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ーーへぇ、僕の笑顔に惑わされない女性もいるんだな。
僕、桜庭智行《さくらばともゆき》が初めて秋月環菜《あきつきかんな》に会った時の感想はそんなものだった。
あれは3月のある日のことだ。
仕事の合間に小腹が空いて、近くのカフェに立ち寄った。
ここのクロワッサンは絶品で気に入っている店の一つだ。
イートインかテイクアウトかどちらにしようかと考えて店に入り、レジに並んでいると、英語とチェコ語で通じ合っていない会話が耳に入ってきた。
そちらに目を向けると、困り顔の若いアジア人女性と熱烈に言い寄るチェコ人男性がいた。
アジア人女性はチェコ語が分からないようで英語で対応しようとしているが、逆にチェコ人男性の方は英語が分からないようだった。
チェコ人は彼女を熱心に口説いていて、「連絡先を教えてくれ」だとか「一緒に食事に行こう」だとか口々に捲し立てている。
それが一切通じていないであろう女性は、そのきれいな顔に困惑の色を浮かべて、オロオロとしていた。
(あれは日本人?まぁ男が口説きたくなるようなきれいな顔立ちはしてるけど。それに押しに弱そうにも見えるし)
その女性は、透明感のある陶器のような肌に、少しタレ目がちな瞳、ぷっくりとした唇が印象的な、いわゆる清楚な癒し系の整った容姿をしていた。
か弱そうな雰囲気が庇護欲をそそり、男がいないと生きていけなそうなオーラが、変な男を呼び寄せそうな感じだった。
しばらく黙って遠目に見ていたのだが、男の方が突然女性の手を握ったのを見て、これはこのまま放置しておくのはマズイかもと思い始めた。
日本人だったとしたら、これがトラブルに発展した場合、結局面倒を見るのは日本大使館だ。
つまり、自分の仕事になりうる。
僕はレジに並ぶ列から離れて2人に近づいていくと、男の方にチェコ語で話しかけて正論で諭した。
男が諦めて去っていくと、女性の方に向き直り、日本語で話しかける。
やはり日本人だったようで、日本語で返事があった。
顔を青くしている彼女は怖い思いをしたようで、状況が理解できていない彼女に何があったのかを説明する。
助けたお礼を述べられ、顔を上げた彼女は僕の顔を少し驚いたように見た。
こんな反応をされるのには慣れている。
僕はいつも通り、人当たりの良い優しい笑顔と言われる表情を作り、ニコニコと微笑みかけた。
だが、笑顔を見せると逆に身をこわばらせ、顔を隠すように彼女は俯く。
それはとても不可解な態度だった。
こんなふうに笑顔で話しかければ、敵ではないという意思表示として相手は安心するし、心を開くのが普通だ。
なのに彼女は真逆の態度なのだった。
変わった子だなと思いながら、旅行かと問えば、一人で旅行だという。
(日本人女性がプラハに一人で旅行とは珍しいな。しかもこの容姿だから狙われやすそうだ)
そう思ったので、現地に駐在する外交官としていくつか注意事項を述べておいた。
彼女は僕の忠告にしっかり耳を傾けていたが、聞き終わるとおもむろに立ち上がり、再度お礼を言うと足早に立ち去ってしまった。
あまりの素早さに呆気に取られた。
(なんというか、あれだけ僕に興味を示さない女性も珍しい。あの子とは大違いだな)
そう、1年くらい前にも似たようなシチュエーションがあったのだ。
その時は街でスリにあって困っていた日本人女性に偶然遭遇し、仕事柄、何があったのか話を聞いて、警察や大使館への届出の手続きに付き添った。
そうすると、すっかり好意を持たれてしまい、その日以来ストーカーのように付き纏われているのだ。
僕に恋人がいる間は静観するスタンスのようだったが、半年前に別れて以降は積極的なアプローチが続いていた。
現地の大学に通う音大生で、しかも親が日本の大企業の重役というご令嬢だったようで、親の存在をチラつかせて圧力をかけてくる面倒さなのだ。
