。もしかして俺は幽霊か? なんてこった、死んでるのか?〉
「死んではいない!」
大きな声が聞こえた。チャリンチャリンと、鈴の音が聞こえだした。鳥居の奥から白い法衣を着た、狐仮面を付けたような男がゆっくり歩いて現れた。歩いているのか、靄で足元は隠れてハッキリ見えない。鈴の付いた杖を下地に突き、綺麗な鈴の音を鳴らしながら、ぐんぐんと近づいて来た。
不思議だ、何にも感じない。目の前に現れた時には、その狐仮面の男の後ろに、同じ格好をした狐仮面の男二人が、護衛するかのように仁王立ちしていた。
「心配するな、死んではいない。おまえの魂だけを呼び込んだ」
「えっー」
道明は、どう答えていいのか迷った。
「おまえには世話になった」
「あなたは……、天狐様で?」
声を発した感覚はない。しかし声は聞こえ、言葉を発している。
〈これって、心で? 念力か?〉
「おまえは、私の息子を救ってくれた」
「えっ、もしかしてコンコンのお父さん?」
「おまえら人間の世界では、そう呼ぶようだな。息子はおまえを気に入っているようだ。何でも欲しいものを言え」
「あなたは、大昔にも人間に褒美を与えた方ですか?」
「なぜ知っている!?」
「僕のお婆ちゃんから、昔の言い伝えで聞きました」
笑ったように見えた。それにしても、何者が来ても寄せ付けない雰囲気を醸し出している。それがどんな巨大な物、邪悪な者であっても、跳ね除けるバリアーを張っているように感じる。とてもこの世に存在しているものには思えない。
「人間よ、欲しいものがあるだろう。言ってみろ! 子を救ったお礼だ。何でも叶えてやろう」
「……、急に言われても思いつきません」
天狐の真っ赤な目が、ぎょろりと動いた。
しばらく沈黙した後、牛の歩みのようにゆっくり顔を動かし、道明を睨みつけた。
「金が欲しいだろう」
鈍重に言った。
道明は顔を、ゆっくり横に振った。
「お金は確かに欲しい。でも、せっかく叶えてもらえるなら、お金で買えないものがいい」
“ほぉー”
声は聞こえなかったが、感心したような顔に見えた。
「遠慮するな。別に金が欲しいからと、おまえを貶めることはしない。人間とはそういう生き物だ」
「いや……」
道明は首をまた振った。
「お金は要らない! 健康が欲しい」
「そうか、永遠の命か! それも良かろう」
天狐はまた、牛の歩みのような頷きをした。いや、そう見えた。
「いつも望んでること。俺じゃなくて、両親とばあちゃんを健康で長生きするようにして欲しい!」
「何だと! それが願いか!」
「そう、僕が結婚でもしていれば、女房も子供もと言いたいとこだけど、なんせ彼女もいないからね」
「……」
天狐は黙りこくった。少し間をおいて、曇った声を出した。
「本当におまえは何も欲しい物はないのか」
「人間は一人じゃ生きられない。僕が裕福になると、心のこもらない愛情が注がれてくる。偽物の愛情なんて要りません。僕のことを真から心配してくれる人に、健康で長生きしてもらいたい。それによって、僕も幸せになれる」
「ふん……」
天狐は、ため息をついたように見えた。
「もう一度言う。家族を健康にはしてやろう。尚且つ、お金も与えよう! それでどうだ」
天狐は、曇った声で語気を強め、杖に付いた鈴をチャリンと言わせた。
「健康で働ければ、それなりの良い生活ができる。お金は欲しいけど要らないよ、人生狂うし人間も変わる。やっぱり要りません」
天狐の赤い目がギラリとした。
「よし分かった。家族を健康にして人生を全うさせてみせる。いずれおまえが結婚して子供が出来たら、その子にも、病気も不慮の事故にも遭わないように、天成の才を与えよう。おまえには、一生困らない程度のお金を授けよう」
道明は明るい顔をした。身体全体が火照る気持ち良さを感じ、幸せを実感した。
〈なんて気持ちいいんだろう〉
道明は、満足感を味わった。
すると天狐は、「ははは、はははっ!」と、次第に高い笑い声を上げた。
「これぞ人間ぞ‼」
「そこまでしてもらえ光栄です。ありがとうございます」
道明は、隔世されたような心持ちで感謝を述べた。
「そうか」
天狐は軽く頷き、杖の鈴をチャリンと鳴らした。天狐は、人間が必要とするもの、“お金”を与え、人間の愚かさを楽しんでいるように思えた。
「天狐さん、一つだけ聞いてもらえますか」
道明は気持ちよく、また、お願いをした。
「何だ? 言ってみろ」
曇った声は、誇らしげに聞こえた。
「もっと金が欲しくなったか! 遠慮するな、要るだけくれてやる」
