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仁さんはもう部屋に戻ってしまっただろうか。
俺はベランダの方を振り返りたい衝動を抑えた。
◆◇◆◇
そのまた翌日、11月25日
「はあ?じゃ進展なしってこと?」
瑞希くんが、焼酎を一口飲んで驚いたように声を上げた。
この日は初めてながら、二人きりで飲みにきていた。
場所はいつものバー、AmberLounge
将暉さんは別件があるため不在、仁さんは今日も仕事なのだろう。
「いや、進展っていうか、仁さんは忘れてくれって言ってたから進展も何も無いよ?俺も別に望んでないし…」
俺はマティーニを一口飲んで、目の前のバーカウンターに置いた。
そのグラスの中で氷がカランと音を立てた。
「なにそれ!つまんな〜」
瑞希くんは俺の曖昧な答えに不満そうに口を尖らせる。
「……なんか、最近仁さんと会う機会もなくてさ」
「あんたの花屋にも来てないの?」
「来てない。ここ3ヶ月ぐらいずっと」
「……ふぅん…それでそんな顔してるわけ?」
瑞希くんがまた一口焼酎を飲みほしながら上機嫌な顔で言った。
「えっ、なにが…?」
俺は思わず素っ頓狂な声を上げる。
しかし、瑞希くんは当たり前のような口振りで
「寂しいって顔に書いてる」と言った。
「……へ?」
俺は思わず自分の頬をぺたぺたと撫でた。
一体どんな顔をしていたのか、すごく恥ずかしい。
「あ、これガチね」
からかわないでよ……と呟き、肩を落としてグラスを手に取る。
すっかり氷が解けてしまったマティーニはもう水みたいになっていた。
一口飲み込むも、喉の乾きは一切癒えない。
なんだか全然酔えない気がした。
瑞希くんも手持ちぶさたなのだろう
俺のグラスに焼酎を注ぎ足してくれた。
琥珀色の液体がゆらゆらと揺れる。
目の前で瑞希くんがにやにやしているのを見て、俺はさらに顔を赤くした気がした。
「…別に、寂しいとかそういうんじゃなくて」
なんとか取り繕うように言葉を紡ぎ出すが
瑞希くんはくすくすと笑うばかりで、全然信じていないのがありありとわかる。
「あーはいはい、分かった分かった。」
「……だから、違うってば」
俺の反論は、酔って呂律が回らない彼の言葉にかき消された。
店内のジャズが妙に心地よく響き、俺たちの会話を包み込む。
カウンターの向こうでバーテンダーがシェイカーを振る音が軽快で
グラスが並ぶ棚の照明が煌びやかに輝いていた。
いつもは落ち着くはずのこの空間が、今日はやけに落ち着かなかった。
仁さんと会えない日々が、俺の日常に静かに影を落としていた。
花屋に来なくなっただけじゃない。
一緒に飲むこともぱったり途絶え、まるで俺の生活から忽然と消え去ってしまったかのようだ。
それぐらい俺は仁さんを当たり前のように感じていたのかもしれない。
呼吸をするように、彼の存在は俺の日常に溶け込んでいた。
だからこそ、突然それが失われた今
こんなにも胸にぽっかりと穴が開いたような感覚に襲われる。
それでもたった3ヶ月だし、仕事が忙しいんだろうと自分に言い聞かせていた。
「で?どうすんの?ぶっちゃけ会いたいんで
しよ?」
瑞希くんの声が、思考の沼に沈んでいた俺を現実に引き戻す。
「でも…なんか、俺……全然仁さんのこと知らないのかも…と思ってきて。会っても、話題が見つからなくて……」
俺はマティーニの残りを一気に煽り、空になったグラスをカウンターに置いた。
喉が焼けるような感覚が、わずかに体の熱を取り戻した。
「言い訳いいから、要するにあんたは会いたい
の?」
瑞希くんの真っ直ぐな言葉に、俺は思わず目を逸らした。
「え、うん、まあ」
アルコールのせいで回らない頭でなんとか言葉を絞り出した。
「ふーん」
瑞希くんが意味深に呟く。
その目は俺の深層心理を覗き込むようで、居心地が悪かった。
そして、また焼酎を一口飲んだ。
「ま、面白そうだし俺が協力したげる」
瑞希くんはにやりと笑い、俺の空になったグラスを指で軽く叩いた。
「…え?」
呆然とする俺に、瑞希くんは何も言わず、ただ笑みを深くするだけだった。
◆◇◆◇
それから4日後の朝方
ここ最近、髪が伸びてきたこともあり
気分転換に髪染めもしたい衝動に駆られていた。
ちょうど、昨夜の仁さんの
風になびく紫色のウルフカットが凄く綺麗だったことを思い出した。
夜の闇と街灯の光の中で幻想的に見えて、俺の心に深く残っていた。
あの鮮烈な記憶が、今、俺の背中を押した。
「よし、ここは大胆に紫にしよう」
そう決めて、俺はいつものヘアサロンの扉をくぐった。
店ののドアを開けると、受付にいた店員さんがにこやかに迎えてくれた。
「いらっしゃいませ。今日はどうされますか?」
俺は迷いなく、今日の希望を伝えた。
