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翌朝
俺はいつもよりも少し早く目が覚めた。
カーテンの隙間から、朝日が射し込んでいるのが見える。
枕元に置かれたスマホを見ると、時刻はまだ5時前
「はあ……」
思わずため息が出る。
仁さんの告白は衝撃的だったが
それでも彼のことを見る目が変わるとか、そんな感情は一切なかった。
ただ…どう接していいのか分からなくなるのだ。
仁さん自身が『忘れてくれていい』と言ってくれたのだから
今まで通りで良いはずなのに、それができそうにない自分がいる。
布団の上で体を起こすと、全身に倦怠感が襲ってきた。
昨日は結構歩いたり、買い物をしたりしたから疲れているのだろう。
しばらくその場でぼーっとしていたが6時前には朝食を摂って
動きやすい服に身支度をして、花屋に出勤しなければならない。
それを考えると贅沢に二度寝もできないので
5秒ルールでベッドから降りた。
キッチンで電気ケトルに水を注ぎ、カチリとスイッチを押した。
湯が沸くのを待つ間に、棚からインスタントコーヒーの瓶を取り出し
お気に入りのマグカップにスプーンで粉を落とし入れる。
続いて冷蔵庫を開け、牛乳を取り出した。
それを小鍋に移して火にかける。
弱火でゆっくりと温めながら小さな泡立て器で優しくかき混ぜていくと
白い牛乳の表面に次第に湯気が立ち上り
コーヒーの香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。
やがて、その白い水面は温かな優しいブラウンへと変わっていった。
それを確認し、俺はマグカップに注がれたホットコーヒーを一口すする。
ふうっと一息つき、温かさが体にじんわりと染み渡る。
「よしっ」
小さく気合いを入れ、部屋着の袖を肘までり上げた。
朝食を作り始める時間だ。
まずは冷蔵庫から冷えたアボカドと真っ赤なトマト、そして薄切りにした豆腐ハムを取り出す。
全粒粉パンは軽くトースターで温め、香ばしい香りがキッチンに広がる。
アボカドは半分に切り、種を取り除いてスプーンで身をすくい出し、フォークで軽く潰す。
そこに塩コショウと少量のレモン汁を加えて風味を整える。
トマトは薄い輪切りに、豆腐ハムも食べやすい大きさにスライスした。
温まったパンに潰したアボカドをたっぷりと塗り広げ、その上にトマトと豆腐ハムを彩りよく並べていく。
もう一枚のパンをそっと重ねれば
見るからにヘルシーでボリューム満点なサンドイッチの完成だ。
次にヨーグルト
大きめのボウルにプレーンヨーグルトをたっぷりと盛り
ザクザクとした食感のグラノーラを惜しみなく加える。
冷凍のミックスベリーを彩りよく散らせば
ひんやりとして見た目も鮮やかな一品になった。
サンドイッチとヨーグルトをトレイに乗せ、淹れたてのコーヒーとともに食卓へ運ぶ。
窓から差し込む朝の光が、料理を一層美味しく見せていた。
席につき、まずは大きく口を開けてサンドイッチにかぶりつく。
アボカドのまったりとしたコクとトマトの爽やかな酸味
豆腐ハムの程よい塩気が絶妙なハーモニーを奏で
全粒粉パンの香ばしさがそれを包み込む。
噛むほどに体が目覚めていくようだ。
サンドイッチの合間に、ヨーグルトをスプーンで掬う。
ひんやりと冷たいヨーグルトと、グラノーラのサクサクとした食感
そしてベリーの甘酸っぱさが口いっぱいに広がる。
コーヒーを一口飲み、ふと時計に目をやると
まだ時間に余裕があることに気づいた。
こんな風にゆっくりと朝食を味わえるのは、ささやかな贅沢だ。
食べ終えた食器を流しへ運び、蛇口をひねって水を出す。
食器用洗剤をスポンジに含ませ、泡立てながら一つ一つ丁寧に洗っていく。
サンドイッチの皿、ヨーグルトのボウル
マグカップ、そしてコーヒーを温めた小鍋。
洗い終えたら、水気を切って食器乾燥機に並べた。
最後に濡れた布巾でテーブルとキッチンのカウンタートップを綺麗に拭き上げ、使った食材を冷蔵庫に戻す。
ケトルも元の位置に戻し
使った調味料もきちんと棚に片付けた。
すべてが元の場所に収まり、キッチンは再び元のすっきりとした状態に戻った。
(よし、これで完璧だ…)
身支度を整える前に、もう一度大きく伸びをする。
完璧な朝食と片付けを終え、今日の仕事に向けて心も体も準備ができた。
時間もあったので、朝からシャワーを浴び
風通しのいい白いワイシャツと黒のパンツに着替える。
動きやすさを重視したいつものスタイルだ。
リビングに戻ると、小さなサイドテーブルに置いていたトートバッグを手に取った。
中には家の鍵、携帯電話、財布、抑制剤
全てが揃っていることを確認し、バッグを肩にかけた。
時計を見れば、針はちょうど午前5時50分を指している。
開店まであと約1時間。
俺の花屋は朝7時には扉を開ける。
家を出て、朝日が差し込む静かな住宅街を歩き始めた。
店までは徒歩10分ほど。
毎朝通い慣れた道だ。
鳥のさえずりが聞こえ、すれ違う人もまばらなこの時間が、一日の始まりを告げる。
(よし、今日もがんばろ…!)