「欲しくなりました」
天狐の目の奥は、ギラギラと赤く光った。
「人間らしくて、私も満足だ」
道明はニヤニヤして、欲望の顔を天狐に見せつけた。
「幸せになるために、お金がもっと欲しいです」
「そうだ、素直に最初からそう言えば良いのだ。で、いくら欲しい?」
天狐は、前のめりに顔を出した。
「お金は要りません」
道明は、ニコニコして平然と答えた。
天狐は、前のめりになった顔を、今度は後ろに引いた。
「なんじゃと!」
天狐は、意外な道明の答えに驚いた顔をした。いや、そう見えた。
「金があれば好きなことができる。家族を幸せにできるぞ! 億の金を授けよう。どうじゃ」
なんと、天狐は説得するような言い方をした。
「だからね、天狐様、お金をもらっても幸せは掴めないんですよ。金は天下の回りもの! これで丁度いいんですよ」
「……」
「銭じゃ買えないものもあります。それを天狐様は叶えてくれる。これ以上の褒美はありません」
「金は天下の回りもの……。銭じゃ買えないものもある。誰に教え導いてもらった?」
天狐は、呆れ口で道明に聞いてきた。
「僕の爺ちゃんと、婆ちゃんから教えてもらいました」
天狐は、「ははは、はははっ」と、また高笑いをした。
「そうか、人間として人生の悟りを開いた言葉だな……。ははは、はははっ!」
高笑いを見せつけた。
「おまえの友達には金を与えた」
そう聞いて、大樹を思い出した。
〈そうだ、大樹はどうなった!〉
ぼやけ頭を横に向け、大樹を見た。座ったまま寝ている。周りは靄だらけだ。天狐の後ろにいる二人、いや二匹なのか、微動だにしない。護衛なのか? また天狐を見た時、天狐の目がギラりとした。
「友達は金持ちになる。おまえから離れていくぞ。どうする、同じ金持ちになって友達を続けていったらどうだ。人間の世界でいう親友ってやつを?」
チャリン、と鈴を鳴らした。
「天狐様、お互い金持ちになったら、親友なんてのは消えてなくなりますよ」
飄々と答える道明に、天狐は呆れたのか、柔らかく説得するように語りだした。
「おまえが、金が要ると覆しても何とも思わん。我々は、是非にも与えたいのだ。息子を救ってくれた! 人間が救ってくれたのだ! 是非、受け取ってくれ! それで我々は満足できる。頼むから受け取ってくれ」
「ふぅー」
道明は、ため息をついた。
「しょうがないな……」
ついに観念する様子を見せた。
「分かったよ」
「そうか、それでこそ人間なのだ。これで安心した。二人で豪勢に暮らせ! ははは、ははは」
また尻上がりに笑い声を上げた。
「あとは現世で待て!」
納得したのか、また高くから現れた朱色の鳥居に戻ろうとした。
「天狐様!」
道明は呼び止めた。
「んっ、まだあるか。申してみよ」
「そうじゃなくて、何も要りません」
「何と言った?」
「お金をくれるなら、何もしなくていいですと言ったんです。コンコンにも会えたし、元気そうで安心したし、もういいや!」
「何だと? 金は要らないってことか」
「だからさ、もう何にも要らないって言ってるの」
道明は、面倒くさくなってきたのか、吐き捨てるまでの語気の強さはなかったが、慣れ親しんだ言い方をした。
「何も要らないとは、健康も要らないということか?」
赤い目が、またギラりとした。
「あぁ、いいですよ。自然に任せます」
「友達は大金持ちになっても構わないのだな」
「あぁ、いいですよ。自然に任せます」
「友達は大金持ちになっても構わないのだな?」
改めて、天狐は確かめた。
「あぁ、いいですよ、大樹の人生だ。僕は爺ちゃんや婆ちゃんらが言った、“金はあって地獄・なくて極楽”の言いつけを守るよ」
「ははは、ははは」
天狐は、上を向いて声を出して笑った。
「よく分かった、小僧! 千年の間、何人かの人間に褒美を与えた。千年経って、おまえのような人間に会ったのは初めてだ。息子のことは礼を言うぞ。よし、現世に戻してやろう。健康が一番か! ははは、はははっ」
高笑いしながら、靄のかかった朱色の鳥居をくぐって、三人の狐様は消えて行った。
天狐の笑い声は、「ははは、はははっ!」と、靄に囲まれ見えなくなっても高らかに聞こえた。
「小僧、また会おうぞ!」
それを最後に、聞こえなくなった。
「後藤田! また寝てんのか。お客様が見たらなんて思うかね」
道明は、口元で垂れそうになったよだれを、ハッとしたと同時に手で拭った。
「本当に呆れるね」
「ぎょー」
目が覚めた時、目の細い嫌らしい顔が目の前に!
