テラーノベル
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扉が閉まる。静かな音だったが、縫季の胸の奥では、それが刃のように響いた。廊下の白い光が、やけに冷たい。
(……俺を、見なかった)
あの背中が、まだ胸に残っている。縫季はゆっくりと息を吐いた。だが、吐いたはずの息が、胸の奥で焼けたまま残る。
(……俺が、ああさせた)
清朗を引き剥がした。孤独を戻した。寄りかかる先を奪った。
(……正しい修正だ)
だが、あの夜、抱きしめられたとき。安堵してしまった。清朗ではなく、自分が選ばれたことに。拳が、ゆっくり握られる。
それでも――
(俺は、留まれない)
帝辛には、この先も長い時間がある。触れれば触れるほど、離れるときの歪みが深くなる。越えなかったのは、帝辛のためだ。そう言い切れれば、どれほど楽か。違う。怖かったのだ。越えてしまえば、本当に離れられなくなるから。
背後、扉の向こうから、かすかに筆の走る音がする。もう、整えている。王へ戻る速度が、自分よりも速い。
(……強いな)
(……俺より、ずっと)
縫季は目を閉じる。遠く、薄く。管理官からの照合香波が滲む。縫季は先に口を開いた。
「分かっている」
気配が、静止する。
「俺は、去る」
沈黙。やがて、香波の向こうから一言だけ落ちる。
――戻れなくなるぞ。
縫季は、薄く笑う。
「最初から、戻る場所なんてない」
気配が、遠のく。縫季は一人になる。
廊下の奥で、かすかな燭台の灯りが見える。あの中で、帝辛はまだ筆を走らせているのだろう。一人で。縫季は、その灯りに手を伸ばさない。見つめるだけで。
そして、背を向ける。
(……欲しかった)
その本音を抱えたまま、縫季は歩く。去る側の足取りで。背後で、灯りが遠ざかっていく。廊下は、また静かになる。だが、掌だけはまだ、冷えていた。
◆
朝霧が、王城の祭壇を薄く覆っていた。石の広場の中央に、青銅の鼎が据えられている。三つ足の腹は夜露をまとい、曇った空を鈍く映していた。香が焚かれる。白い煙が、細く、長く、天へ伸びていく。
太鼓が鳴った。低く、ゆっくりと。殷の祖霊を呼ぶ音だ。神官たちは黒衣を整え、祭壇の縁に並ぶ。膝をつき、額を地へつける。血を捧げる代わりに、香を焚く。帝辛が命じた、新しい祭祀だった。それでも、神官たちの背は固い。祖霊は血を好む。そう信じてきた年月が、体に染みついている。
太鼓が、もう一度鳴る。広場の奥で、衣擦れの音がした。帝辛が現れる。青銅の鐘の下、まっすぐ歩く。誰も声をかけない。ただ、道が開く。帝辛は祭壇の前で止まった。鼎の腹に触れる。冷たい青銅の感触。
「始めよ」
低い声。
神官が立ち上がり、祈詞を唱える。古い言葉だ。祖霊の名。王家の血。殷の国土。香が、さらに焚かれる。煙が厚くなる。太鼓が速くなる。
縫季は、帝辛の後ろに立っていた。祭壇を見ている。だが視線は、煙の奥を測っている。香の流れが、揺れている。目に見える煙ではない。もっと奥の、波だ。
(……妙だ)
昨夜から、ずっと。祭祀の日程が早まると分かったあの夜から。この波が、細くなっている。層が、薄い。
香が逆巻く。祈詞が高まる。太鼓が激しくなる。その瞬間。鼎が、鳴った。低く。重い音。神官の声が、止まる。煙が逆に流れた。上へ行かない。渦を巻き、祭壇の中央に沈む。空気が冷えた。火が青くなる。誰かが息を呑んだ。
煙の中に、影がある。揺れる。尾のような形。
一つ。
二つ。
三つ。
九つ。
神官が、膝から崩れた。
「祖霊……!」
声が震える。煙の奥で、形が整う。人の姿ではない。獣の影。長い尾が、煙を払う。透灰の瞳が、ゆっくりと開いた。
九尾だった。誰も動けない。兵も、神官も、貴族も。
九尾の視線が、祭壇をなぞる。神官。兵。帝辛。
そして。
止まる。
縫季の上で。
驚かない。最初から、ここにいると知っていたような目だった。その瞬間。声が落ちた。音ではない。頭の奥に、直接。
――妙だな。
縫季は瞬きをしない。
――この国の香の中に
――帰る場所のない波がある
コメント
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第46話、読み終えました……もう、胸がぎゅっとなりました。 縫季が「俺を、見なかった」と感じる夜のシーン、あの背中越しの距離感が本当に切ない。それでも「越えなかったのは帝辛のためだ」と言いながら「怖かった」と自覚するところ、その正直さにぐっときました。掌だけが冷えているまま背を向けるラストのイメージ、とても好きです。 そして九尾の出現!「帰る場所のない波がある」という最後の一言、続きが気になりすぎます。縫季の出自や、なぜこの時代の祭祀に呼ばれたのか……今後の鍵になりそうですね。 Hp2さんの描く、選ぶことと諦めることの間で揺れる心情が本当に繊細で、何度も読み返したくなる一話でした。素敵な更新をありがとうございます🌿
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#ヒューマンドラマ
Hp2
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