自分で言うのもなんだが、敵を作らないためにいつも取り繕っている笑顔を向けると、女性のほとんどが熱を上げてくる。
音大生のご令嬢も例外に漏れずなわけだが、普通よりも執着心が強くちょっと厄介なタイプだったようだ。
本当にさっきの女性とは正反対である。
全く僕の笑顔に惑わされず、もっと僕と話したいという素振りもなく、連絡先すら聞いてこず、逃げるようにサッサと行ってしまったのには驚きとともに新鮮さを感じた。
旅行だと言っていたから、もう会うことはないだろう。
そう思っていたのだが、彼女とはあろうことか仕事の場でまた顔を合わせることになった。
4月上旬になり、桜が満開になる頃。
毎年恒例の桜を楽しむレセプションパーティーが日本大使館主催で開催された。
招いているのは、プラハの議員や現地企業の役員、日本人コミュニティの重鎮など有力者ばかりだ。
主催者として、大使と大使夫人は挨拶回りで大忙しだ。
僕も主催側として、ご年配の未亡人である日本商工会の元会長夫人をエスコートしながら、有力者と挨拶を交わして情報収集に勤しんでいた。
「あなたもそろそろちゃんとした恋人を作ったらどう?毎回私をパートナーとして利用しちゃって」
挨拶回りの合間に元会長夫人は呆れながら僕に話しかけてきた。
彼女にはいつもパーティーの時にパートナーを務めてもらっていて助かっている。
60歳を超えたご夫人なら、そういったパートナーと勘違いされることがないからだ。
もちろん日本人コミュニティに影響力のある有力者の1人でもあるので、丁重に扱いたい相手でもある。
彼女は僕のことを孫のように思ってくれているようで、たびたびお小言をいただく。
「定期的に彼女がいるらしいのは知ってるのよ。でも一度もこういう場でのパートナーを依頼してないじゃない?真剣な相手ではないってことでしょう?」
「僕の口からはなんとも言えませんね。毎回真剣ですよ」
はぐらかすようにニッコリ笑みを作りながらそう答えれば、彼女は嘆かわしそうな視線を向けるだけでそれ以上は追及してこなかった。
実際のところ、彼女が指摘したとおり、恋人が定期的にいるのは事実だ。
相手からアプローチされて、食事に行き、身体を重ねて、面倒なことを言い出しそうな相手でなければ、そのまま恋人として付き合う。
ただ、その相手が他の男の方へ行こうがなにをしようが大して気にならず、全くもって執着することがない。
「何を考えているのか分からない」「私のこと好きだと思えない」と泣かれると潮時だなとサッサと清算してしまう。
要は、恋人がいようといまいと、あまり僕の生活に関係ない感じなのだ。
女性の方から次から次へと近寄ってくるので、その相手をそれなりにしてるだけだった。
しかし今は、あの音大生が厄介だ。
あの子にはそもそも何の興味もなければ恋人関係にもなりたくもないし、正直言ってしばらく恋人はいらないかなという気分でもある。
(とはいえ、女性は今まで通り近寄ってくるだろうな。女避けとしてそばにいながら僕を好きになることのないような都合の良い相手がいないもんかな)
そんな都合の良い女性なんているはずないと、自分のバカな考えに自嘲気味に小さく笑ってしまった。
そんな時だった。
僕の目に飛び込んできたのは、この前カフェで助けたあの女性の姿だった。
遠くからでも彼女は目立っていて、その姿に目を奪われる。
だが、あれは本当にあの時の女性だろうかとも思った。
なぜなら、容姿は同じなのだが立ち振る舞いが全く違うのだ。
先日はオロオロしていて、顔を隠すように俯き、自信なさげな態度だった。
なのに今日は、背筋をピンと伸ばし、堂々とした優雅な振る舞いで、上品に微笑みながら、要人を相手に楽しげに会話を繰り広げている。
あまりの違いに驚きを禁じ得ない。
彼女のパートナーに目をやると、僕も良く知っているプラハ議員のアンドレイだった。
(なぜ彼女がアンドレイと?短期の旅行者じゃなかったのか?)