「何が、ぎょーだよ。こっちが言いたいよ。支店長らに気に入られたって、わたしゃ許さないよ」
憎たらしい、女の腐ったような物言いだ。
「すいません」
「すいませんですみゃ、査定なんて要らないんだよ」
「はい、気をつけます」
「本当に困ったもんだ」
ツタツタと、足早に国立課長は戻った。綾野愛菜が書類を持って傍に来た。
「寝てないの?」
「昨日ちょっとね」
「頑張ってね」
「あぁ、ありがとう」
あれから二日過ぎた。昨日は大樹とまた、御坂村の農道を十回は往復した。大樹が、金曜日の夜の授け物はいつ入るのか確かめたいと、しつこく言うものだから、付き合ったらこの様だ。
昨日は、あの世にも珍しい昔話の再現にはならなかった。大樹は、天狐様に、「大金持ちにしてせんじよう」と言われ興奮して、「いつ? どこで? どのように?」とか、具体的なことは聞かなかったそうだ。
道明は、薄々ではあるが、もう姿を現さないだろうと思っていた。別れ際に天狐は、やっぱり人を化かすように高笑いしながら去った。道明は、人間に褒美として金を与え、きっと愚かな人間の欲望を笑っているのでは? と、あの日帰ってから思った。もしかして、鱈腹お金を与えて、人間が無様な姿で滅びうる人生を楽しんでいるのではと考えた。
〈昔のこと、婆ちゃんが言ってた木塚さんってどうなったんだろう?〉
無性に気になった。
〈婆ちゃんに夜電話してみよう〉
そう思った。
道明が座っている後ろから、微かに心地よい香りがした。綾野愛菜だと分かった。すぅーと、メモ用紙を机の上に置いた。耳元に少し近づいて、「後で連絡してね」と、言われた。綾野の顔色が、紅葉して見えた。
メモ用紙を見ると、携帯電話の番号が書いてあった。胸ポケットからハートのマークが飛び出しそうなくらい高揚した。気づかぬうちに破顔一笑していた。
その破顔が見事に剥がされる嫌な臭いと、吐き気を催す声が……。
「後藤田君。仕事せずに、出来ずに、覚えが悪いのに、色ごとだけは早くて、素早いね。何とかならないかね。こっちは君のせいで、出世できないよ。頼むよ、後藤田君!」
顔を近づけて早口で言われた。
道明は、顔をピクピクさせて、ほっぺを揺らして笑い誤魔化した。輝くハートは、一挙にバリバリに崩れ落ちた。
国立課長は、そのまま綾野の傍に行き立ち止まり、綾野がキーボードを打つ手を止め、何事か? と見上げるまで待っていた。綾野が見上げると、国立課長は嫌らしい笑いを見せて、くるりと向きを変え席に戻った。
「白眼視か」
〈えっ、“白眼視”今、俺が言ったな、確かに自分で言ったな。“白眼視?”そんな言葉知らないのに……〉
道明は、国立課長の座っている席を振り返って見た。またこっちを見てるかなと、用心した。スマホで、白眼視を調べた。
“冷淡に扱うこと”
〈国立課長にぴったしだな。しかし俺じゃない、しかし、俺の口から出たよな。そんな訳ないよな……。まさか、天狐さん?〉
天狐の顔を浮かべた。
とんでもない! ぶるぶるっと頭を振った。
「後藤田君、どうかあるのかね」
また聞こえた、嫌らしい声が。
「いえ、何でもありません」
「気分が悪いなら、帰ってもいいよ。その代わり、今日は朝から休みってことになりますけど」
「いや、全然大丈夫です」
白眼視か……、道明はベロを出して、満足そうに笑った。
帰りはいつも夜六時を過ぎる。サービス残業はさることながら、最近は苦にならなくなった。慣れは恐い。
帰って婆ちゃんに電話した。早くしないと、もう九時過ぎには寝てしまう。携帯電話でどこからでも電話できたのだが、家に着いて部屋に入り込み、気分を静めて話をしたかった。
ベルが長々鳴った。が、いつもこの調子だ。足が不自由で、電話に出るまで時間がかかる。特に、膝が痛くて立つのも苦労している。カチャカチャ、と聞こえて婆ちゃんが出た。
「もしもし婆ちゃん、道明だよ」
「あー、道明か。どげんしたね」
「今日は切れなかったね」
ほっほっほっ、いつもこの調子の笑い声だ。
