テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
朝の光が、政務の間の床に薄く伸びていた。
帝辛は筆を取る。取ったはずの手が、わずかに止まる。
昨夜の重さが、まだ背に残っている。
抱き返した腕。その強さは、嘘ではなかった。
なのに。
あれ以上、来なかった。
未来を口にしなかった。側に居ると言わなかった。自分から、踏み込まなかった。
(……なぜだ)
羞恥か。立場か。
それとも。
帝辛は縫季の目を思い出す。
時折、遠い。まるで、戻るべき場所が別にあるような。
昨夜もそうだった。
抱きしめながら、どこか別の場所を見ていた。
(……私の未来ではない場所を)
胸の奥が、静かに冷える。
嫉妬ではない。もっと冷たいものだ。
(そなたは、最初から去るつもりで触れているのか)
帝辛は木簡の端を、もう一度揃える。
整える。
乱れた感情を、木簡の端で均す。
(確かめる)
◆
「入れ」
声は平らだった。
扉が開き、縫季が入室する。いつも通り、静かに。いつも通り、距離を保って。
帝辛は一瞥だけで察する。
――昨夜のことを、整え直してきた顔だ。
胸の奥で、小さな苛立ちが跳ねる。
「報告を」
縫季が口を開く。配給、訴状、砦の増援。
言葉は正確だ。整いすぎている。
帝辛は木簡の端を、指で軽く叩いた。
「縫季」
名を呼ぶ。
縫季の呼吸が、ほんのわずかに浅くなる。
「昨夜の件だ」
縫季のまぶたが、わずかに揺れる。
「忘れろ、と言った」
「だが、そなたは『忘れたふり』をしている」
縫季の喉が動く。だが、言葉は出ない。
帝辛は、少しだけ意地悪く続ける。
「そなたは、私に触れた」「あれは、政務の一環か」
縫季の指先が強張る。
「……殿下」
声が、わずかに掠れる。
帝辛は立ち上がった。
ゆっくりと、卓を回る。
縫季の前で止まる。
近い。息が触れる距離。
「縫季」
王太子の声ではない。昨夜の延長にある声。
「今、この場で」
ゆっくりと、言葉を落とす。
「私に触れろ」
命令だ。だが、怒気はない。静かすぎるほど、静かだ。
空気が張りつめる。
縫季の指が、ゆっくり持ち上がる。
震えている。
帝辛は動かない。ただ、待つ。
縫季の指先が胸元へ近づく。
触れられる距離。
だが。
止まる。
「……出来ぬか」
声は冷たくない。ただ、事実を置くだけの声だった。
縫季の手が、ゆっくりと下りる。
「今は……臣として在ります」
帝辛は、ほんのわずかに目を細める。
「昨夜は、臣ではなかったと」
責めない。問いかける。
沈黙。
縫季は答えない。
その沈黙が、答えだった。
帝辛はそこで、理解する。
羞恥ではない。迷いでもない。
――禁じている。
自分の内に、越えてはならぬ線を持っている。
帝辛は、一歩、下がる。
「……そうか」
声は平らだ。
「ならば、別の問いをしよう」
視線をまっすぐ向ける。
「縫季。お前は――何か知っているのではないか」
縫季の顔色が、ほんのわずかに変わる。
「この国の先を」「私の先を」
「そなたは、私を見るとき、時折――遠い」
一歩も動かず、言葉だけを詰める。
「今ここにいるのに、ここに居ぬ顔をする」「まるで、戻るべき場所が別にある者のように」
縫季の喉が鳴る。
否定が、出ない。
帝辛の胸の奥で、何かが固まる。
「そなたは、私の側に居ながら、最初から去る覚悟をしている」
縫季の指が、わずかに震える。
「……言えぬのだな」
責めない。追いつめない。だが、逃がさない。
「よい」
帝辛は卓へ戻る。背を向ける。
「私の孤独は、私が選ぶ」
一拍。
「そなたに、決められることではない」
帝辛は筆を取った。それ以上、縫季を見なかった。
「下がれ」
縫季が深く頭を下げる。
「……承知いたしました」
扉が閉まる。
帝辛は木簡の端を揃える。
整える。
胸は整わないまま。
(……そなたは、私を好いている)
確信はある。
(それでも、選ばなかった)
ならば。
私は、王として選ぶ。
筆が、止まらない。
コメント
1件
はい、読ませていただきました。 第45話、すごくよかったです……! 帝辛が縫季の「遠い目」に気づいて、問い詰めるシーン、胸が締めつけられるようでした。「私の孤独は、私が選ぶ」――この言葉、帝辛の覚悟と寂しさが同居していて、本当に切なかったです。縫季の「臣として在ります」も、どれだけの想いを飲み込んで出た言葉なんだろうって考えずにはいられませんでした。二人の距離が近づいたと思ったのに、また離れてしまうもどかしさ、次の話が待ち遠しいです。
#BL
#ヒューマンドラマ
Hp2
409