そのまま元会長夫人をエスコートしながら、僕は遠巻きに彼女を観察する。
彼女は流暢に英語を話しいるし、それだけでなくどうやら相手によって、態度や仕草まで調整しているようなのだ。
こういう場にも慣れているように見える。
彼女を見ているうちに、僕にはあるアイディアが浮かんできた。
(そうだ、彼女こそ都合の良い女性じゃないか。容姿端麗で英語もでき、パーティー慣れもしている。先日と今日の違いからも、自分を作ることに長けているのだろう。いや、演じるのが上手いのかもしれないな。しかも、たぶん僕に全く興味がない。求めていた人材の要件にピッタリじゃないか!)
つい先程あり得ないと諦めた条件に当てはまる女性が目の前にいるのだ。
これはチャンスに違いない。
そうとなれば、確実に承諾させるために、僕はあらゆる状況を想定した策を練り始める。
(まずは彼女が短期の旅行者なのかそうでないのかを確かめた方が良いな。そのうえで、何が彼女に響く言葉なのかは話しながら探るとしよう)
そう方針を決定すると、元会長夫人に一言断りを入れ、僕はアンドレイの方へ足を進めた。
アンドレイに挨拶し、彼女に視線を向けると、彼は彼女を紹介してくれる。
『紹介するよ。こちらは今日の僕のパートナーの環菜。僕の恋人の友人なんだ。環菜、こちらは日本大使館の智行だよ』
『初めまして、秋月環菜です』
秋月環菜と名乗った彼女に、僕はあえて先日会ったことを話題にして反応を探る。
そして肝心の確認事項だった短期滞在なのかいなかも聞き出すことに成功した。
短期滞在ではなく、アンドレイの恋人の家に居候していることが分かり、これですべての条件が満たされた。
いつもの笑顔を作って微笑みかけるのだが、やはり彼女は先日と同じく、どこか警戒した色を目に浮かべている。
全く僕に興味がなさそうなのも、改めて確認することができた。
そしてここからが本番だ。
『アンドレイ、少し環菜さんを借りてもいいかな?ちょっとお願いしたいことがあって。日本人に手を貸してもらえるとすごく助かるんだ』
日本人である彼女だからというもっともらしい理由を述べ、断りにくい状況を作る。
案の定、アンドレイは何の疑問も持たずに快諾し、彼女は相変わらず警戒していたものの外堀を埋められて仕方なくといった感じで承諾した。
彼女を連れ出すことに成功し、そのまま人目のない場所へ誘導する。
せっかくだから桜でも見せて、場の雰囲気を和ませれば言葉を引き出しやすくなるかもという計算もあり、僕は外へ彼女を案内した。
目論見通り、幻想的な桜の光景に彼女は目を奪われている様子だった。
桜の木の下にいる彼女は、桜色のドレスを着ているのと彼女自身が持つ柔らかな雰囲気のせいで、さながら桜の妖精のようだ。
思わず見入ってしまいそうになったのを振り払うように、僕は本題をストレートに切り出した。
「僕の婚約者を演じてくれませんか?」
その言葉にピクっと反応し、彼女は驚きで目を丸くする。
驚きが過ぎ去ると、言葉の意味が理解できないというふうに、怪訝な顔をした彼女は説明を求めてきた。
僕は聞かれた質問にすべて滑らかに答えていく。
このあたりは事前に想定していた流れで、聞かれることも予想の範囲内だ。
これまで外交官として駆使してきた交渉力をフル活用し、相手の納得を引き出すように話した。
説明を重ねると、彼女の顔にも納得の色が広がっていく。
また、僕は彼女の反応を観察していて、彼女が「演じる」というワードにだけ大きく心を動かすことに気づいた。
(なるほど、ここが彼女の響くポイントかな。このあたりを攻めてみるか)
なぜ私なのかと聞かれ、いくつか理由を挙げる中で僕はこんなふうに彼女の演技力を褒めてみる。