切れなかったというのは、長々鳴らして漸く出たと思ったら、受話器を一旦取ると同時に、また受話器を戻して耳元に持ってくる癖みたいなものがあって、切ってしまうのだ。
「唐突なんだけど……」
「なんね?」
「この前話した天狐の話……」
「うんうん、それがどうした」
「あの木塚さんって人……」
「あぁ、木塚の爺さんか」
「そうそう、金持ちになってその後どうなったの?」
「どうなったと言ったかのう……? うんー、思い出した。身を滅ぼしたと聞いたのぅ」
「えっー、やっぱりか」
「結局、化かされたとかじゃったな」
うんうん、思い出したように婆ちゃんは納得した。
「天狐さんって、お礼する代わりに、人間の愚かさを楽しんでるみたいだね」
「そうじゃのう、楽しんでいるかは分からんが、愚かな生き物として見とると、中田の爺さんが言ったような気がするのぅ」
「へぇー、そんな話もあったんだ」
「中田さんは、あの御坂村の地主じゃからの」
「ふ~ん」
道明は感心するばかりだ。
「で、あそこにキツネを祀る神社があるって言ったけど、行ったことある?」
「ないない、昔からの伝説じゃ。誰からもお参りしたと聞いたことはないで」
「ハァーん、そうなの!」
道明は、妙に納得した。あり得そうな伝説だ。俺たちの経験。昔からある話。いや、伝説として本当にある話だったんだ。
「今度、金曜日に泊まりに行くよ」
先週の土曜日に泊まりに行くと言ったことは、すっかり忘れていたようで、「また村の連中に言っとくよ」と言われ電話を切った。
〈このままじゃ、大樹が大変なことになる!〉
電話を切った道明は、居ても立っても居られなくなった。
〈天狐さんに、大樹の人生だからとか、いい加減なこと言っちゃったな! 大樹は友達だ、やっぱり止めさせた方がいい。大樹を説得するか! いや、天狐さんの授け物だ、どんな形で表れるか分からないぞ。そのままにしとくか?〉
道明は、自問自答した。
〈やっぱり助けなきゃ、俺が行くしかない!〉
そう思うと、震えがきた。
今から行こう! と、道明は決めた。
〈別に悪いことしに行く訳じゃない、堂々として。待てよ、大樹を誘うか? いや、駄目だな! ややこしくなりそうだ。ええーぃ、やけくそだ! 今日しかない!〉
気付いた時には、母親に、「コンビニに行ってくる」、そう言っていた。
車に乗り、御坂村に向かった。
“コンビニに出かけたまま、青年行方不明”
道明は、こんなニュースがテレビで流れる稚拙な想像までした。
入り口に来た。二人で来た時より不気味さを感じた。一気に鳥肌が立った。
〈今日はなんだ、えっー、靄が、靄がもうかかってる!〉
ブルブルっと震えが、武者震いか? 竹藪の深いところに着いた。この辺だ、間違いない。車を止めた。深呼吸をした。寒くもないのに、ぶるぶる震えだした。
〈やっぱ怖い、帰ろう……〉
そう思ってアクセルを踏んだ。あー、動かない。外を見ると、靄が一気に舞ってきた。
嘘だろう! 前より激しさがあり、身体全体が浮遊したように軽くなった。
ここは? 周りは林だらけだ。また、身体の動きが鈍くなった。
朱色の鳥居が現れた。チャリンチャリンと杖の鈴を鳴らしながら、先頭に天狐と後ろに護衛の二人か、二匹か、姿を現した。
「よぉー小僧、また会ったな。欲しいものが出てきたか」
ここに来ると、怖さという心の概念は無となる。
〈魂だっけてのは、こうなるのか!〉
道明は、そんなことを考える余裕すらある。
「欲しいものは何もないよ。それより、大樹の授け物を撤回してほしい」
「何だと! 小僧、おまえは奴の人生だからと言ったはずだぞ」
天狐の赤い目がギラりとした。
「確かに言ったよ。でも、考えたんだ。天狐様は、あいつが金持ちになって欲に溺れて身を滅ぼすところを見たくて、楽しみにしてるんだろう。それはさせないよ!」
「……」
天狐は黙った。チャリンチャリンと鈴を鳴らした。
「ふっふっ、ははっ、ははは!」
天狐は高らかに笑い声を上げた。
「小僧! どうしてそこまでして友だちを助けようとする?」