心の中で呟きながら、俺は馴染み深い店の前へとたどり着いた。
シャッターを下ろし、鍵を開ける。
カチャリと音を立てて扉が開き
店内特有の、土と花の混じり合った香りがふわりと鼻をかすめた。
胸いっぱいにその香りを吸い込み、開店準備に取り掛かった。
◆◇◆◇
午後1時──…
俺は花を売っている最中、ラッピングしている最中も仁さんのことが脳裏にチラついていた。
仁さん、酔ったときに俺のことどう思ってるかって瑞希くんに聞かれて
あわよくば抱きたいとか言ってたけど……
今までどれだけ酔っても2人きりになっても手を出されたことは無いし
何より、俺がヒートになったときにも
普通にあんな強いフェロモン振りまくりが隣にいたと知ったら
すぐにでも強姦しそうなところなのに
仁さんは衣服を貸してくれて、薬まで買ってきてくれた
それどころか
俺が怖がらないように気を遣って兄さんを呼んでくれて。
(仁さんって……本当に誠実な人なんだろうなぁ)
人知れず頬が緩んだ。
そんなことを考えているうちに、あっという間に時間は過ぎていった。
◆◇◆◇
その夜───…
深夜0時を少し過ぎたころ
俺は湯上がりの火照った体を冷やそうと、手元の缶ビールを手にベランダの窓を開けた。
冷たい夜風がTシャツと短パンの隙間をすり抜け、熱を持った頬を撫でる。
風で髪も少し乱れて、なんだか無防備な格好だけど
誰に見られるわけでもないし、と気にせず夜空を見上げていた。
そのとき、隣のベランダからカチャリと窓の開く音が聞こえた。
まさか、とそちらに目をやると、仁さんの姿があった。
まさかこんな時間に会うなんて。
彼は慣れた手つきで煙草に火をつけ、静かに煙を吸い込んでいる。
その横顔を見て、なぜだか胸がキュッと締め付けられた。
「……あ」
視線が合った、その一瞬。
俺の口から思わず小さな声が漏れた。
仁さんの目が少し驚いたように見開かれ、けれどすぐにふっと細められる。
俺はその笑顔に、心臓が跳ねるのを感じた。
(仁さん…そんな顔するんだ)
仁さんは、俺を見つめながら、ゆっくりと紫煙を吐き出した。
白い煙が夜の闇に溶けていくのが、なんだかやけに切なく見えた。
そして、その低くて柔らかい声が、静かに耳に届
く。
「……飲んでんの?」
その声が、予想外に優しくて、少しだけ安心した。
俺は手元の缶ビールに目を落とし、曖味に頷いた。
「は、はい。仁さんも、禁煙やめたんですね」
仁さんは、俺の言葉に少し意外そうな顔をした。
「俺、そんなこと話したっけ」
「ほら、この前…酔ったときに、色々言ってたので…」
俺は恥ずかしくなって、思わず頬を掻いた。
仁さんは少し考え込むように眉を寄せ
「あーね」と小さく呟いた。
しばらくの沈黙が、俺たち二人の間を支配した。
夜風が通り過ぎる音と、時折聞こえる遠くの車の音が、この静寂を際立たせる。
缶ビールの冷たさが手にじんわりと伝わってくる。
俺はどこまで動揺しているのか
目の前にいる仁さんが全くの別人に見えてしまう
それに、忙しいだけだろうが
もう3ヶ月ぐらいは俺の店に顔を出してくれていない。
前までほぼ毎日お店に来ては花を買ってくれていたのに。
プライベートに、たまにいつもの4人で飲んだりするだけで、二人で飲むなんてことは激減していた。
何か話題がないかと頭をフル回転させるが
よくよく考えると、俺は仁さんのこと、ほとんど知らない。
好きなものも
趣味も、嫌いな食べ物も。
俺は、仁さんのことを知らなすぎる気さえしてきた。
そんなことを考えている間にも
先に部屋に戻ろうと、仁さんがゆっくりと体をひねり始めた。
もう終わっちゃう。
「あっ、あの、仁さん……!」
そんな名残惜しさに、俺は考えるよりも早く彼の背中に向かって声を掛けていた。
仁さんは、俺の声にぴたりと動きを止め「ん?」と短く答えて振り返る。
再び彼の視線が俺を捉えた。
何か言いたかったはずなのに、いざ向き合うと、言葉が出てこなかった。
喉の奥に引っかかったまま、どうしても紡げない。
「…っ、いや、やっぱなんでも!おやすみなさい」
そう言って、俺は精一杯の笑顔を作って、仁さんに背を向けた。
まるで逃げるように自分の部屋に戻った。
カラリと窓を閉める音は、なぜだか俺の心の中で大きく響いた。
ベランダでの一瞬の出来事が、頭の中で繰り返し再生される。
仁さんと2人きりで話したのも、これが久しぶりだった。
ちょっとだけ気まずい思いはしたけれど、それでもどこか嬉しい気持ちになる。