「先日街で偶然会ったじゃないですか。あの時の印象と今日が全然違うからです。最初は同一人物かどうか目を疑いましたよ。それに今日も様子を見てたら、話す相手に合わせて微妙に口調や態度を変えているように思ったんですよ。だから過去に演じるようなことを経験されたのかなと思って。当たってます?」
「‥‥よく見てらっしゃいますね。当たってます」
彼女は顔にこそ出さないが、やはりどことなく嬉しそうな雰囲気だ。
(あともう少しで落ちてくれそうだな。もうひと押しか)
「そして最後に、これが環菜さんにお願いしたい一番大きな理由なんですが‥‥」
「大きな理由?」
「ええ。あなた、僕に全く興味ないですよね。むしろ警戒されてる感じかな。婚約者役をお願いしても、それで勘違いされることはないだろうし、好意を持たれることもないかなと思いまして」
「な、なるほど‥‥!」
彼女はいたく納得したようで、何度も深く頷いている。
もしかすると、容姿の優れた彼女も僕と同じように異性から勘違いされて困った経験が多いのかもしれない。
同じ経験に共感してくれたに違いないと思った。
「では引き受けてくれますか?」
「‥‥わかりました」
こうしてようやく僕は彼女の合意を引き出すことに成功した。
そのあと、契約内容や条件などを詰めていく。
気が変わらないうちにサッサと決めてしまいたいところだと思い、考える暇を与えないように主導権を握りサクサクと進行させた。
細かい設定を決めようとなった時、急に彼女がイキイキとし出したのには驚いた。
自分からアイディアを出してきて、嬉々として話しかけてくるのだ。
まるで演じるのが楽しみと言わんばかりの自然な笑顔が溢れていた。
いつも警戒する目ばかり向けられていたから、こんな顔もするのかと新鮮に感じる。
設定が昔馴染みということになり、それじゃあ敬語はやめて呼び方も変えようと提案し、僕自身がまず話し方を砕けたものにした。
すると彼女は少し照れたように動揺していて、それがなんだか可愛いかった。
ちょっとからかってみたくなり、僕は迫るように彼女に笑顔で詰め寄る。
「敬語になってる。早く慣れてね。あと僕の名前、ちゃんと言える?」
黙り込んでグルグル考え込む彼女を尻目に、心の中でほくそ笑んでいると、突然ばっと顔を上げた彼女は、上目遣いで僕を見上げてきた。
そして‥‥
「智くん‥‥?」
と思いもしなかった呼び名を口にしたのだ。
これには絶句してしまい、僕としたことがしばらく素で固まってしまった。
(なんだこれ。すごい破壊力なんだけど‥‥。彼女はこれ天然でやってるんだろうか)
彼女を見やると全く狙った様子は見受けられず、けろっとしている。
すぐに僕も平然を装い、いつもの笑顔作ると話を変えるように彼女の住環境について尋ねてみた。
これから住むところを探す予定だというので、今回のお願いで彼女にメリットを与えるためにちょうど良いと思い、同居を提案してみる。
驚いて目を見開く彼女は断ってきそうな雰囲気だったので、僕は彼女の弱い言葉をそっと添える。
「そんなに驚くこと?役作りの一貫だと思えばいいじゃない。それに家賃はもちろんいらないし、環菜が婚約者役を引き受けてくれることのメリットにもなると思うんだけど、どうかな?」
きっと「役作り」という言葉がヒットすることだろう。
その見込みは正しく、グラリと心が揺れる様子が伺え、最後には僕の申し出を素直に受けることにしたようだった。
女性と暮らすなんて考えられないと思っていたけど、僕にこんなに興味のない彼女となら面白そうだと思った。
それに彼女と婚約者のふりをすることになるのだが、どんな感じになるのかも楽しみである。
すっかり当初の目的を忘れて、単純に楽しんでいる自分に僕は全く気づいていなかったーー。