「大樹は俺の親友だからね。家族と一緒さ、惨めな姿は見たくはないね」
「……ははっ、ははは、はははっ」
天狐は二人のキツネと、また、鳥居に向かって帰ろうとした。数歩行ったところで立ち止まった。
「小僧! 人間は欲の塊だ。千年見てきた。しかし、おまえが初めてだ。何も要らないと言った奴は……」
そう言って、また歩き出した。
「ははは!」
笑い声は見えなくなっても聞こえた。
「小僧、また会おう!」
わぁー、車は動き出した。
「ふう~、危ねぇー。現実か、ここは」
脱輪どころか、どこかに落ち込んでしまう。御坂村を出るまでヒヤヒヤしていたが、靄も現れずにすんなりと家に帰れた。
部屋に入り、「ふぅー」と、思いっきりため息をついた。腕も足も、緊張でカチカチだった。明日は筋肉痛だろう。
その日は、よく眠れた。今までは、御坂村に行き天狐に会うと、興奮して眠れなくなり、朝から皮肉たっぷりの国立課長節を聞かされていたが、今日は違った。
〈天狐さんは、俺が言ったこと叶えてくれるのかな? 大樹は期待してるだろうな、でも大樹のためだ〉
出勤して業務の下調べをしていると、「おはよう!」と、綾野愛菜が現れた。
〈あっ、電話するの忘れてた!〉
昨日の御坂村のドタバタで、すっかり忘れていた。
「しまった!」と、舌打ちをして、阿房に付ける薬なしかと自分に呆れた。
「綾野さん、今日終わったら食事でもどう?」
「えっ……」
笑顔は失せていたが、すぐに笑顔を見せた。
「いいわ。後で連絡してね」
「あぁ、絶対にするよ!」
〈俺の口から出た?〉
確かに自分が言っていた。
「あっ、そうそう」
綾野が振り返って、ニコリとして言いだした。
「国立課長、入院したそうよ」
「何で、また?」
「何でも、急性の糖尿病だそうよ」
へぇー、たまげて気が抜けた。
「あの人、そんな持病もってたっけ?」
「だから急性なのよ」
「そう……」
目を天井に向け、道明は不思議な顔をした。
「良かったじゃない」
綾野はニコリとして席に着いた。
道明は動揺した。
〈まさか天狐さんが……。いや、考え過ぎだろう〉
嫌みな国立課長の代わりを、高山副支店長が代行した。仕事はスムーズに出来、実に楽しかった。
その日の夜、綾野と食事をした。人生初のデートだった。土曜日に、ドライブの約束をすんなりした。
家に帰り、また婆ちゃんに、「来週の金曜日に行く」と、変更の連絡をしようと電話をかけた。ベルが鳴る。二回目が鳴り止まないうちに電話に出た。
「婆ちゃん、今日は早いね。傍にいたの?」
何気なしに聞いた。
「それがのぅ、膝の痛みがなくなってのう、走れるようになったんじゃ」
「そりゃ良かったじゃん!」
ビリビリっと道明に電流が走った。
〈まさか?! だよな……〉
婆ちゃんに断りの言葉を残して電話を切った。
〈天狐さんじゃないよな!〉
更に、驚くことがあった。道明の父親は、血圧が高く頭痛持ちで、会社を早退することがよくあったが、血圧が健康な値に戻ったので、逆に心配になって病院に行ったと、母親に告げたとのことだった。病院では、「健康体の正常な血圧になっている」と、医師に首を捻られたそうだ。
そうなると、大樹が気になって電話をしてみた。
「天狐さんのこと、なかったことにしたらどうだ?」と告げたら、「何のことだ? 大丈夫か!」と、言われた。
まさかの記憶が消えていた!
話を変え、綾野愛菜とデートしたことを言い、たわいのない話をして電話を切った。
「えっー‼」
部屋で一人になって考えた。目を瞑り、しばらくすると、なんてことだ! 段々と甲高くなる笑い声が聞こえてきた。
「天狐さん!」
「ははは、ははは、はははっ、小僧! また、いつの日にか会おう!」
「天狐さん、あんたはいい人だったんだ!」
「はははっ……」
笑い声は、翳んでいくように段々と聞こえなくなった。
目を開けて、天井を見つめ考え込んだ。
〈天狐さん、いずれ僕に孫ができたら、あなたのこと、昔話として言って聞かせるよ〉
道明は、満足な顔をして笑った。
完