「シャンプーとカットとヘアカラーでお願いします」
「畏まりました。荷物をロッカーに入れられましたら、10番の席にかけてお待ちください」
そう言われて、俺は指示通りに荷物をロッカーにしまい、鍵をかけると指定された10番の席へと向かった。
それから20分ほどして担当してくれる女性が笑顔で迎えてくれた。
「今日はどんな感じにされますか?」
俺は目の前の鏡越しに店員さんの目を見て理想の髪色を伝えると
「黒髪ベースで、光に当たると紫っぽく見えるラベンダー系のグラデーションにしたいです!派手すぎず、透明感とやわらかさを出したいんですけど……できますか?」
女性は俺の髪を丁寧に触りながら、言った。
「なるほど、ラベンダー系のグラデーションですね。光に当たるとさりげなく紫がわかるように、でも普段は派手に見えないように…….透明感とやわらかさも、もちろんです」
「現在の髪の状態だと、一度明るくしてから色を入れる必要がありそうですね、毛先に向かって自然なグラデーションになるように、丁寧にブリーチさせていただきます」
「ダメージは最小限に抑えますのでご安心ください」
女性の説明に、俺は深く頷いた。
まずはシャンプー台へ案内されて、施術前のシャンプーが始まった。
温かいお湯が頭皮を優しく洗い流してくれて、指の腹で丁寧にマッサージされる感触が心地よい。
日頃の疲れがじんわりと溶けていくようだった。
泡が頭の上でふんわりと立ち、フローラルの香りが鼻腔をくすぐる。
(気持ちいい……)
俺は思わず心の中で呟いた。
シャンプーが終わると、次はカット
女性は鏡越しに俺の顔を見ながら、慎重にハサミを入れていく。
仁さんの髪色に惹かれたのもあるけど
以前から挑戦してみたかったスタイルだったし、それに合わせて自分の髪質を利用したくせ毛風パーマもお願いした。
「今回は少し丸みのあるマッシュウルフに、自然なくせ毛風パーマをかけますね。ストレートとはまた違う、柔らかで動きのある印象になりますよ」
サクサクとハサミの音が響き、俺の髪が軽くなっていくのがわかる。
パーマ液の独特な匂いが漂い、髪にロッドが巻かれていく。
◆◇◆◇
数分後
ロッドを外すと、髪の毛は自然なウェーブを帯びていた。
鏡に映る自分の姿が、新しい自分へと変わっていく予感に胸が躍った。
パーマとカットが終わると、いよいよカラーリングだ。
女性が調合したであろうカラー剤を目の前に置いた。
ほんのりとした甘い香りがする。
今回はブラックアッシュをベースに、毛先にはヴァイオレット系のグラデーションだ。
「では、まず毛先からブリーチで明るくしていきますね」
「狙ったヴァイオレットの発色を出すために、色の抜け具合を慎重に確認しながら進めます」
冷たいカラー剤が、丁寧に小分けにされた髪の毛に塗られていく。
コームで均一に馴染ませて、ラップでくるむ。
ブリーチ剤を塗布されてる間
俺は時折、仁さんの揺れる紫髪を思い出し
どんな仕上がりになるだろうかと期待に胸を膨らませていた。
しばらくして、田中さんがブリーチの具合を確認し、丁寧に洗い流してくれた。
そして、いよいよ本命のブラックアッシュとヴァイオレット系グラデーションの塗布が始まった。
「根元から中間にかけては深みのあるブラックアッシュを」
「そして毛先にはブリーチで明るくした部分から、自然なグラデーションになるようにヴァイオレットの色味を重ねていきますね」
「黒髪との境目が自然になるように、ぼかしながら塗布していきますので」
ブラシで丁寧にカラー剤が塗られていく。
頭全体にひんやりとした感触が広がり、サロン特有の薬剤の匂いがする。
窓から差し込む午後の光が、鏡に映る俺の顔を明るく照らしていた。
俺は目を閉じ、じっとカラー剤が髪に浸透していくのを待った。
カラー剤が髪に馴染むまで、しばらく時間をおくため雑誌を読んだり
スマートフォンの通知をチェックしたりしながら、俺はぼんやりと時間を過ごしていた。
時折、女性が様子を見に来て、髪の色の入り具合を確認してくれる。
「いい感じに色が乗ってきましたね。もう少しで洗い流しますので」
田中さんの言葉に、俺はそっと鏡を見た。
まだ濡れてるから、はっきりとはわからないけど
確かに髪の毛の印象が変わってきてる。
やがて、カラー剤を洗い流す時間が来た。
シャンプー台へ移動し、再び温かいお湯が頭を包み込む。
今度は、カラー後のケアシャンプーだ。
泡立ちがよく、髪の毛がキュッキュと鳴る。
カラー剤の残りをしっかりと洗い流して、トリートメントをたっぷりとつけてくれる。
女性の優しい指使いで、トリートメントが髪全体に行き渡っていく。
髪の毛がとうるんと滑らかになるのを感じる。
トリートメントを洗い流し
席に戻ると、いよいよドライヤーの時間だ。